ミジカ
ひーちゃん。
本名、郡上陽織
深月が郡上のあだ名である、ひーちゃんという言葉を聞いた瞬間、頭が空になった。
ただただ静寂が包んだ。
平静、沈静、閑静、安静、静粛、開静、虚静、寂静、静圧、静穏、静音ーーーー
学校の話より苦手だ。
シニカルに嘲笑い、何もかも見透かしたような透き通る瞳、全て否定するような怒濤の饒舌さ、辛辣でありながらどこか優しさを孕んだような飴と鞭、学校一の頭脳を持ち、保健室に入り浸っている僕の幼なじみ。
いつから親しくなったのかよく分かっていない。いつの間にか僕の隣で笑っていた気がする。少しぎこちなくも見える笑顔がやけに脳裏にこびり付いている。
それが嫌なわけではないが、今の陽織と照らし合わせるとギャップでしかないのだ。
現在の成れの果てである陽織と幼き記憶が創造している陽織とでは全くの正反対。
そんな僕と同い年で同い学校、立待岬高校に通う郡上陽織は昔から変わらない事が二つほど存在する。
一つ目は家が隣同士であること。幼なじみだから同じ区間での幼なじみ関係ではなく、ベランダを伝って毎朝おはようからおやすみまでお世話になれるレベルの密接具合。
上記のことを陽織にされると生き地獄でもある。
朝は辞書で頭を殴られ起床、夜なんて陽織のお喋りだけで夜が更けてしまうことも何度かあった。
嫌というわけではないが、楽しみかと言われるとそうではないのだ。
つまりどちらでもない。しかし、自分の日常を感じる部分なのか安心はしているのか。
自分がまだ学生であること、子供であることを自覚する時間あるかもしれない。
深月の家を後にしてから、ひーちゃんこと陽織のことを思考していたら僕の家についてしまった。
深月の家は真っ白な外壁が特徴の一軒家なのだが、僕の自宅はマンションなのだ。
だから陽織は僕と同じ階の一つ隣の号に住んでいることになる。
それがかなり重要になってくるのだ。
僕は少しだけ覚悟を決め、自分の家をノックする。
コンコンーーーと控えめに叩く。
すると扉一枚越しから微かに声が漏れた。
「やぁやぁ…この私が…」
生憎、母親と妹は帰りが遅くなることを予め知っていた僕の覚悟はどうやら良かったらしい。
さぁ、覚悟をさらに決めようか。
ガチャーーー
「やぁやぁ!待っていたよ、静。どれくらい待っていたかと言うと下校してから自分の家にも帰らずそのまま静の家にお邪魔してるから、五時間くらいになるかな!大阪から東京往復しちゃうよ!」
「わかりずらい例えだね」
「む、もっと分かりやすく言えばシャトルラン2000周…」
「もっとわかりずらくなっちゃってるから、2000周ってもはや人間卒業しちゃってるよ」
「私は500が限界だったよ、スリッパ脱げちゃって。まぁどうでも良い話は植木にでも埋めておいて。さぁさぁ入って」
「色々ツッコミどころがあるけれど、そうさせてもらうよ」
僕を出迎えてくれた彼女こそ、僕の幼なじみであり、天敵でもある、郡上陽織である。
肩まで伸びた白髪は潔白の証であり、黒き瞳は闇をも呑み込むほど深みがある。身長は深月より小さいだろう。
僕は幼なじみの郡上陽織の横をスラッと抜き、自分の部屋を目指す。陽織はドアを締め、鍵をガチャリーーーと閉めた。
そして子犬のように後ろを付いてくる。
そこまで愛らしくないけれど。むしろ、番犬に近いかもしれない。
僕は徐にドアを開ける。
「久しぶりに静の部屋に入ったけど、昔と変わらんな」
「昨日も入っただろうが」
「正確にはさっきも入ったけどね」
陽織は猫のような鳴き声で取って付けたように笑う。
因みに、陽織は無類の猫好きで猫アレルギーというなんとも可哀想な人間でもある。
そのことについて陽織は「薔薇には棘があるだろ?猫にも棘があるからと尚更萌えるんだよ」と言っていたのを思い出した。
「それで今日は何しに来たんだ?」
