25.変容し続ける恐怖
「ククッ。ジグムント? 多くは語りますまい。それよりも、アメル様とレオル様も、人間のお仲間を連れてジグムントへお越しになられては如何ですかな? 一目瞭然に御座いますがね?」
目玉の怪物──、異形と変容のバヌレフ。目の前のバヌレフの緑の肉体の鱗から紫色の血管が浮き出て、全身に湧き出た赤い目玉がギョロギョロと動く。血が滴るようなバヌレフの裂けた赤い口から鋭く尖った牙が何本も連なって見えた。開眼した額の大きな赤い目玉がアメルを見据えている。バヌレフの隆起した筋肉の血管がドクンと脈打ち、幾つもある身体中の目玉の一つがギロリと僕を見た。
「うっ……」
たじろいだ僕はメネトから貰った麻痺属性と魔力吸収の小刀──、腰のベルトにぶら下げてあったアキハの〝クナイ〟の持ち手に触れた。バヌレフの金縛りの魔力のせいか、目玉に睨まれた僕は後ろにいる皆へと振り向けなかった。視界に映るアメルの姿をとらえるので精一杯だ……。冷たい汗が流れて、ジャリッと瓦礫の石を革のブーツの底が踏んだ。僕は知らない内に自分がバヌレフから離れるように後退しているのに気がついた。
(ポタリ……シュウゥゥ)
バヌレフの全身を覆う緑の鱗から粘液のようなものが垂れ落ちた。鋭く尖ったバヌレフの赤い爪の足が、溶けかけた瓦礫の石をガリッと踏んで粉々にした。
「伏せろっ!!」
その時、メネトの叫び声が視界の端の方から響いた。僅かに動いた僕の目が、身構えたメネトの姿をとらえた。
(ボゥッ──!!)
何かが弾けたような音がした。倒れているイリスの姿が見えた。イリスの足もとの瓦礫から、粘液に濡れた赤い目玉と緑の鱗の背中が突如として現れ──、傍に居たヘイダルがイリスを庇うように地面に伏せて居た。
「あ……うっ!」
「イリス様っ!!」
(ドッ! ドドドドゥッ!!──シュウゥゥ……)
メネトの両手から放たれた無数の石礫が、灼熱の炎に包まれてバヌレフの背中を貫通して行く。ダランと一瞬、動きを止めたバヌレフの鱗の身体から粘液がズルリと滴り落ちた。イリスを庇うヘイダルの金属の鎧が、飛び散ったバヌレフの体液に溶かされて煙が上がっていた。
「光の刃よ! 魔の者を……うっ!! あ、ぐっ……!」
一瞬、呼吸を止められたようなテフェルの声に、ハッとして振り向いた。テフェルの背後から、まるで分裂したように現れたもう一体のバヌレフが……苦しみ悶えるテフェルを羽交い締めにしていた。テフェルの身体を包む光の結界から煙が上がっている。バヌレフの身体の鱗から滴り落ちる溶解の粘液に溶かされているかのようだった。それは、まるでテフェルの光の魔力が奪われて蒸発しているようにも見えた。
「テフェル!! ぐっ!!」
(ガガガ……グバァッ!!)
