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5.熱

 そのあと、遅刻しながらも音楽の授業に出た。

 平常心平常心、と言い聞かせながら譜面を追うものの、目は音符の上を滑るわ歌詞は入ってこないわで、完全に腑抜け状態。

 部活でもサッカー部の練習風景が見える窓際には近寄らないようにした。



 気が緩むとさっきの場面が思い起こされる。

 抱き寄せられたあのときのこと。


 朝陽くん、細いと思っていたけど意外に筋肉があった。

 腕も胸もがっちりしてて、私の知っている朝陽くんの匂いをすごく近くに感じた。

 やっぱり男の子なんだなあ。私とは全然違う。

 あれは一瞬だったけど、ちゃんと抱きしめられたら、私なんてすっぽり包まれてしまいそうで……。


 ――って、わあああ!!

 なに考えてるの!?



「――なにやってるの」

「え」

「頭でも冷やしてるの?」


 向けられた声にはっとする。

 三角巾にエプロン姿の調理部の先輩がすぐ脇に立っていた。

 私はというと、知らず知らずのうちに食器棚のガラス戸に額を押しつけているところだった。

 言わずと知れた、放課後の部活中だ。


「あっ、頭、うんそうです。頭のあたりを少々」

「あはは、変なのー」

気に留めるでもなく、先輩は調理準備室のほうに行ってしまった。


 ――よかった。

 というか、私、今のこれ、またやりそうだ。



「はい」

「なんですか、これ」

 準備室に行ったはずの先輩がまっすぐこちらにやってきて、なにやら白っぽい包みを差し出した。


「額に貼るの。知らない?」

「それは知ってますけど」

 ドラッグストアで売られている、シール状の熱取りシートだ。

「貼るといいよ。熱あるんでしょ? 顔赤いし」


 気持ちいいよ、と先輩は言う。私の『頭を冷やしている』発言をまるまる信じ切っている。

 微笑みまで向けられては私も拒むことができず、先輩も私がそれを使うまで見届けるつもりみたいで。

 覚悟を決めた私はお礼を言って受け取り、言いようのない気分で今となっては熱っぽくもない額に熱取りシートを貼った。



 その選択は誤りだった。

 熱取りシートを貼った時点で、身体の具合が悪いと認めたようなものだった。

 前髪を降ろしていても隙間から青白いシートが見え隠れするし、広くもない調理室で活動している少人数の部なので、日常会話なんて努めて小声にでもしない限り、端から端まであっさり伝わる。

「紗菜ちゃんどうしたのそれ」

「あーなんかね、熱があるんだって」

「えー大丈夫?」

 結果、五分とたたずに誤った情報が部内に広まった。



「紗菜ちゃん、食べたら帰っていいよ」

 こんな日に限って、調理部の活動はプリン製作。

 風邪ひきさんへの手土産みたいで、私の体調不良設定が本人の思いの及ばぬところでどんどん整っていく。


「でも片づけとか活動日誌とか、まだ残ってますし」

「うちらでやっとくし」

「へーきへーき!」

 先輩の優しさが胸に痛いよ。

 色ぼけで赤面してたなんて言えないよ。



 帰り支度が整うと、追い出されるように生徒玄関へ連れて行かれた。

 額には依然として熱取りシートが貼りついたまま。

 傍らには先輩方がいる。

 何気なく前髪をいじるだけで、

「まだ貼ったばっかじゃん!」

「剥がしちゃだめだよ」

「そうだよそうだよ」

と声が飛ぶ。

 いいかげん、取ってしまいたいのに。


 こうなってくると、シートの数時間もの長い効き目がうらめしい。

 貼ったままの外出は医薬品会社も想定していないだろうから、文句を言われる筋合いはないだろうけど。

 誤った処方をしているのはこっちだけど。


「紗菜ちゃん、具合悪いときに格好なんて言っていられないんだよ」

 熱取りシートをくれた先輩に至っては、お母さんみたいなことを言い出す始末。

 なんで私、叱られているんだ?

