そういう設定だから!
※注意※
ロッキー風とありますが、似て非なるものです。
むしろ似てすらいません。
――おれほど主人公にふさわしい人間もいまい。
腕を上げて、ガードを固める。相手のパンチがおれの腕を叩く。
相手の視線が一度下がったように見えた。そして肩も僅かに下がる。
ボディ狙いか。
そう考え、ガードを少し下げる。その瞬間、右頬に軽い衝撃を受ける。
まさか。
左から迫ってきた相手のグローブの色を確認する前に、おれの頭が右へと弾き飛ばされた。
相手の目線は、おれのガードを下げるためのフェイクだったのだ。
間抜けにも相手の策略にはまり、渾身の右ストレートをくらったおれだが、痛みは感じない。ただ、頭がはっきりしていない。もやがかかったようで、何が起きたか考えるのに、若干のタイムラグを要してしまう。
ふらつく足でリングを踏むが、フワフワしている。足取りがおぼつかない。そんな中、勝負を決めようと距離を詰めてくる相手の姿が、目に映った。
――おれほど主人公らしい人間もいまい。
中学時代にボクシングを始めて以来、高校2年生の今まで、おれは負けたことがない。
勢いよく近づいてくる相手に、成す術もなく下がるおれ。相手はこのラウンドでおれを仕留めようと必死の形相だ。
まだだ。
一歩下がるたびに、相手の大ぶりのパンチがおれの目の前の空を切る。
もう少し。
また後ろに進んだおれの背中に、ひんやりとした感触が伝わった。
きた。
ロープだ。そして、リングを強く踏みしめる。なんとか時間を稼ぐことができた。思考がクリアになっている。あとがない状況になったことで、むしろ冷静になり集中力も増した。
――やはりおれは主人公にふさわしい。
ピンチに陥ったことは何度もあるが、それでも負けたことはない。苦境に立たされても、負けはしない。絶体絶命であればある程、力が湧いてくる。そして、勝つのだ。
なぜなら――。
相手がさらに距離を縮めてきた。ロープを背負うおれには、もう逃げ場がない。しかし、問題は無い。
相手の鋭いパンチが左側から飛んできた。
青色。
今度は良く見えている。
相手の青いグローブを、頭を左横にずらすことで、回避する。それからそのまま流れてくる相手の顔面に、おれの赤いグローブを合わせる。
右の拳に相手をとらえる確かな感触。そしてこれは、勝利の感触。
膝をつき、そのままリングに相手は体を沈めた。審判が近寄り、両手を横に振る。
おれの勝ちだ。
このようにおれは、一度は劣勢になりながらも、最後はきれいなカウンターを決めて、勝つ。勝つことができる。
なぜなら――。
「そういう設定だから!」
人間には2種類あって、朝が弱い奴とそうでない奴に分けられる。おれがどちらなのかというと、後者だ。
耳障りな目覚まし時計のアラームをボタンを押して止める。それでもまだ耳の奥に音が響いているようにも感じた。
何なのだろうか。
時計会社は人間が嫌う音、耳に残る音を日夜研究しているのだろうか。
とにかく目覚まし時計のアラーム音が嫌いなおれは、朝に強いタイプに分類される。
ただ、そんなちょっとした不快感は部屋を出て、階段を降りる内に霧となって消える。そしてダイニングルームのおれの椅子へと座る頃には、朝食の献立と今日の天気が代わりに頭を埋め尽くす。
おれの前に並べられたのは白飯、みそ汁、出し巻き卵、そしてメザシだった。
「それよこせよ」
おれが平和な日本の朝を満喫していたところに、チンピラのような台詞を吐いてきたのは何を隠そう我が妹だった。どうも反抗期らしい。
「急になんだよ」
果たして彼女はおれからいったい何を強請りとろうというのだろうか。
「ん」
そう唸りながら彼女は、あろうことか最後の一切れとなったおれの出し巻き卵を箸で指し示した。
箸で物を指すのは行儀が悪いからやめなさい。
しかしどうしたものだろうか。兄の威厳で妹の要求など突っぱねても良いのだが。
ちらりと妹を見ると、猛獣のような目でこちらを睨んでいた。
もちろん妹のお願いをはねのけても良いのだが、ここは兄として強さだけでなく優しさもチラ見せすべきだろう。ということで多少の譲歩を見せる。
「まあ、勝負に勝ったらお前にやらんこともないな」
「調子乗んなよ、ぐずが」
ぼそりと呟いた彼女の暴言が耳に届いたが、あまり時間もないので、きかなかったことにしよう。
「で?」
「ん?」
「勝負が何かって言ってんだよ」
