去り時
「靴が乾いたら、そろそろ帰ったほうがいいね。こちらは時間の進みがすごくゆっくりだけれど、帰りがあまり遅くなると家の人が心配するだろうから」
どれだけ経ったころか、ふいに柿本くんが言った。
わたしはどきりとして、目を閉じる。
いよいよ、この時がきてしまった。
いつまでもこなければいいと願っていたのに――。
「……柿本くんは、なんで戻れなくなってしまったの?」
柿本くんと別れたくなんてない。
これきり、柿本くんともう会えないかもしれないなんていやだった。
ここ最近、保健室に行っても柿本くんがいなくて、なんだか寂しかった。
柿本くんがよく腰かけていた長椅子の端をぼんやりと眺めながら、いつ登校してくるんだろう、とぼんやり考えたりもした。
でもまさか、もう戻って来ないかもしれないなんて、考えもしなかった。
もっと、ずっと一緒にいたいと、心から思う。
「帰りたいと思う気持ちが、すごく薄れてしまったから、かな」
ぽつりと呟くような声が、耳に届いた。
「どうして?」
「僕は頻繁にこちら側に迷い込んでいたから、こちらに馴染んでしまったのかも。それに、あちらには僕の心を留められるようなものがないからね」
わたしは目を開けると、首をひねって隣の柿本くんを見た。
柿本くんは、相変わらず空を見上げている。
近くで見たら、意外とまつげが長いことがわかる。首筋にほくろがふたつ並んでいることに初めて気づいた。
「心を留められるもの?」
「沢崎さんの場合は家族かな? 帰りたい場所がある限り、あちらに戻れるはずだよ。僕の場合は、それがないからね……。うちは母親が早くに死んでいるし、父親は仕事が忙しくてなかなか帰って来ない。あちらに僕を待っている人はいないし、正直、楽しいこともあまりないしね。だからかな。いつものように自分の部屋を思い浮かべて、帰りたいと念じたんだけれど、戻れなかったんだ」
喋るたびに動く喉仏を見ながら、わたしは柿本くんの声を聞いていた。
わたしの視線に気づいたのか、柿本くんがこちらを見た。
すごく近い距離で、わたしたちは向かい合う。柿本くんの漆黒の瞳が、すぐ傍にある。
わたしはその瞳を真っ直ぐに見つめた。
「――わたしじゃ、駄目かな?」
「え?」
「わたし、むこうに戻ったら、柿本くんのことをずっと待つよ。わたしはまた柿本くんに会いたいし、もっと一緒にいたいって、すごく思ってる。これきりなんて、いやだよ。柿本くんは、わたしにそんな風に思われるなんて、迷惑かな?」
わたしは自分の気持ちをありったけこめて告げると、視線を逸らさずに訊いた。
柿本くんの瞳が、微かに揺れたような気がした。
「迷惑だなんて、そんなわけないよ」
「じゃあ、戻って来てくれる?」
「沢崎さんに、会うために?」
「そう。わたしじゃ、駄目かな?」
再度問いかける。心臓がばくばくと早鐘を打つ。
けれどそれを押し隠して、わたしは柿本くんに尋ねた。
柿本くんの表情が僅かに歪む。一瞬、柿本くんが泣くんじゃないかと思った。
「そんなわけ……そんなわけ、ないじゃないか」
泣きはしなかったけれど、その声は擦れている。
「柿本くん……」
「本当に、僕を待っていてくれるの? 僕なんかを?」
「自分のことを、そんな風に言わないで」
わたしは懇願する。
「ありがとう。わかった、戻れるよう努力するよ」
柿本くんが、しっかりとうなずきながら言う。
「絶対だよ?」
「うん、絶対」
その言葉を聞いて、わたしは安堵する。
柿本くんが絶対って言っているんだから、大丈夫。きっと戻って来てくれる。
「ずっと待ってるからね。もし戻って来てくれなかったら、わたし、またこっちに来るから! その時は、柿本くんも一緒じゃないと戻らない覚悟だってして来るんだから!」
言いながら、脳裏にお母さんの哀しむ顔が浮かんだ。
もしわたしが戻らなければ、お母さんはきっととても哀しむだろう。でも、言わずにはいられなかった。
わたしの気持ちの強さを、どうしても柿本くんに伝えておきたかったから。
わたしの覚悟を、知っていてほしかったから。
途中で迷って、やっぱり諦めてしまったりしないように。
わたしの脅しめいた台詞に、柿本くんが苦笑を浮かべる。
「沢崎さんをこちらの住人にしてしまうわけにはいかないからね。なんとしても戻る。約束するよ」
きっぱりと言い切る柿本くんの言葉は、とても力強かった。
「信じてる」
わたしは再会を確信した。




