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日記  作者: 白基慶
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四月上旬

 四月一日


 今日一日考え抜いた末、打開策を思い付いたので記す。峰岸の儀式についての諸問題の解決策について、有希子も共に受ければ良いのではないか。二人同時の儀式は前例のない事だが、二人の為にはこれこそ最良だと考える。

 そうと決まれば時期は早い方が()い。陽気に当てられ、つい、間が空いてしまった。明日からでも早速準備を始めたい。

 そうなると現状は寧ろ喜ばしい。峰岸にしても、有希子にしても、平常心から外れている今の内に、心構えを済ませておく必要がある。何にしても、式の日取りを早く決めないといけない。


 四月二日


 松浦さんの発作が再開した。又、鏡に酷く怯える様になった。上辺は何でも無い風を装って、普段通り苦笑を浮かべてばかりいるが、しかし胸中の動揺は誰の目にも明らかだ。

 松浦さんは、己の目の一つしかない事を酷く気にしている。其れ故に、彼は鏡の前に立ち、映った自分の顔を見ると、怯えを隠す為に無理矢理笑いながら独白した。

「怪物だ、怪物だ……怖いものが此方を見詰める。其の一つ目で……一つしかないけれど、これでせめて、目がちゃんと一般の普通人間同様に、双眸のどちらか片方にあったなら未だマシだのに、僕の目は眉間にあるのだからタチが悪い……しかし形だけ見ると、額の真ん中にあるけれど、此の形は左目だな」

 松浦さんは、人に聞こえる声量で、何度も此の台詞を繰り返した。自虐とは時に、誰より早く己を罰し、他の誰かに其れ以上厳しく罰せられないようにする、所謂(いわゆる)予防線の様なものになるのだろう……彼を見ているとついそんな風に考えてしまう。

 松浦さんは、やがて、鏡越しに私と目を合わせた。彼は振り返らず、鏡を介した儘私を見詰めた。其の一つ目で。

 松浦さんの悩みに、私はどう対処すべきだったか?彼は此処に来て未だ日が浅いから、住人との関係も当然薄く、故に私の言葉も信じ難いだろう。が、彼同様、己の特異な容姿に悩む人間が、此処にはあと二人いる。其の二人は、普段、部屋に籠もり切っているから、松浦さんと未だ顔を合わせていない筈。いつか、あの二人と松浦さんを引き合わせれば、彼の発作も自ずと治まるのではないか。

 松浦さんへ鏡越しに微笑を返しただけで私は其の場を離れた。今日は他にやるべき事があった。件の準備だ。応接間の様子を確かめなければいけなかった。初めての二人同時の儀式で、私にも不安があった。が、経過は至って順調だった。狼も白豹も、峰岸と有希子を巧く持て成していた。此の様子なら、十日以内に儀式を執り行えそうだ。


 四月三日


 四人は疑似家族生活を始めた。これは昨日、応接間にて、四人が取り決めた事だ。

 狼と白豹の二人が子供になるのはいつも通りだ。が、今回は峰岸と有希子の二人がいて、又此の二人が男女の仲である事も考慮すれば、家族という形を採択するのは自然の流れだろう。

 と言っても、四人の姿勢は、未だ未だ演技の域を出ない。素人役者にあり勝ちなぎこちなさや、不自然さ、恥じらいが色濃く残っている。

 疑似と(いえど)も家族に成るなら飯事(ままごと)で満足してはいけない。今日が初日だから仕方ないけれど、殊に有希子はまるで深入り出来ていない様子だった。台詞が途切れ勝ちな有希子と、其れを傍で支える峰岸。狼も心配そうに、甲斐甲斐しく有希子を補佐していた。

「無理はしないで、お母さん。無理に飲み込もうとすると、(かえ)って()せてしまいます」

 狼が有希子の背中を擦る隣で、白豹は一人、(たの)し気に微笑んでいた。演技とも素顔とも付かない笑顔を浮かべながら、峰岸の腕を引っ張っていた。

「甘い物が欲しいわ。私はアップルパイが好物なの。お父さんは知ってるよね?だってお父さんだものね。ね。皆でオヤツを食べて、其の後、皆で遊びましょう。私、お飯事がしたい」

 白豹の言葉を聞いて、私は何だか判らなくなってしまった。素晴らしい飯事と、ぎこちない家族生活と、此の境目は一体何処にあるのか?演技は真実にならないのか?幸せな家庭は、本当は、存在しないのではないか?

