前編 お背中お流しします
旅館で働く1人の男性は、若女将の説教をきっかけに大浴場の清掃点検係を任される。
露天風呂の湯の汚れを確認していた彼は、そこで妖怪「ねずヒー」と遭遇する。
その出会いによって、主人公は誰にも知られたくない弱みを握られてしまい、奇妙な運命に巻き込まれていく…。
ピピピッ、ピピピッ。
今日も目覚まし時計のアラーム音で目を覚ます。
眠い目をこすりながら携帯を探し、手に取ってアラームを止めた。
画面には、昨日寝落ちした漫画のページが開いたままだ。
「うぁ〜あ。今日のバイトも面倒くさいな。でも金稼がないと生きていけないし……今日も頑張るか。」
朝ご飯を食べようと冷蔵庫のドアを開ける。
「うぁ〜、空っぽかよ……。昨日仕事休みだったんだから、買いに行けばよかった。」
ため息をつきながら身支度を整え、家を出る。
玄関を開け、目の前に止めてある自転車にまたがった。
いつもと変わらない街並みを、猛スピードで駆け抜ける。
職場の駐輪場に自転車を止め、正面玄関から中へ入った。
建物は正直ちゃっちい。
でも、温泉の香りだけはやたらといい。
――そこが、この旅館の唯一の誇りだ。
「建物が小さくて悪うございます。ですが、この街では一番大きい旅館なんですけどね。」
背後から声がして、冷や汗が背中を伝う。
恐る恐る隣を見ると、若女将が立っていた。
「おはようございます、若女将。本日の貫禄も立派でございますね。あはは……できれば俺の心の中を読むの、やめてほしいんですけど……。」
「青木さんが変なことを考えなければ、心を読む必要もないんですけどね。」
「あはは……じゃあ俺、仕事があるので失礼します。」
逃げるように更衣室へ向かう。
背後から「相変わらずですこと。」と、扇子で口元を隠して笑う声が聞こえた。
更衣室に着くと、先輩たちが制服に着替えていた。
「おはよう青木。その尋常じゃない汗、また若女将に心読まれたろ?この旅館に入ったら隠し事は通用しないって言っただろ。」
「おはようございます。だって誰もいなかったんですよ。気づいたら隣にいるって……幽霊みたいじゃないですか。」
お化けのように両手を前に突き出して答える。
「そりゃこの街じゃ、瞬間移動くらい――」
先輩が言いかけたところで、仕事開始のチャイムが鳴り響いた。
顔を見合わせ、慌てて更衣室を飛び出す。
「青木、俺先行くわ。」
先輩は廊下を泳いで進んでいく。
「ちょっと先輩!ずるいです!俺そんなこと出来ないんですから!」
全力で走りながら後を追った。
事務所の扉を勢いよく開けると、職場の全員の視線が一斉に集まる。
「青木さん、笠木さん。もう少し静かにできませんか?それに、時間には余裕を――」
若女将の説教が始まった。
「あ〜あ、これは長くなるぞ。」
心の中で呟いた瞬間、若女将の耳がピクッと動く。
しまった、と思った時にはもう遅い。
雷のような説教が降り注いだ。
「ギャー!」
悲鳴が部屋中に響いたが、職場の全員は心配するどころか、
「いつもの説教だな」
と笑っていた。
「くそ……」
そう言いかけたが、命の危険を感じそのまま言葉を飲み込む。
若女将は全員の視線が集まる位置に立ち、手を叩いた。
一瞬で静まり返る室内。
「今日は宿泊者が多く、大食いのお客様もいらっしゃいます。忙しくなりますよ。」
淡々と仕事を割り振っていく。
「青木さん、笠木さん。問題児ペアは、大浴場の掃除と一時間ごとのお湯の点検をお願いします。」
「えぇ〜、よりによって一番大変なやつ……」
思わず若女将を睨む。
「今振り分けた仕事への文句は一切聞きません。では、作業開始。」
若女将が手を叩くと、白い光が眩しく広がった。
思わず目を閉じ、次に目を開くと――そこは大浴場だった。
「先輩、俺たちまた面倒な仕事押し付けられましたよ……」
ため息混じりに呟く。
「文句言ってもしょうがないだろ。青木は露天風呂の掃除から頼む。俺は脱衣所をやる。」
そう言って、ブラシを渡された。
「はーい。」
ブラシを受け取り、大浴場の扉を開ける。
天井は高く開放的だが、床のタイルには汚れが目立つ。
「ここも後で掃除だな……。まずは露天風呂か。」
露天風呂へ続く重い扉を押し開けると、ギギギ、と音が鳴った。
冷たい風が吹き込む。
「さむ……。こんな中ずっといたら風邪ひくわ。でも景色はすごいよな。」
露天風呂全体を見渡すと、葉っぱや砂があちこちに落ちている。
「旅館一押しって言える状態じゃないな……」
そう呟き、掃除を始めた。
シャカシャカという音が、静かな空間に響く。
三十分ほど磨いただろうか。
「よし。これなら十分だろ。」
達成感を感じながら、先輩に報告しに戻ろうと扉を開けた瞬間、黒い影のようなものとすれ違った気がした。
思わず振り返るが、誰もいない。
「……気のせいか。」
そう思い、先輩の元へ急いだ。
「先輩、露天風呂の掃除終わりました。寒すぎて風邪ひきそうです。」
鼻水をすすりながら言う。
「まぁ、そうだろうな。おつかれ。」
「次は何すればいいですか?」
「露天風呂のお湯の点検を頼む。終わったら一緒に大浴場な。」
「了解です。じゃあ、また寒い外に可哀想な男の子が行ってきます。」
「はいはい。後で温かい飲み物奢ってやるから文句言うな。」
「マジすか。先輩優しい。頑張ります。」
脱衣所を出て、再び露天風呂へ向かう。
戻ると、温泉のいい香りが漂っていた。
「いい香りだな……。さて、点検しますか。」
試験管をお湯に入れようとした時、湯船に桶のようなものが浮かんでいるのが目に入った。
「……?桶なんて置いた覚えないけど。」
拾い上げようとした瞬間。
「おい!今、お客様が入っているんだぞ!」
桶の中から、サングラスをかけたネズミが怒鳴ってきた。
「申し訳ございません、お客様。まだ準備が――」
「なんだと!俺に口答えするのか!