「ああ、それならここは平等にジャンケンでいいんじゃないか?」
その提案に妹は大きく舌打ちをした。
「元はと言えばこの出し巻きはおれのだぞ? それを平等にしてやろうってんだからいいじゃないか」
「うるせえなあ。わかったよ、やれば良いんだろ、ジャンケンを」
「そうそうそれで良いんだよ。それじゃあ、じゃん、けん、ぽん。うふふふふふ」
「ちっ、きめぇな」
舌打ちはやめなさい。
と、妹の態度からもわかるとおり、じゃんけんにはおれが勝った。
これは自慢なのだが、実は憶えている限りおれはじゃんけんに負けたことが一度もない。まあこれも主人公ゆえの勝負強さというやつなのだろう。動体視力が良いとか、相手の心が読めるとか、もっともらしい理由などない。なんとなくやるとなんとなく勝てるのだ。そういう設定なのだ。つまり、はなから出し巻きをくれてやるつもりも、負けるつもりも一切なかったということである。
妹の皿から戦利品を頂戴して残りのご飯とともにさっとかきこみ、さっと準備を終えると今日もまた学校である。
テレビ画面に映された天気図は眩しくなるほどに橙色だった。
小学校の卒業祝いに買ってもらった愛車『ブラックバード(自転車)』を駆り、家を出る。
いくつかの交差点を曲がりしばらくすると、このご時世にありながらそこそこ頑張っている商店街へと入っていく。いろんな香りが入り混じった商店街は開店準備で忙しいようだ。見知った顔もちらほらみかけるが、皆一様に真剣な表情で作業にあたっている。
魚屋のおっちゃんが店先で今日の分の魚をさばいていた。今朝とれたものだろう。海沿いのこの街は、古くから港町として栄えてきたのだ。だから海産物に事欠くことは無い。そんなよく嗅ぐ生臭いにおいをおきざりにして、暖色のタイルが敷かれた商店街の中を自転車で走り抜ける。
今度は香ばしいパンの香りだ。ガラス越しに目のあったおばちゃんに微笑みかける。特に名物であるというわけではない。どこにでもある、そして何でもないパン屋だ。馬鹿にしているわけではない。部活帰りでお腹をすかせたおれはよくお世話になっており、感謝もしている。
そんな商店街を抜けたら次は細い路地だ。暖かいどころかいっそ暑苦しい日差しを背に受け、立ち並ぶ家を塀越しに横目で見ながらペダルをこぎ続ける。ここは車の通りも少なく多少のよそ見は問題ないのだ。時折慣性に身を任せて一息つく。そんな中、ふと目に入ったものがあった。
猫だ。
塀の上を器用に歩きつつおれの少し先を行っている。すかさずブレーキに手をかけ減速する。通学中に良く見かける猫で、毛並みは美しく濡れるような黒色に尻尾はいつも真直ぐ立てられている。そのたたずまいは凛として美しく、鼻筋の通った顔立ちは美人と言わざるを得ない。こけないように注意して、いつものように手をさしだす。
「ほらほら。今日も綺麗だなー」
おれの手をひょいと飛び越え何もなかったかのように歩いていく。
美しい。
こういったこびない姿勢がたまらなく美しいとおれは思う。好みなんて人によりけりなことは百も承知だが、やはり犬よりも猫だ。そこには覆すことのできないほどの戦力差がある。
そうやって何度か可憐な黒猫様に触れようと画策している内にお別れのときがやってきてしまった。次の三叉路を曲がって坂を登っていけばもう学校だ。どうせ明日の朝にも会えるはず。そう自分に言い聞かせ、ペダルを踏む足に力を込めた。
自転車を駐輪場に置き、呼吸を整える。たいして疲れるわけではないが、坂のせいでどうしても心拍数が上がってしまう。そしてこの季節にもなれば、額には汗がにじむ。手の平でその汗をぬぐってから、自分をあおぎつつおれは校舎3階の教室へと向かった。
教室へ入るとすでに生徒の半数以上は登校済みだった。自分の席に向かいつつ教室の後方にかたまっている男どもに挨拶をする。
「よう」
長身の高井はおれの顔を見ると、すぐに挨拶を返してきた。何やら興奮した面持ちだ。
「おう、お前か。昨日の試合見たぞ! 凄かったな!」
そう言って昨日のことに触れてきた。それから壁にもたれかかっていた小柄な古賀は挨拶もそこそこにその話を広げようとする。
「ああ、凄かった。特に逆転のクロスカウンター」
「ははっ、褒めろ褒めろ。なんせおれは主人公体質だからな」
「その態度はむかつく。実際その通りなのがさらにむかつく」
古賀がおれに同意するが、何か引っかかるような言い方だ。
「そうだな。……むかつくけど」
高井も、どこかとげがあるようだ。