 人生とは演劇の一幕であると(のたま)った悲劇作家もいた。が、せめて、峰岸と有希子には、幸福な家庭を実現して貰いたい。そんな願いを込め、暫くは此の疑似家族を観察したい。


 四月四日


 まるで風船の様に戸惑う心は浮つき、そんな内に、運良く上昇気流に乗って空高く浮き上がった。

 昨日見られた恥じらいはもう薄まったらしく、今日の有希子は気取る事も、臆する事もなく、狼と白豹と付き合っていた。

 有希子は日の当たるソファに座っていた。白豹は有希子に甘えていた。白豹は有希子の腹に耳を当てていた。二人は仲良く話し合っていた。

「此処に居たのよね?」

「うん?」

 有希子が首を傾げる。と、白豹は左耳を有希子の腹に押し当てた儘、又訊いた。

「私、此処に居たのよね?」

「えっと……そうね」

「此処から世界に出た」

「そうね」

「不思議。私がお母さんに宿っていたなんて」

「生命の神秘ね」

「私、ちゃんと出て来られて、良かった」

 そう言うと白豹は有希子を見上げ、微笑んだ。

「そうね」

 有希子は頷き、白豹の髪を、そっと、優しく撫でた。

 そんな二人のやり取りが羨ましかったのか、狼が慌ててソファへ駆け寄って行った。


 四月五日


 表面上の生活が徐々に内側に沁み込み、心の根に届いたらしく、峰岸と有希子の態度は日増しに落ち着いていった。此の好ましい傾向を更に強める為にも、通例に従って、今日から全員参加の議論授業を始めた。

 普段、狼と白豹が受けている授業に、儀式を受ける者、今回は峰岸と有希子の二人を加え、全員で議論をさせる。

 議論は三日間に渡り、数学、国語、そして歴史の三教科を、各一日ずつ割り当てる。

 どうして授業のやり方を変えるか。其の目的は、儀式を受ける者が、狼、白豹との交流をより深め、事をより円滑に進める効果を狙うのが一つ。もう一つは、儀式終了迄の間、他の居住者と彼らとの精神距離を遠ざけておく事にある。

 そうして、教師と儀式者と執行者を一つの課題で議論させる理由は……敢えて記す必要もないので、これは割愛する。

 兎も角、半日を費やし、彼らは算術について議論した。

 算術担当の三浦さんは柔和な中年男で、痩身には不釣り合いな大きな頭が特徴的だ。そんな三浦さんを中心に、皆が数や数式について、雑談を交えつつ、あれこれ話し合うところを、私は部屋の隅で静観していた。

「数字や式って、どうしても冷たい感じがして、愉しく思えないんです」

 此の発言は狼のものだ。狼は峰岸と共に長ソファに座りながら、珍しく顔を(しか)めていた。

「こんな事を言って、三浦先生を困らせてしまったらご免なさい。でも、数学って何だか、私には機械みたいに見えるんです。血が通っていないみたいで、一寸怖くて。いえ、怖いというより、数式の解法が全部、沢山並ぶ歯車の働きに見えて、(こま)かな機構が一斉に動くサマを見ても、全く仕組みが判らない感じなんです」

「だから授業中も上の空なんだね」

 三浦さんが苦笑する。部屋に微笑が漏れる。狼だけ気不味そうにしている。

「私も判るわ、狼」

 有希子が同意を示すと、峰岸も深く頷いた。

「僕もだ。僕なんか、歯車どころか、集積回路を見ている気分になる。中でどんな電気信号が行き交っているのか、まるで目に見えないんだから、(なお)悪い。数式の意味がまるで判らない」