俺の名前はねずヒー。極悪の泥棒だぞ!」
(ネズミのくせに……)
そう思ったが、ぐっと堪える。
「……左様ですか。ですが、なぜ極悪の泥棒がこの旅館に?」
桶を沈めながら尋ねる。
「若女将が術を使う時に使う葉っぱを盗みに来たんだ。」
「やめた方がいいですよ。絶対バレますし、場所なんて誰も知りません。それと俺、人間じゃないんで。」
「お前は人間だ。この紙に書いてあるだろ。」
そう言って、一枚の紙を突き出してくる。
この世界で、その紙は命の次に大切なもの。
種族や能力が記された証明書だ。
――俺は、人間。
本来、この街にいてはいけない存在。
若女将が必死に隠してくれていたのに。
「その紙、どこで手に入れた!」
奪おうとするが、ねずヒーはひょいと避ける。
「どうする?俺に協力してくれるかい?」
俺は一度、深呼吸をした。
「どうせ協力してもバラすんだろ。」
「しねぇよ。終わったら俺のサングラスを外せ。そうすりゃ記憶は消える。」
そう言って、桶から上がり、洗い場に座る。
「背中を流してみろ。それで分かる。」
渋々タオルを受け取り、背中を流し始めた。
すると――ねずヒーが語り出す。
やつの背中をゴシゴシと拭いていると、ねずヒーが静かに話し始めた。
⸻
俺は、幼い頃から記憶力が悪かった。
昨日言われたことを、次の日には忘れる。
約束も、宿題も、道順さえも。
そのたびに、親や学校の先生に叱られた。
「何度言えば分かるんだ。」
「本当に覚えの悪い子だね。」
最初は、ただ申し訳ないと思っていた。
けれど、成長するにつれて言葉はだんだんと鋭くなっていった。
「バカ。」
「なんでこんなこともできないの。」
そして、家では――
「あんたみたいな子、産まなきゃよかった。」
その言葉は、頭ではなく胸に深く突き刺さった。
何をしても否定される。
頑張っても、覚えていられない。
忘れるたびに怒鳴られる。
俺は、次第に話すことをやめた。
笑うことも、誰かに期待することも。
生きているだけで、心が少しずつ削れていった。
ある日、ふと思った。
――もう、ここにいたくない。
理由はなかった。
ただ、ここから逃げたかった。
俺は走った。
行き先も分からないまま、ただ走り続けた。
気がついた時には、知らない路地裏で座り込んでいた。
息は荒く、頭の中は真っ白だった。
「そこの子、大丈夫かい?」
顔を上げると、一人の男性が俺の前に立っていた。
穏やかな声で、不思議と怖さはなかった。
「ここは……どこ?俺、なんでここにいるのか分からないんだ。」
泣きながらそう言うと、男性は急かすことなく、ただ頷いた。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、話してごらん。」
俺は、自分でも驚くほど、すべてを話していた。
覚えられないこと。
叱られ続けたこと。
家にいたくなかったこと。
男性は、何も言わず、真剣に話を聞いてくれた。
「それは……つらかったね。」
その一言で、胸の奥が少し軽くなった気がした。
「いいものをあげよう。」
そう言って、男性はポケットからサングラスと、一冊の絵本を取り出した。
「このサングラスはね、記憶力を良くしてくれる。」
「この絵本は、ページを開いた場所に行けるんだ。」
「……本当?」
「本当さ。」
俺は迷わずサングラスをかけた。
視界が澄み、頭の中が静かになった。
「すごい……」
「似合ってるよ。まるで俺の上司みたいだ。」
男性は、どこか寂しそうに笑った。
その時、遠くで太鼓のような音が鳴り響いた。
「さあ、もう帰る時間だ。」
「でも……帰り方が分からない。」
「大丈夫。その絵本を開いてごらん。」
言われた通りページを開くと、そこは自分の家だった。
それからの俺は、変わった。
覚えられる。
忘れない。
叱られない。
そして、絵本を使って、いろんな場所へ行くようになった。
――だが同時に、失うことへの怖さも覚えてしまった。
「もういい。」
という声で我に返る。
「分かっただろ。お前の能力は、背中を流している間、相手の秘密を聞き出すことだ。」
「……俺が、特別?」
「そうだ。」
胸の奥が、少し熱くなった。
「今日泊まる客の背中を流せ。葉っぱの場所を聞き出すんだ。」
「分かった。」
そう言うと、ねずヒーは俺の髪の中へ消えた。
その後、宿泊客が来るまで、俺は働き続けた。
ポンポコ亭第二弾
「お背中お流しします」の連載を開始します。
ぜひ最後までお楽しみください。
それでは、ポンポコ亭の従業員として、たくさん働いてくださいね!
ポンポコ