「お前らむかつくむかつくって少し言いすぎじゃないか? それにしょうがないだろ、おれはびっくりするくらい物語の主人公的人間で、多分ピンチになるほど力を発揮するとかいう設定なんだからさ」
「お前のそういうとこは直した方が良いと思うよ、ほんと……」
そうして2人は何か遠い目をしながら近くのおれを見つめていた。
「何だ? 馬鹿にしてんのか?」
「いや、別にそういうわけじゃあ……」
言い淀む高井をさらに追求しようとしたが、それは叶わなかった。なぜなら背後から聞こえてきた声がおれの声をかき消したからだ。
「ほんっとにアンタって馬鹿よね」
鋭い目つきでおれのことを、そう切って捨てたのは幼馴染の古井ナジミだった。
「何だよ、急に」
ナジミのいきなりな物言いに軽く言い返した。
腕組みして、相手を寄せ付けない雰囲気を、飽和するくらい漂わせながらナジミは言い切る。
「アンタが馬鹿なのに馬鹿ってわかってないから教えてあげてんのよ」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
全く失礼で、しかも全く説明になっていない。なんて奴だ。ここはガツンと言ってやらねばなるまい。
援護は頼むぞとばかりに高井、そして古賀の方へと目をやる。しかし先ほどまで彼らがいた空間には誰もおらず、ただ木のロッカーが静かに口を開けているのみだった。どうもナジミをいてこましてやろうと思ったのはおれだけだったらしい。
まあ良い。主人公とは、えてして孤独なものだ。たとえ独りでもナジミを何とかギャフンと言わせてやろう。
「さっきから馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿うるさいんだよ! だいたいな、馬鹿って言う奴の方が……」
しかしおれのトドメの一言はホームルームの始まりを告げるチャイムの音に遮られてしまった。
「ふんっ、命拾いしたな」
興をそがれたおれはナジミを見逃してやることにし、自分の席へ着いた。
背後では言葉を失くしてしまったかのように立ち尽くすナジミの姿が見える。おれのあまりの口撃力に茫然自失といったところか。
今日は朝から気分が良い。
幸先の良いスタートを切ったおれはホームルームを終え、1時間目2時間目と授業をこなしていく。そして昼休憩の時間を迎えたのだが、正直言って何の科目の授業を受けたのかはっきりと覚えてはいない。朝っぱらからトレーニングをするおれにとって、授業時間というのはすなわち睡眠時間と呼んでも差し支えは無いのである。もっとも最近はその朝のトレーニングの頻度が減っていることを指摘されてしまうと差し支えてしまうのだが。
とにかく例の男どもと昼食をとり、午後の授業が開始すると、また懲りずに睡眠学習を開始するのだった。
いつもなら何事もなく授業終了5分前には目が覚め、何食わぬ顔で終了の挨拶をしていた。していたのだが、今日この時はいつもと違った。何が違うのかと言えば、夢を見たのだ。
眠っていれば夢くらいみるだろうと人はいうかもしれない。だがその夢は違ったのだ。
「何が?」 と問われれば「何かが」 と曖昧に答えることしかできないが、とにかく決定的に変だった。
夢で見た場所はよくわからない。
大草原のただ中だったようにも思えるし、大神殿の講堂(?) だったようにも思える。もしかしたら何もない空間だったのかもしれない。いずれにせよ凄い場所だったという印象だけが残っている。
そしてそのどこだかわからない場所で何があったのかというと、声が聞こえたのだ。男性か女性かどちらかわからないが、すっと体に沁みいるように声を感じた。その声はこう言っていた。
「ちょっと最近調子に乗りすぎだな。反省しなさい!」
言葉が終わると体に強い痺れを伴う痛みが走った。それからその声はこうも言った。
「これは試練である。悩み苦しみそしてそののちに乗り越えよ!」
そうしておれは夢から覚めた。
まあ変な夢を見ることくらいあるだろう。その時はそんな風にしか思っていなかった。
その後、寝て起きてを繰り返しているといつのまにやら放課後だ。普段は部活だが、試合開けなので、今日は活動しない。ということで、例の男どもと一緒に帰ることにする。そしておれたちはなんやかんやあって、ゲームセンターに来ていた。
「なんやかんやってなんだよ」
「何の話だ?」
「え? あれ? おかしいな、確かに何の話だろう?」
