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消えた靴と隣の世界  作者: 凪市有李
9/10

去り時

「靴が乾いたら、そろそろ帰ったほうがいいね。こちらは時間の進みがすごくゆっくりだけれど、帰りがあまり遅くなると家の人が心配するだろうから」


 どれだけ経ったころか、ふいに柿本くんが言った。

 わたしはどきりとして、目を閉じる。

 いよいよ、この時がきてしまった。


 いつまでもこなければいいと願っていたのに――。


「……柿本くんは、なんで戻れなくなってしまったの?」


 柿本くんと別れたくなんてない。

 これきり、柿本くんともう会えないかもしれないなんていやだった。


 ここ最近、保健室に行っても柿本くんがいなくて、なんだか寂しかった。

 柿本くんがよく腰かけていた長椅子の端をぼんやりと眺めながら、いつ登校してくるんだろう、とぼんやり考えたりもした。

 でもまさか、もう戻って来ないかもしれないなんて、考えもしなかった。

 もっと、ずっと一緒にいたいと、心から思う。


「帰りたいと思う気持ちが、すごく薄れてしまったから、かな」


 ぽつりと呟くような声が、耳に届いた。


「どうして?」

「僕は頻繁にこちら側に迷い込んでいたから、こちらに馴染んでしまったのかも。それに、あちらには僕の心を留められるようなものがないからね」

 

 わたしは目を開けると、首をひねって隣の柿本くんを見た。

 柿本くんは、相変わらず空を見上げている。

 近くで見たら、意外とまつげが長いことがわかる。首筋にほくろがふたつ並んでいることに初めて気づいた。


「心を留められるもの?」

「沢崎さんの場合は家族かな? 帰りたい場所がある限り、あちらに戻れるはずだよ。僕の場合は、それがないからね……。うちは母親が早くに死んでいるし、父親は仕事が忙しくてなかなか帰って来ない。あちらに僕を待っている人はいないし、正直、楽しいこともあまりないしね。だからかな。いつものように自分の部屋を思い浮かべて、帰りたいと念じたんだけれど、戻れなかったんだ」


 喋るたびに動く喉仏を見ながら、わたしは柿本くんの声を聞いていた。

 わたしの視線に気づいたのか、柿本くんがこちらを見た。


 すごく近い距離で、わたしたちは向かい合う。柿本くんの漆黒の瞳が、すぐ傍にある。

 わたしはその瞳を真っ直ぐに見つめた。


「――わたしじゃ、駄目かな?」


「え?」

「わたし、むこうに戻ったら、柿本くんのことをずっと待つよ。わたしはまた柿本くんに会いたいし、もっと一緒にいたいって、すごく思ってる。これきりなんて、いやだよ。柿本くんは、わたしにそんな風に思われるなんて、迷惑かな?」


 わたしは自分の気持ちをありったけこめて告げると、視線を逸らさずに訊いた。

 柿本くんの瞳が、微かに揺れたような気がした。


「迷惑だなんて、そんなわけないよ」

「じゃあ、戻って来てくれる?」

「沢崎さんに、会うために?」

「そう。わたしじゃ、駄目かな?」


 再度問いかける。心臓がばくばくと早鐘を打つ。

 けれどそれを押し隠して、わたしは柿本くんに尋ねた。


 柿本くんの表情が僅かに歪む。一瞬、柿本くんが泣くんじゃないかと思った。


「そんなわけ……そんなわけ、ないじゃないか」


 泣きはしなかったけれど、その声は擦れている。


「柿本くん……」

「本当に、僕を待っていてくれるの? 僕なんかを?」

「自分のことを、そんな風に言わないで」


 わたしは懇願する。


「ありがとう。わかった、戻れるよう努力するよ」


 柿本くんが、しっかりとうなずきながら言う。

「絶対だよ?」

「うん、絶対」


 その言葉を聞いて、わたしは安堵する。

 柿本くんが絶対って言っているんだから、大丈夫。きっと戻って来てくれる。


「ずっと待ってるからね。もし戻って来てくれなかったら、わたし、またこっちに来るから! その時は、柿本くんも一緒じゃないと戻らない覚悟だってして来るんだから!」


 言いながら、脳裏にお母さんの哀しむ顔が浮かんだ。

 もしわたしが戻らなければ、お母さんはきっととても哀しむだろう。でも、言わずにはいられなかった。


 わたしの気持ちの強さを、どうしても柿本くんに伝えておきたかったから。

 わたしの覚悟を、知っていてほしかったから。


 途中で迷って、やっぱり諦めてしまったりしないように。

 わたしの脅しめいた台詞に、柿本くんが苦笑を浮かべる。


「沢崎さんをこちらの住人にしてしまうわけにはいかないからね。なんとしても戻る。約束するよ」


 きっぱりと言い切る柿本くんの言葉は、とても力強かった。


「信じてる」


 わたしは再会を確信した。

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