さらにメネトの声がした方向に振り向いた僕は──、目を疑った。あり得ない……。炎に包まれグスグスと炭の塊になっていたはずなのに……。ケストナー伯爵の姿をした黒焦げのバヌレフの残骸が、分断された胴体を繋げて炎に揺れるように立ち上がっていた。そして、メネトも背後から窒息しそうなほど炎に包まれたバヌレフに羽交い締めにされていた。
「ぐっ! ぐあぁぁっ!!」
黒いローブを着ていたメネトの身体が、バヌレフの身体から燃え上がる炎に赤く包まれていた。まるでメネト自身が地獄の業火に焼かれているような光景だった。それが、赤く飛び散る火の粉とともに僕の目に飛び込んだ。
「メ……メネト!!」
振り絞った声を出すのに精一杯だった。けれども、自分の身体なのに動かせない──。纏わりつくバヌレフの恐怖と絶望に僕は縛られていた。分裂した何体ものバヌレフの脅威に……無力な自分の視線だけが動いていた。視界に映るメネトの炎に焼かれる姿と阿鼻叫喚のメネトの叫び声が、僕の頭の奥を揺らすように鳴り響いていた。
「ククッ。余所見をしていても良いのですかな? レオル様……どうです? 私の手中にはお仲間の命が握られている。妹君のアメル様もね? このバヌレフと交渉の余地があるとは思いませんか?」
視界の直ぐ傍でバヌレフの声が響いた。ハッとして振り向くと──、アメルが……。
「お、お兄ちゃん! うぅっ……」
(ポタ……)
鋭く尖るバヌレフの赤い爪の手が、アメルの喉元に食い込む。瓦礫の地面からアメルの足の踵が僅かに浮き、アメルの首から血が流れていた。隆起したバヌレフの腕の筋肉が、アメルの震える身体を締め上げる様に軋む。緑の鱗の下から浮き出た紫の血管が脈打ち、ギョロギョロと幾つものバヌレフの腕の目玉が動いて、苦しみ喘ぐアメルの顔を見ていた。
「あ、あ……アメル」
アメルが……アメルが。アメルが、僕の大事な妹のアメルが……。死ぬ? なんで……動けない。笑っている? バヌレフが? なんで……アメルが殺されるの?
「ち、力が入らない……魔力が」
「アメル!」
──愕然とした。目の前で首を締め上げられるアメルと……皆が絶体絶命していく光景に。僕はバヌレフに跪き、瓦礫の地面へと頭と身体をなげうった。
「お、お願いだ……バヌレフ。皆とアメルを……殺さないで!」
今直ぐ……今直ぐ、皆とアメルを助け出さなければならないのに。何をしているんだ……僕は。
「ククッ。哀れな……。良いでしょう。レオル王子。レオル様に懇願されたとあっては、このバヌレフも心が痛む。しかし、念のため人間のお仲間の手足は捻り切っておきましょうかね? なに、我が細胞を使えば痛みを感じることなく止血も出来ますから。ご心配には及びませんよ?」
(ポタ……ポタ……)
涙が、出た……。見つめていた瓦礫の地面に、僕の涙が。泣いてたって、どうしようもないのに。バヌレフに、すがるしか無かった。手足をもがれる皆を助けられない。直ぐ傍にいるアメルも……。
その時、石ころを握り締めた僕の手に温かい何かが触れた。
「血?」
血だ……。アメルの血だ。僅かな魔力を操るアメルが、血を……。それは、最期の魔力を振り絞ったように、僕の手に触れていた。
「ククッ。いけませんなぁ、アメル様。レオル様が人間のお仲間とアメル様のお命を懇願されていると言うのに? 悪足掻きをされては、このバヌレフの心情も揺らぐと言うもの。この際、皆殺しでも構いませんよ? 少し残念ですが、アメル様とレオル様の身体さえ手に入れば」
頭の上から響くバヌレフの声──。バヌレフがそう言うと、僕の手とアメルの血を……瓦礫の地面ごと踏みつけた。
(ガリッ!)
「ぐっ、ぐあぁぁっ!!」
「あ、ぐっ! お、お兄ちゃん……!!」
(ジュウゥゥ……)
踏みつけたバヌレフの足の下で、瓦礫に食い込んだ僕の手が、地面の石とともに焼き溶かされる痛みを感じた。アメルの血が、蒸発して行く。
「あ、あ……あ、ハァハァ……。うぐぁぁっ!!」
頭の中の思考が、止まりそうになる。助けなきゃ……助けなきゃ。この腕と手を切り落としてでも、皆とアメルを助けなきゃいけない。助けなきゃ、いけないのに!!
自分の命よりも大事なもの──。顔を上げると涙でボヤけた視界に、アメルとヘイダルとイリスとテフェルと……炎に焼かれるメネトの姿が見えた。
「う、ぐっ! ぐあぁぁっ!!」
メネトの絶叫する姿が焼きつく。まるで、さっき焼かれていたバヌレフの身体のように──、羽交い締めにされたメネトの身体が炎に包まれていた……。
(ボッ! ガガガガッ!!)