 峰岸と有希子が代わる代わる狼の頭を撫でる。

 と、白豹が冷笑を浮かべた。

「あら、狼もお母さんもお父さんも、変な事を言うのね。広く言えば人間だって立派な機械だわ。皆同じ、血の通った機械なのに、数や式が苦手なんて変だわ」

「有機物と無機物の差ですかね。数学が苦手な人は数字が無機質に見えるのでしょう」

 三浦さんが補足すれば、白豹は益々得意になって、

「数字に穴を空けた時、血が吹き出たのなら、みんなの願いに(かな)うのかしら?」

「血が出るのは怖いなぁ」

 有希子が苦笑する。

「痛そうなのは嫌。其れに数字が生きていたら、黒くて小さい虫に見えてきちゃう」

「虫に見えるかは差て置き、血というのはやっぱり特別だから、僕も嫌だな」

 今度は峰岸が肩を竦める。

「血は水より濃いから。血を分けるなら、特別な人とじゃないと」

「あら、割り算の話?」

 白豹が混ぜっ返す。

「いや、いやいや、これじゃあ数学嫌いを助長しますね」

 三浦さんが手を叩いて、皆の意識を自分に向ける。其の顔は矢張り柔和だった。

「数字はそんなに悪いものじゃないですよ。風情なもんです。音楽と一緒で、数学は素晴らしい風景を覗く窓の様なものなんです」

 私は部屋の隅に佇み、大きく頷いた。流石、普段から狼と白豹に算術を教える三浦さんだ、と、勝手に感心していた。

 滔々(とうとう)と語られる三浦さんの持論を前に、全員が黙し、耳を傾けた。

「これは学問全般に言える事だけれど、知識とは人間の道具でして、物事を解体したり、組み立てたり、拡大したり、俯瞰したりする為に必要なものなんです。そうして、数学っていうのは、一寸(ちょっと)贔屓目も入るけれど、そういった道具の大本になる、所謂材料ですな。つまり数学というのは、学術の根本、即ち自然、現実世界の木材や鉱物や金属みたいなものだと思って下さい。だから数を学ぶというのは、こういった自然物を相手取る事になる。これは人間活動に換言すれば、芸術に近いんじゃないか、と、私は思ってます。其れも、人事でない、純粋な自然物を相手にしているから、絵画や音楽に近い方の芸術ですね」

 此処で一旦区切り、三浦さんは浅く息を吸って、

「道具というのが判り難かったら、言語、と言い換えても好い。自然を理解する為の言語、と。これは音楽をやっている峰岸君なら、特に理解し易いんじゃないかな?音符も、矢張り、自然の用いる言語でしょう?」

 同意を求められた峰岸は、居住まいを正し、(かたわ)らに座す白豹の頭を撫でた。

「そう言われると弱いなぁ。とすると、三浦先生、数字にだって音階やらリズムがあるんですかね?」

「えぇ、関数の音階、数列のリズム、沢山当て嵌まりますよ。何より、楽譜にはキチンと、四分の三拍子だとか、二部休符だとか、数学的指示が明記されているじゃありませんか」

「本当だ。盲点だった。これは宗旨替えだな。僕も白豹と同意見になったぞ。そう言えば、僕の愛する楽器だって音を奏でる機械だったな」

 白豹が甘える様に峰岸の腕に纏い付く。

 其の隣で、有希子が狼の肩を抱いていた。

「其れでも、私はやっぱり、数学は苦手。眺めるだけならいいかもだけど、相手にするなら、自然より人間の方がズット扱い易いし」


 四月六日


 文学的素養の有無は何に()って判別されるのか。

 狼と白豹の意見が空中戦を展開している最中、私はそんな事を考えた。

 白豹は微笑しながら訴えていた。即ち、女は人間的魅力を外部に求める。一番の好例は化粧や服だ。彼女達がこぞって己を飾り立てる理由は其処にある。又、女は理論でなく感情にこそ働く。外から受ける価値は表面にありながら、己の判断基準は内面に依存している。男は其の逆で、人間的魅力は内部にあると思っていながら、感情でなく理論を基盤に動きたがる。神様が男と女に分けたのは、とんだ意地悪だ、と。

 対して狼は、白豹の用いる明確な物差しを嫌った。女とか、男とか、そうキッパリ分かれているものじゃない。本を読めば其れがよく判る。本の中で紹介される様々な価値観に触れる度……しかも其れが、自分だけでは到底生み出せそうもない素晴らしいものだった場合、世界の広さを心底感じる事が出来る。感情的な男が怒り泣き叫び、女の理論家が愛を説く。彼ら彼女らの跋扈(ばっこ)する小説中は、若しかしたら現実より現実らしい。女々しいとか、男勝りとか、そういった登場人物が入り交じってこその物語であり、人生だと、狼は主張した。

 二人が、こうして、二項対立的に議論するのは、先ず間違いなく神父様の影響だと、国語担当の藤田さんが笑いながら指摘した。私は何とも応えず、苦笑だけ返した。

 藤田さんの指摘に乗じたのかどうか、峰岸と有希子も同様の議論を始めた。

先ず峰岸が、男女の二元論と人間の多様論の二項対立なら、「二」という数字に於いて二元論の優勢だ、と主張した。

 次いで有希子が、いや、二項対立にだって様々な形があるのだから、多様論の方が効力は強い、と説いた。

 私は訳が判らなくなった。

 人生と小説とを単純に同一視する訳にはいかないけれど、単純と複雑とは簡単な対義語でなく相関関係にあって、生きていく内でどちらがより尊ばれるべきか、小説は本当に人生の模範たり得るか、等々、室内はこういった雑多な発言に埋め尽くされた。