 先輩方、わかってて面白がって言ってるんじゃないよね?



 そこに通りかかったのが運動部の男子生徒の一団だった。

「お、料理部じゃん」

「料理部なんてあったの? あれ、料理……調理……?」

「どっちでもいー。大差ない!」

「あはは」

「なにしてんの? いじめ?」

「だめだよー、上級生が数に物言わせて下級生いじっちゃあ」

「いじるなら俺をいじれば? あはは」

 一目で先輩後輩の上下関係を見破った彼らは、にこにこしながら結構なジョークをかっ飛ばす。


 ちょうどよかった、と私の横から調理部の先輩が進みでた。

「ねえ、この子と帰る方向一緒の人、いる? 誰か家まで送ってってくれないかな」

 事情をざっくり説明する。

 そのあいだ、私はわずかな期待を抱きながら辺りに目を配っていた。


 もし朝陽くんが来たら、送ってくれるかもしれない。

 逃げるような、あんな去りかたをしておきながらわがままなことを思う。

 できるできないは別として、送りたいって思ってほしい。

 そうあってほしい。


 ――なんて、この場にいもしないのにね。



 狭い地域だから顔見知りはいるもので、どこかで見たことのある顔立ちの細面の先輩がその役目を引き受けてくれた。

 運動部のみなさんはこれからドーナツを食べにいくのだとか。

 ドーナツ。いいな。


 調理部の先輩も合流して行ってしまうと、周囲が急に静かになった。

 じゃあ行こうか、とぎこちなく促されたそのときだ。


「紗菜?」

 辺りには夕闇の気配が漂いはじめていた。

 静寂を揺るがし、一際その声は響いて聞こえた。

「朝陽くん」


 駐輪場の明かりの真下は逆光になっていて、顔はよく見えない。

 それでも、そこいるのが朝陽くんだと確信を持てる。

 彼は自転車を引きながら駆け寄ってきた。

 やっぱり朝陽くんだ。



「俺、送りますから。家も知ってるんで」

「だけど任されたの俺だし」

「俺が送ります」


 先輩が状況説明をするあいだ、私は黙ってなりゆきを見守っていた。

 朝陽くんは頑固に思えるくらい、私を送ると言ってきかなかった。

 それはさっきから私が望んでいた構図だった。



 顔を知っているだけのその先輩には引き留めてしまったことをお詫びし、朝陽くんに送ってもらうことになった。

 二人乗りでもするのかと思いきや、そうはならなかった。

 朝陽くんは自転車を引きながら、意外にも車道寄りを並んで歩いてくれている。


「というわけだから、おとなしく送られてくれる?」

 扱いにくい犬猫を相手にしているような物言いに、含み笑いをしていると、

「なにもしないから」

と言われた。

「なにもしない。絶対触んない。うん」

 私は無言で朝陽くんを見あげる。


 なにもしないと言い聞かせてる。

 それって、本当はなにかしたい、ってことだ。

 だけど私にはあのときのような怖れはなかった。

 私のために、なにもしないと言ってくれている――それで事足りた。



 朝陽くんは軽く首を傾げ、困ったふうに微笑んでから、進行方向に目を戻す。