「?!!」
なんだろう……。風の様な何かが……光と音ともに洞窟の入り口から入り込んで来たのを感じた。瓦礫の地面と天井を削るように、それは駆け抜けた。
(ズルン……ボタッ)
「え?」
……僕の手もとに、バヌレフの頭と首が転がっていた。ドサリ……と、僕の足を踏みつけていた首のないバヌレフの身体が、地面に膝をついて倒れた。他の三体のバヌレフの分裂体の頭部も破壊され、倒れ伏した残りの身体も瓦礫の地面から黒煙を上げて消えて行く。あれが、この地下水路に来た時に最初に覆っていた瘴気の正体だろうか。見上げると、その黒煙が倒れたまま首の無いバヌレフの身体に吸収されて行くのが見えた。
「ハァハァ……お兄ちゃん!」
声がした方に振り向くと、地面の上でアメルが身体を引きずる様にして僕の胸へと倒れ込んだ。
「アメル!」
アメルの身体の温もりを感じる。アメルが、アメルが、生きていた……。良かった……。倒れていたイリスと、イリスを庇っていたヘイダルが身体を起こしていた。羽交い締めから解放されたテフェルが地面へと手をつき、息を切らせていた。
「ハァハァ……。あ、貴方様は……」
テフェルが声とともに見上げた視線の先に──、燃え盛る炎から救われたメネトが命からがらダラリと誰かの腕に抱えられていた。メネトの耳につけられた青い魔石が光っている。水に濡れたメネトの身体に水属性の魔法が発動した痕跡が感じられた。
「グッ。グブブ……。誰かと思えば、僧拳士にしてマグリットの軍神……ルシカ殿ではありませんか?」
ヨロヨロと……立ち上がったままフラつきながらも、額に手をつき頭部を再生させたバヌレフが喋った。
「取り逃がしたこと、今でも後悔している。定めの時だ……バヌレフ。お前に許された時間は、もう無い」
巨馬に跨がる人間の女──。その魔獣の様な荒々しい長い髪が、着込まれた鎖かたびらの上に流れ落ち、アキハよりも突出した大きな胸に掛かる。イリスと同じ髪の色をしていた。
「ルシカ!! スレイプニル!!」
身体をブルッと震わせたスレイプニルの鼻と口から、吐かれた白い息が煙の様に昇る。立ち上がったイリスの目が希望を宿したように輝いていた。ヘイダルは驚いて言葉を失い、目を見開いたまま瓦礫の地面に腰を降ろしていた。
「お、おぉ……ルシカ殿!」
立ち上がったヘイダルが歩きながら、ルシカって呼ばれる人間の女に近寄った。羽織っていた白いマントから垣間見える傷だらけの腕──、メネトを抱きかかえるルシカの剛腕はバヌレフの筋肉が隆起した腕と勝るとも劣らなかった。抱きかかえられたメネトの表情が息苦しそうだった。
「ヘイダル……メネトを頼む」
「承知に御座います」
僕は膝元に倒れ込んだアメルを見つめた。メネトのように、ハァハァと……目を閉じたまま息苦しそうだった。
「君たちが、噂に聞く魔王と勇者の子かな? テフェル、メネトを看てやってくれないか? 姉上……遅れて馳せ参じ、申し訳ありません。どうか姉上の継承されたマグリットの光で、この子たちを看てやってはくださいませんか」
ルシカに抱きかかえられていたメネトが、スレイプニルの馬上からヘイダルの鎧の両腕に……そっと受け渡された。僕がルシカの顔を見上げていると、ルシカは荒々しい長い髪を風に靡かせてニコッと微笑んでいた。
「ククッ。ルシカ殿……。随分と余裕があるように見受けられるが? 人間たちをたった一人で守りながら、このバヌレフに勝てるとでも?」
「数年ぶりか? あの時の傷は、もう癒えたのか? バヌレフ……ならば、再生不可能なまでに滅するより他無いな? 今の私は、あの時とは訳が違うぞ……」