「物語から学んで、人の性格を大別するのは、別に悪い事じゃないでしょう?大体、御伽話なんてものは、大概、教訓の寓意なんだから」

 これは白豹の台詞。

「違うの。そんなに簡単に済ませちゃ駄目なの。確かに似ているところもあるかもだけど……けど、同じ人間なんて此の世に一人もいないんだから、つまり作者も読者も同一人物なんかいなくて、皆言いたい事も違えば、受け取り方も違うんだから」

 これは狼の台詞だ。

 普段から議論や口喧嘩の絶えない二人だが、狼は白豹に比べ勢いが一歩弱い。弱者の常か、故に()ねるのは狼の方が一歩早い。瞳を潤ませ、そっぽを向く狼を見、強気の白豹も段々不安になって、気恥ずかしそうにしながらも、拗ねる狼に身を寄せ、終に二人は仲直り、する筈だった。

 が、今日は少し様子が違った。

 言い争う子供達と共に、有希子と峰岸も又議論を戦わしていたからだろう。

「子供を我が儘に育てたいのなら、二元論みたいに、細部(ディティール)をスッカリ無視した考えを教え込めば好いわ。そうでないなら、仮令(たとい)どんなに大変でも、相手の事をキチンと知って、最大限(おもんぱか)れるよう、丹念に教育すべきだわ」

 これは有希子の台詞。

「いやいや、物事はもっと感覚的であるべきじゃないかな。人間は頭だけでなく、肌でも感じ取る生き物なんだから。其れに、いつもいつも複雑に考えてばかりいたんじゃあ、親も子も疲れるし、やっぱり子供は伸び伸び自然に……そう、人間だって動物なんだから、子供は本来、もっと自然に生かしてあげるべきなんだ。子は子で、親に(なら)わずとも、生きる術を自然に会得する筈なんだから」

 これは峰岸の台詞だ。

 姉妹、両親、どちらの話し合いも平行線を辿っている。

 其の様子を私はズット部屋の隅で観察していた。

 すると、藤田さんが私の横にやって来て、

「球体は、無限通りに、しかも全く同じ形で真っ二つに出来る」

 と呟いてからこう続けた。

「彼らは別々の見地に立っている様で、実際は同じ地球儀の右と左を眺めているに過ぎない。しかし、不思議な事に、誰もが、日付変更線を越えた先に球体のもう半分のある事を想像しない。其処で地平が途切れていると思い込むんだね。球体の儘では、矢張り、判り難いんだろう。だから四角い地図にする。とすると、文学とは丁度、メルカトル図法やサンソン図法等の様なものなのかも知れないな」


 四月七日


 立場が人をつくるとはよく言ったもので、私が神父と呼ばれている所為か、私の受け持つ歴史の授業だけは議論でなく私の独演会で終わってしまう。峰岸、有希子、狼、白豹の四人は、私の言葉を宛も説教が如く傾聴し、己が意見を言わずにいた。

 なので、今日の日記は私の発言を材料にする。簡単に取り纏めてはいるが、私が何を話したか巧く思い出せるよう、文章が口語体になるのは致し方ない……。

 ……本日は、では、何についてお話しするか、私なりによく考えたのですが、折角家族を前に話すのですから、「結婚」について、歴史と共に私の意見を述べさせて頂きたいと思っています。

 と言っても、アダムとイヴや、伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)等の、神話の婚姻から紐解いては凡そ今日中に話が終わりませんし、又退屈ですから、古代から近代迄の流れは簡単に振り返る程度にしておきましょう。

 狼と白豹には常日頃から聞かしていますが、人間の作る制度というものは、自然界の進化論と同じで、時代を()る内に片付けられていくものでして、結婚も又然り、古代だと、決まった相手などない、雑多な複雑婚とでも言いましょうか、つまり夫も妻も多数あり、夫妻の形など到底ないような状態が最初にありました。

 が、やがて資本の価値観に基因した人間の所有欲の増長に合わせ、権力者を中心に儀礼的な結婚制度が出来上がっていきます。通い婚、つまり多妻婚ですね。強い雄こそ多く己の血を残せる。人間が本能に忠実である事の証左でしょうね。多妻婚が制度から消えても、猶暫くは(めかけ)制度が公然と存在していましたし。