急におかしなことを言いだした高井は置いておいて、面白そうなゲーム機を探す。といってもおれがやるゲームは大体決まっている。メダルの競馬ゲームだ。
「お前はいっつもそれだな」
半ば呆れ気味の声で古賀が言った。
「良いだろ、好きなんだから」
「お前が好きなのはそのゲームじゃなくて、勝つことだろ」
間違っていない。
どうもおれはこういう賭けごとに関してはほとんど負け知らずなのだ。多少負けても最終的にはプラス収支となっている。この言葉はパチンコ好きがよく言う『トータルでは勝ってるから』という良い思い出だけを都合よく抽出した妄言とは全く違う。おれの場合は本当に毎回勝っているのだ。だからおれは、はじめてきた時も高井にメダルを借りたのでこのゲームセンターでお金を使ったことが一度もない。
こんなことを言うと、それで楽しいのかと聞いてくる奴がいる。事実、高井や古賀にもきかれた。そしてそれにおれはこう答えた。「楽しいに決まってるだろ」 と。確かに最終的にはプラスとなっているが、そこに至るまでには何度か負けている。ほぼ間違いなく最後は勝つだろうという安心感と、そこにたどり着くまでの過程が楽しいのである。実際には何も考えずにメダルを投入して適当な馬に賭けても勝つのかもしれない。しかしそうはしない。色々と考えて、勝ったり負けたりしながらも最後に勝つというこの一連の流れも含めてゲームなのであって、結果がすべてではないということだ。それにここのゲームセンターは居心地も良い。ガラの悪いあんちゃんたちの溜まり場にはなっていないし、結構空いている。友人とだらだら過ごすのにうってつけの場所だ。
おれは呆然としていた。ゆえに聞き慣れた高井の男にしては少し高めの声にも中々気付くことができなかった。
「おい、何してるんだよ」
そして彼の声に反応して出たおれの声はひどくか細かった。
「勝てない」
「は?」
「何度やっても勝てないんだよ」
「え? おお、珍しいこともあるもんだな」
高井はそう言って笑った。
彼は事の重大さを理解できていないらしい。たまには負けることもあるだろうな、程度にしか考えていないようだ。
そうじゃないのに。そうではないのに。
これは異常だ。大変なことだ。
「壊れてるのかも」
古賀がおれのいた場所に座った。
そうかもしれない。古賀の言う通り、どこか壊れているのかもしれない。
けれどそんなことはなかった。古賀は何ゲームかやったが、勝ったり負けたりと至って普通の結果だった。つまり機械に不具合は無いということだ。
「まあ、そんな日もあるんじゃない」
「ありえない」
とうてい『たまたま』なんて言葉で片付けられるようなことではない。なんで2人ともわかってくれないんだ。
これも主人公ゆえの苦しみなのか?
「まあ、今日は何か調子悪いみたいだし帰るか」
おれが何も言えないでいると高井がそう提案した。彼なりに気を使ってのことだろう。そうすることで事態が好転するとも思えないが、正直ありがたい。とにかくこのごちゃごちゃこんがらがっている頭を整理するための時間が必要だ。
そうして直接同意の言葉を口にする者はいなかったものの、おれたちはゲームセンターを後にした。
正面の入口を出て、すぐ傍の薄暗く細い路地へと入っていく。
3人ともこの道を通ることで家までの距離が大幅に短縮されるので、ゲームセンターに行くときは必ず利用している。じめじめして雰囲気の悪い道だ。その上道は大きく弧を描いており、大きな通りからでは様子をうかがい知ることができない。そういうこともあってか、おれたち以外でここを使っている人に会うことは稀だった。だから高井の言うとおり、今日は本当に『珍しい日』だったのかもしれない。
「よお」
路地の中腹、完全に大通りから隠れてしまった辺りで襟足のやたらに長い茶髪の男が声をかけてきた。
人を見た目で判断するなとは言うが、自らの判断でそういう格好をしているのであれば文句を言う筋合いなどないだろう。だから言わせてもらうが、この男は馬鹿だ。しかも良い馬鹿ではない。悪い馬鹿だ。起き上がり仲間になりたそうな目でこちらをみつめていても、黙って警察に通報して然るべきという感じの馬鹿だ。
見ただけでわかる。
しかもそんな感じの馬鹿がもう1人いる。同じく茶髪でゴキブリの触覚みたいに伸びた襟足と、同じように着崩した制服。靴は当然のように踵を踏んでいる。なんなんだ。不良には服装規定でもあるのか?
