こちら側
柿本くんに見送られてあちら側から戻ってきたわたしの前には、薄暮の世界が広がっていた。
いつもの通学路。
さっきと同じ場所。
車道を、ライトをつけた自動車が通り過ぎてゆく。
手に持った携帯は、ここがしっかりと電波が入る場所であることを示している。
なにもかもがあまりにもいつも通りで、まるであちら側でのことが夢だったかのように思える。
時間を確認したら、まだ六時前だった。
こちらの世界では三十分ほどしか経っていなかったらしい。
とはいえ、いつもならもう家に帰っている時間だ。
帰りが遅いと心配しているお母さんの顔が目に浮かぶ。
早く帰らないと。
靴はあちらの世界で履き替えてきている。
わたしは上靴を手にぶらさげ、紺色の指定靴を履いた足を一歩、踏み出した。
※※※
翌日は普段どおり学校に行った。
いつもと変わらない日常。
柿本くんの席は今日も空いたまま。
誰とも言葉を交わすことなく自分の席に座って、なんとか一日を終えた。逃げるように教室を飛び出して昇降口へ向かう。
下駄箱を見たら、またしても空っぽだった。
わたしは深いため息をついた。
今日はいったいどこにあるんだろう。
どこから捜すべきかと悩んでいると「沢崎さん」と背後から声をかけられた。
聞き慣れた声に、わたしは反射的に振り返った。
「柿本くん!」
そこには、眼鏡をかけて、わたしの靴を手に持った柿本くんが立っていた。そっとわたしの足もとに靴
を置いてくれる。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。僕のほうこそ、ありがとう。沢崎さんのおかげで、こうして戻って来られたよ」
「よかった……」
本当に良かった。柿本くんが、ここにいる。
こちら側に、戻って来てくれた。
ざわざわと下校する生徒たちの声がこちらに近づいてくる。学校は喧騒に満ちている。
あちらとよく似た場所。
でも、ここはわたしたちの場所なのだと、実感できる。
そしてここに、柿本くんがいる。わたしの前にいる。
ふいに、じわりと視界が歪んだ。
「沢崎さんはどうしているだろう、大丈夫だろうか、辛い思いをしていないだろうか、って考えていたら、驚くほどすんなりと戻って来られたよ」
「じゃあ、もうあちらに長期滞在しなくてもいいね」
笑った拍子に涙が零れ落ちてしまって、わたしは慌てて頬をぬぐった。
「こちらの世界は大変だけれど、沢崎さんと一緒なら……沢崎さんのためにできることがある限り、僕はがんばろうと思う」
「柿本くん……」
「この靴は、ちょうど隠そうとしている彼女を見つけて、直談判して返してもらってきたんだ。時間がかかると思うけれど、これからもきちんと話していけば、こんなことはやめてくれると思う。やめてもらえるよう、やってみるよ。もし上手くいかなくて、どうにもならないくらい追い詰められても、僕には逃げられる場所があるしね」
柿本くんが目を伏せて自嘲するように薄く笑った。
簡単に、返してもらえたわけない。
きっと、随分がんばってくれたんだろう。
「そんなこと言わないで。わたしも柿本くんと一緒にがんばるから!」
わたしも変わる。そう決意する。
それで、がんばって、がんばって、それでもどうしようもなくて、あちら側に逃げ込みたくなったら――。
そのときは、どうするか、ふたりで考えよう。
できるだけ、あちら側に踏み込まないで済む方法を。
ふいに、真顔になった柿本くんが、じっとわたしを見る。
わたしはその視線をしっかりと受け止めた。
次の瞬間、わたしはふわりと柿本くんに抱き寄せられていた。
「かっ、柿本くんっ!?」
「本当にありがとう、沢崎さん」
耳もとで、柿本くんの優しい声が聞こえた。柿本くんの髪が耳に触れて、くすぐったい。
わたしを包んでくれるその腕は、とても優しい。
柿本くんの腕の中は安心できて、居心地がよくて、ずっとこのままでいてほしいと思ってしまう。
でも――。
ざわめきがもうすぐ傍まで迫っている。
「人が来ちゃうよ!」
慌ててわたしから離れた柿本くんの頬が、僅かに紅潮している。きっとわたしの顔も、真っ赤なのに違いない。
わたしは急いで靴を履くと、差し出された柿本くんの手に手を重ね、引かれるままに駆け出した。
《了》




