4.抱きしめられて
幹仁くんから借りているサッカー漫画でも主人公は恋をしている。
少年漫画のヒロインは作者が男性のせいか、あんまり魅力を感じたことがないのだけれど、その物語に登場する子は女の私から見てもかわいかった。
そう言うと、幹仁くんは吹きだした。
「そりゃ作り話だからさ。男の幻想、盛ってるんだよ」
私はこのヒロインがかわいいってことを言ったつもりだったのだけど、少年漫画ヒロイン全般への不満と取ったらしい。
「少女漫画だって同じでしょ。現実離れした王子様みたいなのがわんさかいるじゃん」
「詳しいね」
「いや、まあ。映画とかいろいろあるし」
指摘のようになったひとことに、幹仁くんはごまかすように言葉尻を濁す。
映画で観たんだ。そっか。
「恋愛映画とか、観る人なんだね」
「普段は観ないよ、それが主題のやつは。単館上映している作品のほうが好きだし。でもそればっかりというわけにもいかないだろ」
「どういう意味?」
案外鈍いんだね、と遠慮がちに言われて気づいた。
「ああ、誰かと一緒に観たんだね」
「ふたりならともかく、人数が増えると大衆受けするのを選ぶでしょ。はい、続きはこれでいい?」
私は差し出されたコミックスを受け取るとお礼を言った。
「返すの、月曜でいいかな。明日も明後日も荷物が重たくなる授業だから」
古典とリーダーで使う辞書は学校指定のものだった。兄や姉がいる人でさえも、辞書は改訂があるから、と細かいことをいって入学時に全員が買わされる。
そして予習があるから毎回家に持ち帰らないといけない。自宅では電子辞書を、という手もあるけど、仕上がった文章を先生に追求されることが多いので、表だって使っている子はあまり見かけない。
いちいち面倒なんだ。
「いつも持ち帰ってんの? 辞書」
「うん。え、置いていってるの?」
しばらく思案顔をしていた幹仁くんだったけど、ロッカーを閉めるとこう言った。
「中古品でよければあげよっか? 部活の先輩からのお下がりでいいなら」
「いいの? だってそんなことしたら幹仁くんが困るんじゃ……」
「卒業生が後輩に残していくのがうちの部の慣習なんだ。余っているから気にしなくていいよ」
「お礼とか、そういうの気にしなくていいよ。ほんとは受け取りたいとこだけど、朝陽を差し置いてそれって……ねえ?」
サッカー部の習いなら、朝陽くんに頼んでもいい。
だけど私はそうしなかったし、幹仁くんの言うように特別な謝礼も用意しないことにした。
空き時間に幹仁くんは部室に積んであるという英和辞典と古語辞典を取ってきた。
午後一は選択科目の音楽だったので、香織ちゃんには先に音楽室に行ってもらい、私は 幹仁くんと非常階段の踊り場で立ち話していた。
「ここのところ、朝陽としゃべってないでしょ」
その問いかけは私の答えを必要としていなかった。
「話題なんてなんでもいーんだよ。あいつ、構えて話さなきゃならないような高尚な人間じゃないし、ああみえてアホだよ」
なんていって話しかければいいのか、私がためらっているのは見透かされていた。
人懐っこい朝陽くんは、誰とでも仲良くなれる人だと思っていた。
だから私、なんの心配もしていなかった。こうしているだけでクラスのひとりとして構ってもらえるだろうし、もうちょっと踏み込んだ距離で接することもできる気がしていた。
それでどうなったかというと――なにも変わっていなかった。
部活中に目が合うこともなければ、移動教室での班が同じになることもなく、まるっきり接点がなかった。
漫画の貸し借りがあるぶん、朝陽くん――のお友達の幹仁くんとのほうが仲良くなったくらいだ。
来週で九月も終わる。
一緒に登校したあの朝からもう一月になろうとしている。
「紗菜があいつに興味ないっていうのなら、俺としては別にいいけど」
「そんなことない」
きっぱりと私は言った。香織ちゃんは理解を示してくれたけれど、朝陽くんが私の想いを汲んでくれるかは確信が持てずにいる。
幹仁くんならあるいはわかってくれるかな。
今まで幾度となく、こちらが驚かされるほどの察しのよさを発揮していたから。
私がちらりと見上げると、思いがけず真剣な顔つきでこちらを見下ろす顔があった。
言わなければ。
興味ないなんて言葉は否定しなければ――。
「言えばいい」
うん、幹仁くんに言われなくても私は――。
「好きだって言っちゃえば」
「は?」
問い返すように、交わしている会話を確かめるようにじっと見つめる私。
なぜか幹仁くんは目を逸らして半身を引いた。
「言って、うまくいかなかったら俺んとこにくれば?」
「は? え?」
「マジでわかってないの?」
幹仁くんは困ったような顔をしていた。頬に赤みが差している。
……ええと。
「わからないというよりついていけてないというか」
混乱する頭よりも先に口が動いて、私は自分の説明でやっと腑に落ちた。
そっか、私はついていけてないんだ。
それでも混乱は続いていて、
「……えー?」
それしか言いようがなくて、
「他に反応できないの?」
と、笑いを含んだ声で言われてもなにも言い返せない。
じゃあ勝手にしゃべるけどさ、となぜか幹仁くんは開き直り、本当に勝手なことをしゃべりだした。
