第14話:香奈、最終宣告(ファイナル・デッドライン)を下す
「……あんた、それ、何なの。……説明しなさいよ」
いつもの高級ラウンジ。シャンデリアが冷たく輝く空間で、香奈は引き攣った指先で私を指さした。
私は、シルクのドレスの袖を少しだけ捲り上げ、平然と答える。
「何って……ただのコンプレッションウェア(加圧インナー)よ。最近、これをつけてないと広背筋の連動が甘くなる気がして」
「ドレスの下にそんなサイボーグみたいなもん着込んでる『別れさせ屋』がどこにいるのよ! それにその飲み物……カクテルじゃないわよね?」
「BCAAよ。アミノ酸。……香奈、あんたも飲みなさいよ。脳の疲労が取れて、私の苦労が少しは理解できるわよ」
香奈は、テーブルを両手で叩いて身を乗り出した。その瞳には、かつてないほどの絶望と怒りが混ざり合っている。
「理解できるわけないでしょ! あんた、ライバルのハルカと夜通しインターバル走をしたっていう噂、本当なの!? 敵に塩を送ってどうすんのよ! 別れさせるどころか、三人で『チーム誠司』でも結成するつもり!?」
私は、アミノ酸特有の苦味を喉に流し込み、遠くを見つめた。
確かに、客観的に見れば異常だ。ターゲットを誘惑し、依頼主の元から引き離すのが私の仕事。なのに、今の私はターゲットの背中を追いかけ、ライバルと乳酸の海で友情を育んでいる。
「香奈。……誠司さんは、嘘や演技で動くような男じゃないのよ。あの人を止めるには、……物理的な力が必要なの」
「屁理屈言わないで! いい、美玲。これはビジネスなの。あんたが誠司を落として、私の人生からアイツという名の『重力』を消し去る契約なのよ!」
香奈は、震える手でカバンから一通の茶封筒を取り出した。
「これが最後よ。今週末、お台場で開催される『湾岸ウルトラマラソン・五十キロコース』。誠司はゲストランナーとして走るわ。そこで、決着をつけなさい」
「……五十キロ? ……香奈、あんた、人間が一度に移動していい距離の限界、知ってる?」
「知らないわよ! でも、そこで誠司を奪略すか、あるいは玉砕して関係を絶つか、ハッキリさせなさい。できないなら報酬はゼロ。それどころか、期間延滞による違約金を請求させてもらうわよ!」
最後通牒。
香奈は、私に一通の『最終兵器』を託した。それは、誠司を精神的に追い詰め、女性不信に陥らせるための決定的な捏造スキャンダル資料だった。
「これを見せれば、誠司だってあんたを嫌いになるか、絶望して走るのをやめるはずよ。……プロでしょ、美玲。最後くらい、きっちり仕事しなさい」
*
ラウンジを出ると、夜の海風が私の頬を叩いた。
手の中には、誠司を傷つけるための『嘘』が詰まった封筒。これを使えば、走らなくていい。五十キロの地獄を見なくて済む。報酬も手に入り、私はまた、都会の華やかな『別れさせ屋』に戻れる。
「美玲さん! こんなところで奇遇ですね!」
背後から、心臓に悪いほど明るい声が響いた。
振り返れば、そこには誠司さんと、なぜかセットのように並び立つハルカの姿があった。
「香奈から聞きましたよ! 美玲さん、五十キロコースにエントリーしたそうですね! 素晴らしい決断だ!」
「……ええ。……まあ、そうね」
「美玲さん。私、あなたの『伴走者』として追加登録しました」
ハルカが、真剣な眼差しで告げる。
「五十キロは、未知の世界です。でも、あなたなら行ける。……私が、あなたのピッチを最後まで管理してあげます」
「……ハルカ、あんた……。私を監視しに来るわけ?」
「……違います。……あなたの『変態的な根性』を、最後まで見届けたいだけです」
誠司さんは、二人の様子を見て、感動のあまり街灯の下でシャドーボクシングを始めた。
「最高だ! 三人でゴールすれば、それはもう家族同然、いや、一つの生命体だ! よし、今からカーボローディング(炭水化物摂取)のために、山盛りのうどんを食べに行きましょう! 五十キロを走るためのガソリンを蓄えるんだ!」
誠司さんの無邪気な笑顔。ハルカの、不器用な信頼の眼差し。
私は、カバンの中の『嘘の資料』が、急に鉛のように重くなったのを感じた。
*
その夜。私は一人、自室でシュレッダーの前に立っていた。
香奈から渡された、誠司を傷つけるための捏造資料。これを使えば、私の勝ちだ。
だが、私の脳裏には、あの山籠りの夜、木の上で私を守ってくれた誠司さんの腕の熱さが、どうしても消えずに残っていた。
「……あかん。……私、プロ失格やわ」
ガガガ、と音を立てて、嘘の資料が紙屑に変わっていく。
誠司さんのあの真っ直ぐな瞳を、自分の汚い嘘で曇らせることだけは、どうしてもできなかった。
嘘で終わらせるくらいなら。
偽りの恋で彼を繋ぎ止めるくらいなら。
五十キロ走って、ボロボロになって、一人の「女」として、彼の心臓を物理的に掴み取ってやる。
私は、クローゼットの奥から、一番使い込んだランニングシューズを取り出した。
紐を、指先が白くなるほど強く締め直す。
その時、スマホが震えた。誠司さんからのメッセージだ。
『美玲さん。明日は僕がずっと隣にいます。苦しくなったら、僕の呼吸に合わせて。一歩ずつ、一緒に未来へ進みましょう』
未来。
それは、彼にとっては完走の先の景色かもしれない。
けれど私にとっては、この嘘だらけの人生を脱ぎ捨てて、彼と並ぶための戦場だ。
「……待ってなさいよ、誠司。……五十キロの先で、あんたのその心臓、私が本気で奪略したるからな!」
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:仕事の完遂(放棄。資料をシュレッダーへ)。
中目標:決戦の覚悟(完了。五十キロ完走という名の愛の証明へ)。
(……香奈。……ごめん。……私、あんたの期待するプロには戻らへん。……私は、あんたの天敵(誠司)を、本気で愛する女になるわ!)
決戦の朝が、すぐそこまで迫っていた。
美玲の人生で最も長く、最も熱い一日が、今、始まろうとしている。




