23.人間の姿をした魔の者
黒い瘴気が、朽ちた帆船の甲板に居る人影へと吸い込まれて行く。目の前が次第に明るくなり、薄っすらと人を象った輪郭が洞窟の入り口から射し込む光に鮮明に浮かんで見えた。
「あ、あれは……」
「私たちを殺しに来たのよ」
鎧に身を包んだヘイダルが剣を構えて見上げている。剣を持つ手が震えていた。その少し後ろに居たイリスが、ヘイダルの背中に近づきながら呟いた。俯いたイリスの羽織っていた白いローブの肩が小刻みに震えている。十字架を持つイリスの後ろ姿は、不安な気持ちを掻き消すように祈っているようにも見えた。
「死線……だな? 圧倒的な魔力を感じる」
「誇示してますね。自分は私たちよりも遥か格上なんだと」
メネトが見上げながら持っていた杖をカツンと地面に響かせた。黒いローブの懐に手を忍ばせ、固まったまま立ち尽くして動けないでいる。テフェルがメネトに振り向くと、真っ直ぐな瞳で甲板に居る男を見据えながら祈りの言葉を唱え始めた。メネトと同じ黒いローブを纏ったテフェルの後ろ姿が、ボンヤリと光の魔力に包まれている。
ヘイダル、イリス、メネト、テフェル……。僕は縛られたように、甲板の人影を見上げる皆の背中を見つめていた。目に掛かっていた自分の青い前髪が揺れて、冷たい風を額に感じた。
(ゴオォォッ……)
勢い良く流れる川の音が響いて来る。目の前の静かな水辺には朽ちたままの帆船が、ギギ……と風に揺れては音を立てていた。
「クク……。しばし、歓談の時間を設けようじゃないか? あぁ、そんなに固くならないでくれたまえ? 私は約束を守るタチでね?」
その甲板の上に悠然と立つ人間の貴族の姿をした男──。男の声が、洞窟のようなこの地下水路に響く。執事だった人間の年老いた男を手に掛けた、あの伯爵の姿をした何者かが僕らの目の前に居た。
「ケストナー伯爵……」
僕は強張った身体を奮い立たせて呟いた。一歩……足を踏み出す。
(ザッ……)
一度俯いて顔を上げた僕は、後ろに居るアメルへと振り返った。気掛かりだった。朱色の長い髪が風に揺れて、エメラルドグリーンの瞳が不安気に僕を見つめていた。アメルの隣に居たかった。僕はアメルの傍まで歩き、少し冷たくなっていたアメルの手を握った。
「お兄ちゃん?」
驚いて僕に振り向いたアメルの顔……。見つめていると、心の中に何かが込み上げてくる。冷たかったアメルと僕の手が、だんだんと温かくなっていく。その時、朽ちた帆船の甲板の上に立つケストナー伯爵の姿をした何者かが口を開いた。
「お忘れですかな? レオル様、アメル様……忘却とは人を不幸にし、幸せにもする。魔王アステラ様の国が滅びた今、我々魔族には何が残されているのか」
魔族──。男の声が静かに、この光の射し込む洞窟のような場所に響く。振り向くと、男は口髭に触れながら、髪の毛を掻き分ける仕草を幾度となく繰り返していた。
「私は王女様並びに王子様をお守りしたいだけに御座います。先ほどの非礼をどうかお許しください。しかし、何ゆえマグリットの人間たちと……」
耳を疑った。あり得ない言葉がケストナー伯爵の姿をした男から聞こえた。男はピタリと手を止めると、服の内側から葉っぱで巻かれた棒のようなものを取り出して口に咥えた。パチンと指先を鳴らす。その先端に、ボッと火が灯った。フーッと、口から煙のようなものを吐き出すと、煙が光の中に消えていった。男は悠然とした態度で甲板から僕らを見下ろしていた。
「魔族? 貴方からは何体もの魔物の匂いがするわ? まるで、寄せ集めね? 自分の本当の姿さえ思い出せないんじゃないかしら? それに私たちを喰い千切って、キルスとシュナラザに捧げる贄にするんじゃなかったっけ? 聞こえていたわよ?」
僕の隣で手を繋いだまま、アメルが静かに男を見据えて睨んでいた。アメルの声を聞いた男が、指先に挟んだ煙の棒を見つめ「人間は実に美味なるものを創る。興味深いものだ……」と、口もとに笑みを浮かべてクククと笑った。