 不安だったんだ、といみじくも私の胸の内にあったものと同じようなことを言いはじめる。


「幹仁はいいヤツだ。いいヤツだから、友達だから、俺と揉めるような行動を起こすはずないって思ってたんだ。幹仁を信じろ、って自分にも言い聞かせてた」


 うん、幹仁くんはいい人だ。私も何度か助けられた。

 勘がよくて、困っているところをすぐに見抜いて、声をかけてくれる。


「だけど不意に、それは都合のいい解釈かも、ってよくわからなくなって」

「どういうこと?」

「信じ切っているところで、足下をすくわれるんじゃないかという気がして、焦った。幹仁を疑った」

「違うよ」

 私は即座に否定した。

「幹仁くん、そんなことしないよ」


 言っていたもの。ちょうど今日、聞いたばかりだもの。

 友達のものを取るような真似はしない、って。


「わかってるふうなこと、言うのな」

「えっ」


 幹仁くんならだいじょうぶだよ、ちゃんと朝陽くんとの仲を大事に思ってるよ。

 そう伝えたくて反論したのに、朝陽くんは違うように捉えたようで、空を仰いだ。


「このタイミングで、幹仁の肩を持たれるとは思わなかった」


 え。


「結構、堪える」


 違うよ。

 肩を持つとか味方だとかそんな話をしているんじゃない――。



 私の足が止まる。それでもついて行かなきゃと歩こうとする。

 置いていかれないようになんとかついていくものの、涙のほうは無理だった。はらはらとこぼれ落ちた。


 溢れてどうにもならなくて鼻をすすり上げるのと、振り返った朝陽くんが気づいてぎょっとしたのと、どっちが先だっただろう。



「ちょっ……ええ!? マジ?」

 朝陽くんのうろたえる声がする。

 私は俯けた顔をあげることができない。


「なにも泣かなくても……紗菜?」

 のぞき込まれる気配がある。

 返事の代わりに嗚咽が漏れてしまう。ますます涙がこみ上げてくる。

 両手で顔を覆ったまま、とうとう一歩も進めなくなってしまった。


 朝陽くんは自転車を路肩に立てかけると、その両腕で私を支えるように触れた。

「あのさ、泣かすつもりはなくって……俺はただ」


 うまく言葉にできなくて悲しい。

 大切な気持ちが伝えられなくて悲しい。


『俺はただ』? 

 ただ、なんだっていうの?

 心を砕いて、すり減らすまで真剣に向き合って、それで止められなくなっている涙にこれっていうのは……。


 さすがに、腹が立った。


「あったまきたっ!!」


 涙目で睨んだ。


「ん、うぇっ?」

「朝陽くんはなんでそうなの? なんでそういうこと言うの!? そういうことしか言えないの!?」


 怒りに支配されたまま、一息でまくしたてる。

 私の豹変ぶりに朝陽くんは絶句している様子。


「私が朝陽くんとちっとも話せてないから、幹仁くんは気を配ってくれてたんだよ。自分が私と仲良くなることでどんな問題が起こりうるか、それだってちゃんと考えてたよ。そう言おうとしたのに、人の話を聞かないで、なんでわかったふうだとか、幹仁くんに肩入れするとか、そんな……そんな……」