とにかく制服から察するに、近所の私立高校の生徒らしい。その2人の後ろには体格の良い男がもう1人。そちらは全体的に長髪でホスト風だ。しかしながらゴツイ顔がその髪型を台無しにしている。短髪にすれば精悍さを感じてもおかしくは無いような顔立ちなのにもったいない。彼もまた選択を誤っている。
路地でこちらをみつけるなり口元を半月状に歪めて近寄ってきた彼らは、とても感じが悪い。おれの友人にこんな奴らはいないし、高井と古賀の友人にも多分いないだろう。そんな近寄りがたい雰囲気で近寄ってきた彼らの目的はなんなんだろう。
「よう、君たち東高の生徒だよねえ?」
その通りおれたちの通う高校は、通称『東高』だ。
「そうだけど、だから何?」
「んー、いや東高ってことはさあ、カシコイってことだろお?」
確かに県内では割と高めの偏差値だ。
「ってことはさあ、塾とかにも通うわけじゃん? そしたら金かかるわけじゃん? イコールお坊ちゃん? Q.E.D.」
「タカシまじぱねえ、めっちゃ頭いーじゃん。まじうける」
ゴキブリ男2人がそんな感じで盛り上がる。それにしてもこの手の奴らはどうして語尾を妙に上げるのだろうか。
なんだか楽しそうなので、彼らを放っておいて道を通ろうとすると、タカシと呼ばれたゴキブリ男に肩を小突かれた。
「いやいやいやいや。何帰ろうとしてるわけ? まじ笑えないんですけど。ってかさ、要するにとりま金貸して欲しんだよね。そこのゲーセンの帰りっしょ? ってことはさあ、金持ってるってことじゃん? Q.E.D.」
「タカシさんまじぱねえっす」
「……カツアゲ」
つまりはそういうことだろう。小さくつぶやいた古賀にゴキブリ男タカシが過剰に反応する。
「いやいやいやいや。ぜんっぜんそーいうのじゃないから、これはあれだよあれ……」
ふさわしい言葉が出てこないのだろうか。タカシの自己弁護があれという言葉を繰り返しながら止まってしまった。
「要するにあれなんだよ、あれ、あれ……、そう寄付だよ寄付! 恵まれない僕らに金をやってくれよ」
「寄付とか、まじうけるんですけど? っつかさ、寄付ってさあ、なんかエコじゃね?」
「確かに」
2人が再び盛り上がりだしたところでおれは一つ咳ばらいをした。すると遅れて二つの咳ばらいの音が後ろから聞こえてきた。そしておれはもう一度咳ばらいをすると、後ろを振り返りダッシュする。高井と古賀もおれとほぼ同時にスタートを切ったらしい。すでに頭はこちらを向いておらず、体は前傾姿勢だ。
これなら逃げきることができる。頭の片隅でチラリとそんなことを思うが、おれにだって余裕があるわけではない。今は無心で走りきろう。そう頭の中を切り替えた瞬間だった。
「んでっ!」
痛んだ部位を認識する前に口から言葉にならない音が漏れる。次にその痛みが自分の右足からくるものだとわかった時にはすでに足が止まり、汚いコンクリートの上に膝を付いたあとだった。膝にも痛みを感じながらなおも走り出そうと顔を上げると、2人の姿はもう見えなかった。正しい判断だ。
「ストライーク」
「ユウスケのコントロールまじぱねえ。っつかそれにしても高校生にもなってこけるとか」
後ろでゴキブリどもがところどころふきだしながら(といっても出会ってから常にそういった調子ではあるが)、地面をこする音とともに近づいてくるのがわかった。そして肩を掴まれる。
「っつか見捨てられるとか、お前のツレめっちゃヒドくね?」
「確かに。ってか元々あいつらにツレとは思われてなかったんじゃね?」
「ありえる。まじワロタ」
「ワロタとか、お前オタクじゃね?」
「いや、オタクじゃねーし!」
「え?」
「お前らそこらへんでやめとけ」
ゴキ2人のくだらない漫才を止めたのは、はじめて声を聞いた、多分ユウスケという名前のホストヘアーだ。
「それよりも、だ」
「ああそうだな。さっさともらうもんもらうか」
おれの肩を掴むタカシの手に力がこもる。そしておれはその手を振り払い立ち上がった。
「な、なんだよ」
タカシはおれの行動に驚いた様子だ。
「また逃げる気かよ。めんどいからマジ勘弁なんですけど?」
「違う」
「は?」
「お前らの言ったこと全部間違ってるんだよ」
「そんなことはどうでもいんだよ。とにかく金だせよ」
1人だけ笑みを浮かべたままのユウスケ(仮) が歩いてくる。
「お、ユウスケやんの?」
ゴキの言う通り顔は笑っているが、ユウスケ(確) はやる気だ。目だけはしっかりとおれの目とおれの全体を捉えて離さない。体格の良さとあわせて考えると格闘技を学んだことがあるのかもしれない。おれの体も自然とボクシングの構えをとっていた。
「ん? お前も経験者なのか?」
ユウスケの目つきが鋭くなる。
そして放たれた右ストレート。
おれはそれをかろうじて避けることができた。そう、かろうじてだ。大ぶりの何でもない右ストレートをスレスレにしか避けることができなかった。構えがなく、肩の挙動で攻撃が来ると事前にわかっていながら、さらに溜めの大きな大ぶりで。それでも右ストレートだったとわかったのは攻撃をかわした後。信じられないくらいに鋭く、速い拳だった。