「いかにも。魔族とあらば、貴方たち神の力に焦がれるのも当然。しかし、その存在こそが絶対。生きて我らを再び照らしてくださらねば。ジグムントでは蘇生や復元の技術進歩が目覚ましいのですよ?」
男が葉っぱで巻かれた棒のようなものを再び口に咥えると、フーッと白い煙を吐き出した。煙が消えて行く様子を見上げながら「ククッ。キルス殿もシュナラザ殿も人が悪い」と、呟いたのが聞こえた。
「やっぱり……。けれど、貴方が魔族なら、どうやってバレンテ領──マグリットの国内に侵入出来たのかしら?」
白いフードから顔を覗かせたイリスが甲板の上に居る男へと尋ねた。男は「ティータイムには早いが? それより先に、ともにランチタイムを楽しもうではないか。マグリットの人間の王女よ?」と言って笑った。恍惚とした表情を浮かべた男は、息をするように煙を吐いた。
──男が口に咥えていたものを手に取った。灯された火の先端と煙をしばらく見つめている。口もとに笑みを浮かべると、ポトリ……と、足もとの朽ちた甲板の上へと落とした。灯っていた先端の火が白い煙とともに消えて行った。
「キルス殿とシュナラザ殿なら、先にマグリットの王に謁見するため王都へと向かっているようだがね? 私は君たちをもてなすのに忙しいと言う訳だ」
一瞬──、男の言葉を聞いたイリスの口もとがキュッと強張って、動揺した瞳が震えていた。
「イリス様!」
「ヘイダル、慌てるな……。情報の撹乱かも知れん。敵の言葉を信じるのか?」
「まずは、伯爵の姿をした目の前の魔族の男を討ち滅ぼすのが先ですよ? 落ち着いてください。ヘイダルさん?」
白いローブを纏ったイリスの背中と金の十字架を持つ手が震えていた。剣を片手に持ったヘイダルが振り向き、イリスに駆け寄る。その二人を囲むようにしてメネトとテフェルが静かに立っていた。メネトとテフェルが、人間の伯爵の姿をした魔族の男を突き刺すような眼差しで見据えていた。
「お喋りが過ぎたようだ。しかし、対話とは実に有意義なものだ。特に人間と話すのは心が躍る。今直ぐ殺してしまうには惜しいものがある。どうかね? ジグムントは魔族と人間の共存を掲げる国だ。君たちもアメル様やレオル様とともに来ると言うのは如何かな? 歓迎するがね?」
余裕の笑みを浮かべた男の視線が甲板の上から見下ろされていた。僕は……僕は、アメルの手をギュッと握り締めながら振り絞るように声を出した。
「君は人間を殺した。僕とアメルは人間を殺せない。約束なんだ。今はマグリットのイリスや皆を信じたい。それに、アメルと一緒に居たいんだ。母さんの国は無くなった。帰る場所は……」
俯いた僕が言葉を呑み込むと、アメルの手が僕の手を握り返した。力強くて、温かくて……僕もギュッとアメルの手を握りしめた。アメルが顔を上げた僕を見た後、男を睨みながら視線を返すように見据えていた。
「帰る場所は此処よ? 少なくとも此処に居る皆は私とお兄ちゃんを傷つけたりはしない。私とお兄ちゃんは、貴方たちや誰かの所有物にはならないわ?」
フッと笑ったアメルの瞳が僕を見ていた。朱色の長い髪が洞窟に吹き込む風に揺れていた。僕もアメルの目をじっと見つめた。お互いに頷いた僕とアメルは、一歩……一歩──。そこから前を向いて歩き出した。男の魔物のような冷酷な視線が、僕とアメルを切り裂くように向けられていた。見据えたまま、負けないように視線を返す。アメルの手の温もりを感じる。
(ザッ……ザッ……)
僕とアメルは、イリスとヘイダル、メネトとテフェルの前に立ち──、朽ちた帆船の甲板の上から見下ろす魔族の男を見上げた。
「アメルちゃん! レオル君!」
「二人とも、自分の後ろに下がるのである! あの男は並の魔族ではありませんぞ!!」
──悲痛なイリスの叫び声と、焦燥にかられたヘイダルの声が背中に聞こえた。
「ふむ。覚悟を決められたようですね? では、お二人がお気に召す仲間の人間を四人……。腕によりをかけて、存分に振る舞わせて頂きましょう。その後で、ともに刹那の愉悦に浸ろうではありませんか? 変容のバヌレフと呼ばれた我が名と力、とくと御覧頂きたい……」




