イツマデ
校舎を出て渡り廊下を歩いていると、どこからか『イツマデ、イツマデ』という声が聞こえてきた。
驚いて辺りを見渡したけれど、誰もいない。
その声は校舎に反響しているようで、どちらの方角から聞こえてくるのかよくわからない。
「鳥だよ。ちょっと鳴き声が変わってるけど」
ちょっと?
わたしは首を捻った。これが鳴き声だというのなら、かなり変わっていると思う。
どこからどう聞いても、人間の声にしか聞こえない。
しゃべる鳥なのだろうか。九官鳥とか、オウムみたいな?
少し考えてみたけれど、どんな鳥なのか想像するのは難しくてすぐに諦めた。
こちらは不思議な場所なのだから、わたしには想像できないような生き物がきっとたくさんいるに違いない。
「あちら側に現れたら、不吉だってよく言われる鳥だけれど、こちらの世界ではしょっちゅう聞こえてくるから、気にしなくてもいいよ」
「不吉、なんだ……」
確かに、その鳴き声からは得も言われぬもの悲しさやうら寂しさが伝わってきて、不吉と言われるのもわかるような気がする。
わたしはぶるり、と体を小さく震わせた。
「大丈夫。危害を加えたりはしないから」
そんなわたしを見て、柿本くんが苦笑する。
柿本くんが言うのだから、きっとそうなんだろう。
柿本くんの言うことなら信じられる。
柿本くんと一緒なら大丈夫。
わたしの中に、そんな気持ちが芽生え始めていた。
意識しないようにしていただけで、あちらの世界にいる頃から、柿本くんの存在はわたしにとって他の人たちとは違っていた。
けれど、そんな風に思われたら柿本くんだって迷惑だろう。そう思ったから、自分の気持ちに蓋をした。
それなのに今、その気持ちはわたしの中で大きくなって、上に被さっていた蓋を押し開けてしまった。
今だけ。ここでだけ。
この不思議な空間はわたしにとってわからないことだらけで、だからこの世界のことを把握している柿本くんを頼ってしまうのはおかしなことじゃない。
そう、自分の気持ちに理由をつける。
ここでなら、わたしは柿本くんを頼ってもいい正統な理由があるのだと思うと、安心できた。
そんなわたしを攻撃してくる人たちは、ここにはいない。
こちら側は、わたしにとってもとても居心地がよかった。
「どこまで行くの?」
柿本くんは北校舎へ向かっている。
「あの子がこっちを指してたから……裏の倉庫か焼却炉が怪しいと思ったんだけど」
北校舎の裏には、運動会のときにしか使わない道具がしまってある倉庫と、もう何十年も使われていない焼却炉がある。
運動会は九月に終わったので来年の秋まで倉庫に近づく人はいないだろうし、焼却炉に至ってはその存在が思い出されることもめったにないはずだ。
「ああ、そうだね。うん、怪しいかも」
どちらも、靴を隠すにはうってつけだ。
「でしょう。そこで見つかるといいんだけど」
渡り廊下から北校舎に入って、そのまま校舎を横切り裏手に出たら、焼却炉はすぐだ。
銀杏の落ち葉が積もり地面が黄色く染まった中に焼却炉がぽつんと見えた。
あの中に、わたしの靴がある?
少しでも早く焼却炉の中を確認しようと、わたしは駆け出した。
焼却炉の前にたどり着いたわたしは、蓋が開かないようにかけられている鎖とその鎖をとめている鍵に手を伸ばした。
「あっ、沢崎さんっ! いけない!」
「えっ!?」
強張った声が聞こえて、わたしは柿本くんを振り返った。
その時、手元で何かの砕け散るような音がした。
慌てて視線を戻すと、まだ取っ手に手をかけてもいなかったのに、焼却炉の蓋が大きく口を開いていた。
鎖と鍵は粉々に飛び散り、銀杏の葉の上に落ちている。
「な、なんでっ!?」
「そこから離れてっ!!」
わけがわからないながらも、柿本くんに言われるまま後退しようとしたその時、焼却炉の中から灰色の粉塵のようなものが飛び出してきた。
「きゃっ!! なにこれっ」
まるで実体を持っているかのように、わたしの体に絡みついてくる。体が動かない。
「沢崎さんっ!」
肩に触れる手があった。首を捻って振り返ると、追いついた柿本くんの顔がすぐ傍にあった。
「柿本くんっ、助けてっ!」
拘束された体が引っ張られる。灰色の物がわたしを信じられないほど強い力で炉の中に引っ張り込もうとしている。
焼却炉の口が不気味に歪んだかと思うと、まるで生き物のようにがばあっとわたしをひとのみできるほど大きく開いた。
新たに灰色の粉塵が巻き上がり、それらがわたしに襲い掛かる。
足が地面から離れた。
浮いた体は、あっけなく焼却炉に吸い込まれる。
「いや―――っ!」
さっきまで絡まりついていた灰色の物体がわたしから離れてゆくのがわかった。焼却炉の中に放り出された体が落下を始める。けれどいつまで経っても、衝撃を感じることはなかった。
まるで何十階もある高層ビルの屋上から身を投げたかのように、落下が続く。
どこまで落ち続けるの!?
こんな高さから落ちて、生きていられるわけがない。
恐ろしさのあまり、気が遠くなる。
薄れてゆく意識の中、ふいに体をぎゅっと抱きしめられたのがわかった。それはさっきまで体を拘束していた灰色の物体とは明らかに違っていた。
「大丈夫。僕が君を守るから」
耳もとで柿本くんの声が聞こえたような気がした。
いつもと変わらない落ち着いたその声に、心から安堵する。
それを最後に、わたしは気を失った。