 訴える自分の唇が震えている。

 通行人が好奇の目を向けている。

 そんなのわかってる。

 自転車をそのままにして、朝陽くんは私を脇の路地まで移動させた。


 状況も感情も、自分ではどうすることもできなかった。

 悔しい。悲しい。

 そして、苦しい――。


「朝陽くんの言い分を聞きたいけど、これ以上がっかりしたくないと思う自分が……嫌だよ」



 なんでこうなっちゃうのかな。

 窓から見ているだけならこんな嫌な気持ちにならなかった。


 無理だったのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

 最初から、すべて。

 私と朝陽くんとでは、釣り合わなかったんじゃないかな。


 私だけが振りまわされて、どきどきしたり、落胆したり。

 それでいて朝日くんはなんでもない顔をしているのは、辛い。

 少しのことで舞い上がって思い詰める私には、あまりにも違いすぎてついていけない……。


「朝陽くん」

「うん?」

 意を決して泣きべそ顔をあげる。そこにあった朝陽くんの視線が思いがけず優しくて、揺らぎそうになった。

 ついていけなくても、不釣り合いでも、好き――。


「私をかわいそうな子だって思っているだけならこんなことしないで。今すぐ離して」


 支えているはずの彼のその腕は、私を抱きしめているも同然だった。



 手を差し伸べられたらすがりたくなる。そのままそばにいたくなる。

 でもそれでは今までと同じことの繰り返しになってしまう。

 うやむやにしないで、気持ちにみあった距離でいたいんだ。

 彼氏かもしれないなんて、思いこまなくてもいいように。


「さっき触らないって宣言してたのに、破っちゃってるよ」


 無理矢理笑って言った。そう言えば離れると思った。

 朝陽くんは神妙な顔つきでじっと私を見つめると、おもむろに私を引き寄せ、今度こそ完全に腕のなかに閉じこめた。



「朝陽くん?」


 聞き返す私の声が裏返っていた。狂ったように心臓が音をたてていた。

 抱きしめられるのが本日二度目ともなると、なにかの間違いでも一時の衝動でもないと思うから、祈りのように切実に期待してしまう。


「じゃあ、こうする」

 朝陽くんは抱きしめる力を強くする。

 これ以上ないほどの近い位置で、誰にも聞かせまいとするかのように、その声が伝わってきた。


「紗菜。好きだよ」



 瞬間、これまで彼に向けられてきた眼差しが記憶のなかで鮮明に色づけられ、ぐんぐん迫ってきた。

 好感より強い想いに目眩がする。

 私、ちゃんと想われてたんだ。


 私は抱き寄せられたまま、朝陽くんの名前を呼ぶしかできなかった。

 朝陽くんはそのたびにうんうんと返事をくれた。

 なだめるように私の頭を撫でた。



「他のやつのところになんか行くな」

「行くわけない」


 なにを言っているんだこの人は。

 彼の胸から身を起こしたところで言われ、信じられない思いでその顔色を窺う。

 にこりともしていないところをみると、冗談ではないらしい。

 まだ認識の相違があるようなので、この際だからはっきり言っておく。

「朝陽くんだけが好き。大好き」


 あ、そう、と朝陽くんからは拍子抜けしたような返事があった。

「なら、いいや」

「うん」



 帰ろう、と自転車のところに戻った私たちはこじれにこじれたやりとりなどなかったかのように、当たり障りのない会話をしながら家路についた。


 家のまえまで来たとき、なんとなく離れがたくて、もうちょっと一緒にいたかった。

 だけど、さすがにそうは言い出せなくて、手頃な話題はないかなと必死に探したところ、ひとつだけあった。

 額に貼ったままの熱取りシート。

 朝陽くんには大ウケだった。


「あり得ない! なんでそうなるんだよ、流されるにも程があるだろ」

「相手は先輩だよ!? 心配してくれているんだし、言えるわけないよ」

「そうか?」

「そうだよ」

 片手で顔を隠すように覆って斜に構え、笑いに笑って、指の隙間から覗いた目元には涙が光っていた。


 そういうことあるよね、って言ってくれると思ったのに読み違えた。

 この空気、お互いの気持ちを確かめ合ったばかりのふたりのものじゃないよ……。



「でも、そこが可愛い」

「は?」

 意味がわからず最小限の単語で問う私に、朝陽くんはなぜか呆れた目を向け露骨にため息をつく。顔が赤らんでいるように見えなくもない。

 あのさ、と言い掛け、やっぱりいいやと勝手に取り下げる。


 つい私の手が動いた。

 朝陽くんの半袖を指先でつまんで引いていた。

 私から朝陽くんに触れるなんて初めてかもしれない。

「言って。もう少しわかりたいから」

 朝陽くんの瞳が揺れた。



 なんでもいい。

 そばにいたいだけなのか、声が聞きたいのか、それともさっきみたいな極上の笑顔に出会いたいという我が儘なのか、自分でもわからない。

 朝陽くんの反応がほしくてそうせずにいられないのなら、衝動の赴くままに進んでみたい。


 門扉から仰け反って後ろを見て、それ以外の方位にも目をやったあと、朝陽くんは乱暴に私の手を引き寄せた。

 予測のできない動きにつんのめりそうになる私にすばやくキスを落とした。


 目線を合わせたのはわずかな時間だった。

 ぷいっと横を向いた朝陽くんは、言い訳するように呟いた。

「紗菜が可愛いから、した。俺だけがどきどきしているなんて、ちょっとムカつく」

 その顔は紅潮していた。


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