「俺だって好きなんだよ。紗菜のこと、いいなって思ってた。周りのヤツのなかにも紗菜を気に入ってるっぽい発言するのがいたし、まあそいつらはどうでもいいし、そいつらがどこまで本気なのか知らないけど」
至近距離から強い目を向けられる。
私は動けなかった。
「俺だって友達とこじれるのは避けたいと思ってる。人のものならともかく、友達のものは取れないし、取るつもりもない」
異性からこんなに熱く睨むように見られたことなんてない。
「ただ……」
痛いくらいだったその視線が和らぐ。
「あっちにその気がないのなら、話は違ってくるよね」
優しいなかに妖しい気配が潜んでいて、そうかと思えば次の瞬間くすっと笑われた。
「紗菜ってさ、自分を持ってるくせにスポンジみたいにこっちに反応してすうっと染まるから、男としてはもっと構いたくなるんだよ。これだけ見てくれたら気にせずにはいられないし、なかには俺みたいに好きになっちゃうヤツもそりゃあ出てくるだろ」
私、今、ものすごいことを言われている――とあさっての方向から観察力が働く。
「俺だって男だから、紗菜に好感を持つヤツの気持ちは共感できる。同時に、無防備すぎる君のことが不安というか、そんなんで大丈夫かと目が離せなくて心配にもなるわけだ。今まさにここ」
端から見てのこのときの私は、相当、呆然としていたのだと思う。
そのあと、近くにいた幹仁くんがさらに間合いを詰めてきたのを他人事のように受け流した。
なんだか迫ってきたなと思ったのは覚えている。
気がついたときには、幹仁くんの唇が私の左側の頬をかすめていた。
「――なにしてんだよ」
そのとき、急にどこかから尖った声がした。
驚いているまに腕を強く掴まれる。
「朝陽」
「朝陽くん」
私の腕を取ったのは朝陽くんだった。痛いほどの力で幹仁くんから引き離された。
「行くぞ」
有無を言わせない勢いで、朝陽くんは私を引っ張っていった。
下り階段を踏み外しそうになりながら、必死に朝陽くんについていく。
私が女の子だというのを忘れているんじゃないかという勢いだった。
でも、一瞬だけ見えた無表情の横顔を思ったら、なにも言えなかった。
ものすごく怒っているふうに思えた。
「チャイム鳴ったね」
「授業、さぼっちゃうの?」
私が話しかけても朝陽くんは答えない。無言を貫いている。
降りきった非常階段の二段目に、私たちは並んで座っていた。
開いたままの防火扉は裏庭に通じていて、その向こうにテニスコートとグラウンドが広がっている。生徒の姿はそのどこにもない。
「紗菜」
「……なに?」
私を呼んだ朝陽くんはこちらを見ていなかった。
名前を呼んでもらえた喜びはそんな些細なことで立ち消えた。
なに、じゃないよねと言った私自身でも思った。
幹仁くんのあれはどう考えてもキスだ。
思い返しただけで顔に血が逆流して熱くなる。頬をかすっただけだと言い聞かせてもうろたえる。パニックになる。
どうしよう、どうする!?
こんな調子じゃあ私、きっと言い逃れはできない――。
審判を待つように私は身体を固くして、スカートのうえに置いた手をぎゅっと握りしめる。
「友達が告るところを見たことはある?」
「ないかな」
「うん。俺もだ」
私が慎重に答えると、俺もなかった、と朝陽くんは言い直した。
今、私の隣にいるのは朝陽くんだ。
なのに、これまでの幹仁くんとのやりとりが、否応なしに思い出される。
『お礼とか、そういうの気にしなくていいよ。ほんとは受け取りたいとこだけど、朝陽を差し置いてそれって……ねえ?』
『好きだって言っちゃえば』
『言って、うまくいかなかったら俺んとこにくれば?』
それに、私の作ったお弁当を朝陽くんが口にするように仕向けて、
『よかったね』
屈託なく笑みを寄せてくれた。
自分の想いよりも友達を選んで。
今更ながら胸が痛んだ。
ううん、今だからこそ痛むんだ。
あのとき、笑顔の裏にそんな想いが隠されていたなんて知らなかったから。
視界が揺らぎ、白く霞がかっている。
あ、私、涙目になってる。
……泣いてるって、気づかれないようにしないと。
「非常階段のとこにふたりが行くのが見えたんだ。あれっと思って、次は移動教室なんだから歩きながら話したっていいのにとちらっと思って、それで」
「……うん」
「あとをつけるつもりも立ち聞きするつもりもなかった」
「……そうなんだ」
もうこれは五時間目サボり決定だな、と頭の端っこで考えた。
朝陽くん、ショックだったんだろうなと思った。
私だって打ちのめされているんだから当然だ。
とはいえ、どこからどこまで耳にしたのか気がかりでもあった。
確かめようとして至近距離にいたことも忘れてなんの用意もなく横を向くと、視線がぶつかった。
あっと思った、その直後――。
私は朝陽くんに抱きしめられていた。
制服の半袖から伸びた筋肉質の腕。荒っぽい仕草。素肌の質感の違いと熱。
気が動転した。
無言で身体を押しのけてはじかれたように距離を取ると、座ったままの彼を見おろした。
朝陽くんは上目遣いでこちらを見ていた。
怒ったような泣きたがっているような複雑な表情。
かすかに視線が揺れている。
ごめんと言われたのだったか、名前を呼ばれたのだったか、よく覚えていない。
私はその場から走って逃げた。