確かにユウスケもただ者ではなかった。しかし、問題なのはそこではない。このおれが、もうほとんどまるっきり主人公のような人生を歩んできたこのおれが、こんな明らかに雑魚、倒されるべくして生まれたというような奴らの中のお山の大将の一撃に対応しきれなかったことだ。
「何だ、弱えじゃん」
ふざけるな。と言いたいところではあるが、先のパンチでのおれの反応からはそう思われても致し方なしだ。ふがいない。しかしながら、無様な姿はこれっきりだ。
最初から相手を全く寄せ付けないというのも主人公の王道と言えるだろう。でもそれだけではない。一見して主人公が不利かと思わせておいてからの実はそんなことありませんでしたというのも主人公らしさは損なわれていない。たとえ今ユウスケが構えをとり、拳の鋭さが増す上に攻撃前の挙動も掴めなくなってしまっていても勝てる。だいたい相手のことを『弱い』などと言っている時点で負けフラグがビンビンだ。
それに何よりやはり、おれは主人公でそういう設定だから。
「んふぐっ!」
右わき腹に鈍痛。息が苦しくなり前かがみになってしまったところで。
「っづぁ!」
今度は左ほほに強い衝撃を受けた。
世界が揺れる。
違う。そうじゃない。これは、おれの体が頭が揺れている。
苦しい。地面がなくなったみたいだ。そうする内にまた頭に衝撃がくる。パンチではないみたいだ。凄く硬いし、動かない。これは何だろう。そこに体を預ける。かなり体が楽になった。しかしユウスケは強いな。でもおれは主人公だからな。こんな状況からでも逆転できるのだ。そうだ、最後に立っているのはおれのはずだ。
なのに、立てない。
立てなきゃ、勝てない。
どうなってんだ、これ。
何かから逃げるかのように意識を薄れさせてゆくおれの耳に届いたのは「ちっ」 という舌打ちと騒がしい足音だった。
おれが目を覚ましたのは揺れる担架の上だった。それから大した怪我でもないのに、と思いながらもなすがままに救急車に乗せられ病院へと担ぎ込まれた。意識はぼんやりとしたままで、それでも頭の痛みのせいで意識を失くしきれないまま、まるで流れ作業のように治療をされるおれの瞼の裏を刺激していたのは、病院の明かりではなく敗北という闇だった。
ベッドの横に当たり前のように座る幼馴染のナジミによると、高井と古賀は路地から出るとすぐにゲームセンターの店員とともにおれのところに駆けつけたらしい。やはり彼らの判断は間違っていなかったのだ。大人が絡んで危ないと感じたのか、やってきた高井たちを見るとユウスケたちは一目散に逃げ出した。そして頭から血を流すおれを発見し追跡は諦め、その後はおれの記憶の通りである。結局お金は盗られなかった。
つまりおれは負けたのだ。
リンゴの皮をむき続けるナジミは説明が終わって「アンタって馬鹿ね」 と言うと口を閉じてリンゴの皮むきに戻った。一体何個むく気なのだろうか? おれは死神じゃあない。
病院には半日いただけで退院し、昨日からまた学校だ。しかしなぜかユウスケに負けて以来、おれは不幸続きだった。じゃんけんも妹から出し巻き卵を巻き上げてからは一度も勝っていないし、そのほかもからっきしだ。次第には周りからも同情される始末。
でも、おれは主人公だからな。どうせ勝てるよ。
この不幸は、その時までの溜めにすぎない。そう思っていた。そして、また負けた。得意のボクシングで負けたのだ。
でも大丈夫。おれは主人公だから。
設定で何とかなるさ。おれはそう思うことにした。今時の主人公はウジウジ悩むより、スッキリサッパリポジティブな方が受けが良いのだ。
そうして幾日か経って高井と古賀に気晴らしにとあのゲームセンターへと誘われた。まあ気晴らしなんて必要ないんだけどな。と高井に言った時のおれの顔は、しっかり笑えていたのか自信は無い。当然なのだがゲームセンターは何も変わっていなかった。そりゃあそうだ。例の競馬ゲームを1回だけしてからおれは黙って2人のプレイを見学することにした。理由は言わずもがなだろう。
普段通り全とした行動をとる2人になぜか心苦しい思いがわいてきて、なぜかなんてわかりきっているのにはっきりしない自分にイライラして、彼らに悪いと思ったのでおれは1人で先に帰ることにした。帰ると告げたときの、高井の心底心配するような目と、古賀の通常よりも何割増しかで深く刻まれた眉間のしわはおれの頭を強く刺激した。もう傷口はふさがっている。
習慣から何も考えずに路地裏へと入り、例の場所へ着くとそこには先客が1人いた。
「くくく、俺の勝ちだったな」
髪を短く刈りあげたユウスケだった。やはりおれの見立て通り短髪の方が似合う。
「こういうときは、なんて言うんだっけか、ああ、そうだった、そうだった。そういう設定だからな! だろ?」
こいつおれのことを知っている?