僕は少しめんどくさい感じを声色に含ませながら、陽織に問う。
「そんな邪険にしなさんなって。いつも通り静と喋りたいだけだよ。静に会いたいかったからさ…」
「体育はラスト一回で欠点だ、他はテストの点数さえ良ければ落ちることはない、聞きたいのはこれだろ。因みに明日は体育だからちゃんと来るんだぞ」
「それは良かった!体育はそろそろ危ないと思ってたんだよね、私運動苦手なんだよ」
「学年一のやつがそれを言ってしまったら僕は虫けらになるよ」
「それは失敬失敬」
陽織は反省の色もない口調で良い放った後、僕のベッドに飛び込んだ。
僕はそれを止めろというが、「そこにベッドがあるからさ、使ってやらないと失礼に値するだろ?んじゃ、リビングから捨ててやろうか?」というので止めることは出来そうになかった。
陽織は仰向けに寝転ぶので、二つのやや大きめの『それ』は主調される。
ましてはダルめの白Tシャツを着ているので、僕を苦しめる形になってしまった。
陽織は自分が魅力的な女性だと自覚は無いのだろうか、幼なじみフィルターを除いたとしても陽織の美形は立待岬では有名なほどなのに。
保健室で籠る『姫君』という噂があるほど。
それも一瞬の噂で消えたのだが。
美しい美形を一度は見ようとするやつ、恋愛関係を築こうとするやつ、そういう奴らは最初の頃は存在していたのだ。
今では誰一人近づく人はいないけれど。
今では保健室で居座る『暴君』の方が似合っている。
理由は、ただ陽織が一蹴しただけのこと。
『見せ物じゃねぇぞ、ささっといねや』と男口調で一蹴したのだ。
ある人には暴行を加えたことにより、一週間の停学と同時に陽織専用の保健室が設立。
通称『陽織ルーム』
学生の教室から一番離れた教室で、ただ空いていた教室にベッド一つ置かれただけなのだが、そんな我が儘が立待岬高校に通用するのは陽織だけだろう。
郡上陽織は立待岬にとって未来ある財産なのだ。
「ところでさ、今日はどこにいってたのさ?」
ベッドは取られてしまったので、椅子に座った途端、陽織に質問されてしまった。
「毎回聞くけどさ、いつも同じ答えしか返ってこないよ。いつも通り深月の家に行ってた」
陽織は深月の名前を聞いた途端少しだけ尖った口調で、「またかまたか、まぁ分かっていたけれど、改めて確認すると腹立たしくもあって、それに静に至ってはお人好しを通り越してーーーー」
哀れだ。
愚かだ。
無様だ。
可哀想だ。
気持ちが悪い。
鬱陶しい。
うざったい。
全てが僕だけに言っているようで言っていないような罵倒の殴打。
怒っている陽織はあまり見たくないので、僕は視線を落としたまま言葉を紡いだ。
「なんで陽織に『まで』言われなきゃいけないんだよ」
「『まで』か、なぜ言われるかなんて、一番静が分かってるだろうに」
陽織は痛い所を突いてくる。幼なじみだからというべきか、感の鋭い陽織だからか。
「静は優しすぎるんだよ。それはもう目に余るほどね。それがいけないとは言ってないんだよ」
目が猫目のように吊り上げていた陽織はそこにはおらず、逆に生暖かい目をこちらに向けてくる。
「なら別にーーーー」
「良くないよ。見てて愚かだと言っているんだ。手を繋いで一緒に逃げ続けようとする二人を見てるとね」
聞いた瞬間、何を言っているのか分からなかった。
逃げ続ける?一緒に?
陽織の言葉だけがグルグルと脳内を駆け回る。
僕はただ彼女ためになればと思って介抱をしてるだけなのに。
陽織は僕の何を見透して、そう発言したのか。
平凡である僕が、非凡である陽織の思考を読み取ることは限りなく不可能に近いかもしれない。
それから彼女は僕のベッドで寝落ちするまで、説教や戯言めいた話を永遠と聞かされることになるのだ。
おやすみ、紅月ーーーー
さようなら、陽織ーーーー
ただゆっくりと眠らせて。
ご愛読ありがとうございました。