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消えた靴と隣の世界  作者: 凪市有李
5/10

保健室前

 あちら側の調理室とは違って、ここにはおはぎを作るための材料が常備されているらしかった。

 おかげで、おはぎ作りはつつがなく終了した。


 柿本くんは随分と手馴れていて、わたしは言われるままに手伝っただけだけれど、出来上がったおはぎはとても美味しそうだった。

 途中、あずきを洗った後なのに、まだあずきを洗う幻聴が聞こえたり、気がつけばおはぎの数が減っていたりしたけれど、柿本くんは苦笑するだけだった。

 わたしも次第に、ここはそういうところなんだろうと慣れてきてしまった。


 さっきの子が帰ってきたのは、ちょうどおはぎが完成して片づけを終えたころだった。

 ドアを開けた途端、その子の目がお皿の上に並べられたおはぎに釘付けになる。


「おかえり。どうだった?」


 その子はおはぎから目を離さず、ある方向を指差した。

 柿本くんはその指の先を目で追って、少し考えていたようだったけれど、やがてああ、と小さく声を漏らした。


「ありがとう」


 どうやら、柿本くんにはその子の伝えたいことがわかったらしい。


「あ、ありがとう!」


 わたしもお礼を言うと、その子はうなずいて、もういいだろうというようにテーブルの上に並んだおはぎに手を伸ばしている。


「じゃあ行こうか」

「どこに?」

「たぶん、こっち」


 柿本くんが前に立って歩き出す。それに続いて、わたしも調理室を後にする。

 柿本くんの華奢な背中を眺めながら、見慣れた校舎の中を一緒に歩いているなんて、なんだか不思議な感じだな、と思った。


 いつもは、できるだけ他の人と目が合わないようにしているから、いつの間にか自分の靴のつま先を見ながら歩くくせがついてしまった。

 意識しなくても、自然とうつむいてしまう。


 けれど、今は、顔を上げて歩ける。


 人の目がないというだけで、とても気持ちが楽だった。

 なにより、放課後の廊下を男子とふたりきりで歩くことがあるなんて、考えたこともなかった。

 そんな風に考えると、ちょっとどきどきしてしまう。


 学校では、女子でも、男子でも、自分からわたしに近づいてくる人なんていないし、わたしから声をかけるなんて怖くてできるわけもない。

 もし勇気を振り絞って声をかけようとしても、その前に避けられてしまうだろう。

 そう考えると、どきどきしていた気持ちもしぼんでしまう。


 前を行く柿本くんは、わたしがそんなことを考えているなんて思いもしていないに違いない。

 窓の外へ視線を投げかけたりしながら、早すぎず遅すぎないペースで歩いている。

 その横顔は、やっぱり普段学校で見かける柿本くんとは違って見えた。


 保健室の前を通りかかって、わたしたちはどちらからともなく足を止めた。

 わたしが、学校で唯一、ほっとできる場所がここだ。

 或いは柿本くんにとっても、ここはそういう場所だったんじゃないかと思う。


 わたしと柿本くんは、保健室で顔を合わせることが多かった。

 柿本くんはもともと体が丈夫ではないようで、保健室の常連だったらしい。

 わたしは夏休み明けから、ときどき耐えられないほどの腹痛に襲われることがあって、頻繁に顔を出すようになった。


 先に来ていた柿本くんがベッドを譲ってくれることもあった。

 そんな時、柿本くんはソファに移動して、静かに本を読んでいた。 

 ここでなら、何度か言葉を交わしたこともある。


 けれどそれは保健室だけのこと。

 一歩外に出たら、そこはわたしたちにとって気を許せる空間ではないから。


 夏休み前まで、攻撃の標的になっていたのは柿本くんだった。

 理由なんて、わからない。

 ただ、いつもひとりで静かに本を読んでいる姿がすかしているだとか、淡々としゃべるその話し方が自分たちを馬鹿にしているだとか、そんな言いがかりのような台詞が教室中を飛び交っていた。


 ――わたしも、その中にいた。


 クラスメイトに同意を求められれば、うなずいた。


 柿本くんは静かにその攻撃を受け止めていた。

 わたしにはなにもできなかった。あの時、わたしはひとりで耐えている柿本くんの背中から目を背けてしまった。


 それなのに、柿本くんは救いの手を差し伸べなかったわたしのことを責めない。

 それどころか保健室で会った時、「僕になにかできることがある?」と訊いてくれたこともある。


 わたしは黙って首を横に振ることしかできなかった。

 味方になってほしいなんて言うのはあまりに身勝手だと思ったし、下手にわたしに関わったら、また柿本くんまで標的にされてしまうだろうことは簡単に予想できたから。


「そういえば最近、保健室に行ってなかったような気がする」


 柿本くんがぽつりと呟く。


「ここのところ、学校を休んでたでしょ?」

「ああ、そうか」


 十月に入ってから、柿本くんは休みがちになっていた。そして数日前からぱったりと学校に来なくなった。気になってはいたけれど、まさかこんなところにいるとは思わなかった。


「体調はどう?」


 今更だけれど、気になって訊いてみる。


「平気だよ。ここにいるあいだは、あまりひどくならないから。精神的にも楽だしね」

「そうなんだ……。でも、わたしもその気持ち、わかるような気がする」

「うん。あちらとそっくりな空間なのに、こんなにも空気が違う。こちらは空気が軽くて、居心地がいいんだ」


 そう言う柿本くんの顔は、なにかがふっきれたように見える。

 あちらの側に帰れなくなったと言う柿本くん。


 それは、帰れないではなく、帰らない、のではないのだろうか。


 柿本くんは、あちら側を去る決意をしてしまったのではないだろうか。

こちに留まる決心を――。


「ああ、ごめん。靴を探しに行かないとね」


 柿本くんの声で、考え込んでしまっていたわたしははっと我に返った。

 立ち止まってしまったことを詫びて、柿本くんが再び歩き始める。


 わたしは、遅れないようにその後を追った。

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