おれの動揺に気を良くしたのかユウスケが続ける。
「お前ボクシング始めて以来負けなしだったらしいな。まああの弱さじゃ本当かどうか怪しいもんだが、どっちにしろお前は俺に負けた。そして、もう一度負ける。顔を洗って待っとけよ」
顔じゃなくて首だろう。
数々の疑念を残しつつユウスケはその場を去っていった。
ユウスケとの再会がきっかけになったのかならなかったのか、それからのおれは表面上では普段通りを装いつつも、頭の中はいっぱいいっぱいだった。
なんでだ。
なんで、主人公なのに、なんで、覚醒するっていう設定があるはずなのに、勝ち設定のはずなのに勝てないんだ。
いい加減暗い展開は終わりにした方が良いだろう。読者(視聴者?) もこんな展開は望んじゃいないはずだ。もっとすっきり、わかりやすく『おれTSUEEE』 が見たいはずだ。
なのに、なんで?
設定が甘いんじゃないのか?
プロットの練りが足りないんじゃないのか?
そもそもどういう層を狙ってんだよ。この世界の筆者は駄目筆者確定だな。お前もういいから他の奴呼んでこいよ。なんなんだよ、なんなんだよ。
おれって、主人公じゃないのかよ。
どうすりゃ良いんだよ。
おれって、なんなんだ。
いつの間にかにぎりしめた拳が金網を叩く。ガシャンと派手な音はしたが、それだけ。屋上を囲う丈夫な金網はほとんど揺れなかった。
不意に振り向くとナジミがいた。彼女は泣いていた。
「馬鹿だ馬鹿だと言い続けてはきたけど、アンタってほんっとうに馬鹿なのね」
またいつもの小言か。
「うるせえよ」
そういうおれの声は震えていた。そしてかすれていた。そのことに驚き顔を拭うと決して汗でも脂でもない潤いを肌に感じた。おれも泣いていた。
「『おれって何』だって? アンタは馬鹿よ、大馬鹿よ! どうしようもない、馬鹿で、私の、幼馴染よ」
荒い吐息が潮風に乗っておれの耳に届く。
「設定、設定って、馬鹿じゃないの? 主人公はね、設定でなるんじゃない、いつだって主人公は、私たちの見えないところで頑張ってる、誰よりも努力してる。負けても、不幸な目にあっても、憐れまれても、くじけない! 最後まであきらめない! だから、主人公なのよ! 負けないから主人公なんじゃない! 勝つから主人公なんじゃない! 自分を信じる人のことを、主人公と呼ぶのよ! 私はアンタを、アンタを信じてた。そしてこれからも、信じたい! 信じさせてよ、お願い」
ボロボロと涙を流しながらも彼女は、そう、言いきった。その顔は濡れて、歪んで、それはもうお嫁にいけないという風だった。
「汚い顔だな」
でも綺麗だ。
「馬鹿」
「そうか、今のおれは、負け犬でただのかませ犬か」
乾いた笑いが口を付いて出る。
「おれって猫派なんだけどな……」
ナジミ越しの夕陽を見ると、あそこに向かって走るのも悪くないと思えた。
そう思うとなんだか気分が高揚してきたおれは、未だ目をこすり涙の跡を消そうとするナジミを置き去りにして部室へと向かった。そして顧問の三木先生にユウスケの高校のボクシング部について尋ねてみる。すると彼が言っていた『もう一度負ける』 という言葉の意味がわかった。1カ月後に大会が開催され、そこに出場するユウスケとおれが戦うことになれば、また勝ってやるぞということだったのだ。トーナメント表を見せてもらうと、確かに例の私立高校のユウスケの名前があった。そして組み合わせからいくと、彼とやるのは決勝だ。つまりは、そういうことだ。
それからのおれは以前にもまして努力した。さぼりがちだった朝の特訓も再開し毎日行っている。当然特訓前には生卵を一気飲み……といきたいところだが、気持ちが悪いので母に頼んで出し巻き卵にしてもらった。冷蔵肉も手が生臭くなりそうなのでちょっと……。