 しかし、時代が進む程、段々と女性の権利が認められ、其の結果、今よく見られる一夫一婦制が完成した。

 と、まぁ、かなり乱暴に語りましたが、補足的に、歴史上に見られる特異な「結婚」の例を二つ程挙げましょう。

 先ず、皆さんも知っているバレンタインから話しましょうか。

 三世紀、時のローマ皇帝クラウディウス二世は、兵士達の士気低下を避ける為、彼らの結婚を禁止しました。妻がいては命を惜しむようになる、皇帝はそんな風に考えた。恐らく、皇帝自身がそういう男だったんでしょう。勝手に皇帝と同列に扱われた兵士達はとんんだとばっちりだ。これに同情し、皇帝の敷いた禁を破って、兵士達の結婚を取り持った人物こそ、彼の有名なバレンタイン牧師です。牧師は間もなく皇帝に捕縛されます。彼が処刑された日は、確か、二月十四日だったと記憶しています。

 次は「契約結婚」の話をしますか。

 これには有名な哲学者二人の名前が真っ先に思い浮かびますね。サルトルとボーヴォワール。結婚の際、此の天才二人が取り交わした契約の条文は二つ。

「偶然の恋愛も、必然の恋愛同等に大切にする」

「二人の間に秘密は持たない」

 此処で言う「必然の恋愛」とは、勿論、サルトルとボーヴォワールの関係を指します。では、「偶然の恋愛」とは?これは、まぁ、有り体に言えば浮気でしょう。つまり此の契約に因れば、己の浮気は包み隠さず告白し、告げられた方は浮気を承認しなければいけない。

 此の契約の恩恵を……「恩恵」なんて言葉を用いては酷く俗っぽいですが……何にしても、特をしたのは、男、サルトルでしょう。彼は恋多き男でしたからね。対して、妻、ボーヴォワールの結婚生活は、真実、忍耐の日々だった。そうして彼女は、ある少女を己のストレスの贄にした……。

 頭が良過ぎるのも考えものですね。

 さて、お誂え向きに、「契約」、「結婚」、「贄」という単語が出揃いましたから、唐突ではありますが、此処で泉鏡花の随筆「愛と婚姻」を引用しましょうか。

 曰く、「媒妁人(なかうど)先づいふめでたしと、舅姑(きうこ)またいふめでたしと、親類等皆いふめでたしと、知己朋友(ちきほういう)皆いふめでたしと、渠等(かれら)欣々然(きん/\ぜん)として新夫婦の婚姻を祝す、婚礼果してめでたきか。……新夫婦其者(そのもの)には何のめでたきことあらむや、渠等が雷同してめでたしといふは、社会のためにめでたきのみ」、即ち、「吾人(ごじん)人類が因りてもて生命を存すべき愛なるものは、更に婚姻によりて得らるべきものにあらざることを。人は死を以て絶痛のこととなす、然れども国家のためには喜びて死するにあらずや。婚姻(また)然り。社会のために身を犠牲に供して何人も、めでたく、式三献(しきさんこん)せざるべからざるなり」と。

 結婚とは愛の為でなく、社会や国家の為のもの。親類友人方々が、新婦新郎に「めでたい」と喝采を浴びせるは、唯々新たな生贄を款待(かんたい)しているに過ぎない。

 又、芥川龍之介も「結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない」と書き残しています。是非ともボーヴォワールに聞かせてあげたい名言ですね。

 これは日本に限った話でなく、世界中何処でも、結婚についての格言は否定的(ネガティヴ)なものばかり目立つようです。そも、自由の中でこそ呼吸の出来る恋愛が、婚姻という名の誓約の下に縛られ、汚れ勝ちな日常生活を強いられ、更に其の同居人が男と女、全く性別の異なる者同士となれば、これは当然の結果と言えなくもないですが。

 そう言えば、当の私自身、つい三週間前に、結婚の利点とは、何より、ダンスの相手に困らない事、これに尽きる、そう言ったばかりでしたね。

 しかし……こんな暗い話ばかり聞かされて、暗澹たる気分に陥っているでしょうが、大切なのは此処からですよ……身内贔屓かも知れませんが、しかし此処にいる者の婚姻は、世間一般の其れより遙かに恵まれていると、私は断言出来ます。

 何故なら、此処に住む者は、一般社会から隔離されているのですから。

 此処で暮らしている以上、社会なんて俗悪で巨大な集団とは無関係でいられる。とすれば、社会の犠牲になる必要もない。完全な自由……「完全」と「自由」を組み合わせては、あんまり嘘らしいですね。しかし約束しましょう。三日後、完全に自由な恋愛を皆にお見せ致します。