それでもおれは不幸な目にあい続けた。あらゆることで負け続けた。周りからは憐憫のまなざしを向けられた。でも関係なかった。おれは、なんでもないおれは、ただやるしかないからだ。夕陽に向かって走り続けるしかないのだ。
そうしてついに決戦の日がやってきた。
「良くやった。決勝までこれただけでもなかなかのもんだ」
三木先生はそう言うが、おれは全然満足してなどいない。おれが倒すべき相手はまだ、息をしている。
「決勝進出なんて当たり前ですよ」
「そういうところは、以前と変わりないな。だが、それもお前の良さの内、か」
反対側のコーナーにはすでにユウスケが控えている。赤いパンツとグローブの奴が呼吸している。
いよいよリングに上がろうというとき、応援席にいる高井、古賀、ナジミの姿が目に写った。なぜか力がみなぎっていくのがわかった。なぜかなんてわかっているのに。
そして待ちわびたあの音が体育館内に響いた。ラウンドスタートだ。
本当に同じ階級なのかと思う程に、鋭くそして重いパンチがユウスケから飛び出す。わかってはいたが、やはり強い。さすがこのおれを一度とはいえ負かした男だ。本物の強さを持っている。決して言い訳をするのではないが、練習も気持ちも中途半端な人間が勝てるような才能ではない。
ラウンドが進むにつれてユウスケは着々とポイントを積み重ねていく。その反対におれの方は疲労で体が重くなっていくばかりだ。ここ1カ月のハードワークがたたったのだろうか。しかしそれが正当な理由であったとしても関係ない。一切の過程や理屈など勝利という結果を支配することはできないのだ。勝つか負けるか、それが問題だ。
ロープを背負う展開が増えていく。
なんとか拳をかいくぐって、クリンチ。
おれのパンチは、まだユウスケには届かない。
体力の低下と積み重ねられたポイント差。残り時間と合わせて考えればひっくり返すのは不可能といっても過言ではない段階まで来ていた。これはやばい、相当やばい。
足取りは重く、おぼつかない。
それでも手を出す。
くそ、またやられるのか。
努力が足りなかったのか。
手を出し続ける。
やっぱりあいつが勝つ設定なのか。
努力ではなく才能の差なのか。
足は止まった。腕も重くて上がらない。まるで神経がおれの意志と接触不良を起こしているようだ。
結局、おれは、主人公に、なれないのか?
痛々しいピエロだったのか?
そうじゃなきゃ、おれはなんだ?
いつのまにかおれはユウスケを見ていなかった。見ているのは真っ白いリング。真っ白だ。灰みたいに。
赤いグローブがおれの顔面をめがけて伸びてくる。
これが当たればおれは、もうたてないだろう。
憎たらしい赤いグローブ。おれは牛じゃあない。
おれは普通じゃなかった。
このときのおれは普通ではなかった。
後から振り返ってみても、それにこのときの感覚からしても、普通とはいえない状態だった。
普通ってなんだよという小難しい話はおいておいて、とにかく、つまり異常だった。
耳に届いたのはきき慣れた声。
「頑張れ! めっちゃ頑張れ! 努力してる時のお前は恰好よかったぞ!」
男にしては高めの声。
「主人公っぽかったぞ」
どこかやる気のない声。
そして、鬱陶しく、かつ安らぎをおぼえる、声。
「私は、アンタを信じてる!」
そうだ、おれは、おれを信じる。
負けたおれを、不幸なおれを、同情されたおれを、それでも信じる!
なぜなら――。
赤いグローブがおれの頬を捉えるまでのほんのわずかな時間、いわゆる刹那の間にそれらの声を聞き、動かないはずの体を横に滑らせた。
でもおれはこうも思う。
何、難しい話じゃない。何せ最初から最後まで、おれにはグローブの色が見えていた。目障りなほどに眩しい赤色が良く見えていた。
マウスピースを固く噛みしめ、振り抜いた拳に伝わったのは、そう、勝利の感触。
結局のところ、なぜおれはユウスケに勝てたのか。
なぜなら――。