 峰岸君と有希子君の結婚式を、儀式と共に執り行う事に因って。

 えぇ、儀式の日取りは三日後です。丁度良いかと思いまして。折角、二人一緒に受けるのなら、併せて婚姻も済ませてしまえば……勿論、二人が其れで良いと言ってくれるのなら……。

 そうですか。其れなら、問題なく、儀式兼結婚式は三日後という事で。えぇ、そんなに喜んで貰えるのなら、勿論私も嬉しいですよ。


 四月八日


 狼が持ち前の大きな瞳で峰岸を見上げた。

「お父さんのヴァイオリンが聞きたいです」

 峰岸は「喜んで」と微笑み、早速楽器を構えた。ヴァイオリンを顎に挟み、指先が弦を押さえ、弓を真横に引けば、か細い音が鳴る。其の啼き声はキリキリと巻いた糸が如く、幾重にも交差し、編まれ、一枚の景色をなす。峰岸は実に素晴らしい弾き手だ。

 何曲かの演奏が終わると、一人切りの観客が、パチパチ、小さく拍手した。

「私、お父さんの弾く音、大好きです」

「光栄だね。どんな風に好きなんだい?」

「ちゃんとお父さんが弾いてるって感じのするところ」

 そう言うと狼は一寸考え込んで、

「私もお父さんみたいに弾けるでしょうか?」

「弾けるとも。狼だったら弾けるさ。毎日ちゃんと練習すれば」

 峰岸はヴァイオリンを下ろしながら、

「何より、狼は僕の子なんだから、きっと巧くなるよ」

 と、笑顔で付け加えた。

 狼は頬を赤く染めながらも、嬉しそうに又峰岸を見上げた。

「私、毎日ちゃんと練習します。お父さんみたいに」

 そうして二人は練習(レッスン)を始めた。狼が弓を引いて弾いた音は、未だ未だ弱々しかったけれど、ちゃんと澄んでいた。


 四月九日


 式を明日に控えた今日、楽天家の峰岸も流石に緊張したらしく、「相談がある」と、私は夕方彼に呼び出された。其れで屋敷の最奥にて向かったのだが、其処は大浴場になっていて、峰岸は脱衣場のベンチに腰掛け、既に私を待っていた。

 峰岸の隣に腰を下ろす。ベンチからは浴場が見渡せた。開け放たれた窓から水蒸気が入る。浴場には湯が張ってあるらしい……そうと判るが早いか、大理石を滑る水流の音が聞こえた。バチャバチャと、水面を叩く様な音も。

 大浴場には有希子と狼と白豹の三人がいた。

 朱色の夕日に染まった浴場に、仄かに赤く染まった三人の裸身。有希子は華奢な身体をしなやかに動かし、狼や白豹と湯の掛け合いをしている。三人は透明な湯を両手で(すく)い、勢いよく相手に浴びせていた。湯はまるで一枚の透明な布の様に不定形の薄い膜となって白い肌を打ち、跳ね返って、細かな飛沫が水面に返る。

 狼と白豹は細い四肢を目一杯動かし、有希子の周りを巡っている。一人だけ身長の高い有希子がそんな二人を子供の様に追い掛ける。まるで本当の母と娘の様に、三人は愉しそうに遊びを続けた。

 浴場には三人の笑い声がいつ迄も反響していた。

 其の様子を峰岸はズット見詰めていた。

 珍しく真剣な面持ちをした峰岸。其の隣に座りながら、私は取り繕う事なく言葉を紡いだ。

「実はですね、本音を明かせば、私は家族という形態が苦手だったんです。家族とは?家族とは、憎悪の基本単位、或いは其処に属する全員が『自分はこれだけ尽くしてあげているのに』と思い上がる集団、そんな風に定義していたくらいでしてね」

 いつの間にか、峰岸は私の方に視線を移していた。が、私は相変わらず浴場の三人を眺めた儘、言い継いだ。

「しかし、こういう経過を見せ付けられては、考えを改めないといけない。峰岸君、君達は好い家族です。君と有希子君が好い夫婦だからでしょう。好い夫婦の条件とは、互いを補い合う同士である事。君達は其の条件を見事に満たしている」

 私がそう言って微笑み掛けると、峰岸は泣きそうな笑顔を寄越した。

「有り難う御座います、神父様」

 峰岸の返事はこれだけだった。が、此の一言に万感の意が込められていた。

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