19.暗闇の底
「う、うわぁぁっ! ぐっ!」
──光が閉ざされた。突然、足場を失くした。身体が暗闇の中を落下して行く。ケストナー伯爵が年老いた人間の執事の男を手に掛けた凄惨な光景を見た後、皆の悲鳴が聞こえた。殺人の瞬間と暗闇の落下の恐怖に誰もが言葉を失った。
「テフェル! 光の結界を皆に! イリスは結界を補強してっ!!」
落下の最中、張りつめたアメルの叫び声が聞こえた。暗闇に光の結界がテフェルの手もとから瞬時に広がり始め、瞬く間に皆を照らした。
「ぬあぁっ!!」
重たい鎧を着込んでいたヘイダルが奈落の底へと激突する寸前だった。その瞬間──、イリスの胸の金の十字架が、はめ込まれた大きな赤い魔石とともに輝いた。テフェルの結界がその光を取り込むのが見える。バリバリと音を立てて電光が走り、結界の中へと広がった。そして、ヘイダルと皆を間一髪──、すんでの所で包み込んだ。
(バチ……バチバチ……)
テフェルの光の結界が冷たい瓦礫だらけの地面に消えて行く。その魔力の残滓が、倒れたイリスの胸に輝く金の十字架に残り、ポゥッと暗闇の辺り一帯を灯していた。
「うっ……痛い」
落下していた時間がとても長く感じられた。どれくらいの高さから落ちたんだろう。ビリッと痛みが全身に走った後、僕は指先を動かして身体をどうにか起こしていた。暗闇の中でイリスの胸の光が、倒れた皆の姿を幽かに照らしていた。
「アメル! 皆っ!!」
立ち上がった僕の声に皆がピクリと反応した。震える身体が少しずつ起こされて、微かな息づかいが聞こえる。ピチャン……と、何処かから水滴の落ちる音が聴こえた。瓦礫の地面に手をついたアメルが朱色の長い髪を耳もとに掻き上げて、へたり込んでいた。突然の出来事に誰もが呆然としていて、辺り一帯が僕ら以外、闇の静けさに包まれていた。
「また一人、尊い命が……。先ほどの部屋の床、転移の魔法陣でしょうか」
「いや。それにしてはお粗末だ。ここに落とすための仕掛け、罠だろう」
暗闇の幽かな光に瓦礫を手に取ったテフェルが、石ころを見つめながら呟いて座り込んだ。メネトがフードをかぶったまま俯き地面に両手をついて、やっとの想いで半身を起こしていた。
「マグリットの民を手に掛けるなんて! うっ……!」
「……イリス様」
泣きながら身体を起こしたイリスが黒縁の眼鏡を外して、顔を手で覆いながら座り込んでいた。重い鎧を着込んだヘイダルがイリスの背中をそっと擦りながら「くそっ!」と、言葉を吐き捨てた。その声が洞窟のように辺りに響き渡って木霊していた。
「何よ、これ……。本当、キルスとかジグムントとか……あいつらが来てから、嫌なことばっかり」
うな垂れて俯いたアメルの後ろ姿に、掛ける言葉が見つからなかった。僕は唇を噛み締めギュッと両手の拳を握り締めて立ち尽くすしかなかった。
「くっ! あ、アメル……」
その時──、闇の向こう側から地面の瓦礫を押し分けて、こっちに近づいて来る何かの物音と気配を感じた。
「どうやら、悲しみに暮れている時間は無さそうだな?」
「また魔物ですか? 考えたくは無いですね」
メネトが暗闇の中で見つけた自分の杖を手に取ると、テフェルが目を閉じて胸の銀の十字架をそっと手にして祈り始めた。
「イリス様、テフェル殿の光の結界の中へ」
「うん……」
フーッと息を吐いたヘイダルが背中の大剣を抜いて、光の結界の前で立ち上がり身構えていた。他の皆は身を寄せ合う様にして、結界の中で息を殺して静かにしていた。
「一、二……三体。ヘイダル一人じゃ不利ね。このままじゃ勝てない。殺される」
アメルが耳を澄ましてジッとしていた。張りつめた冷たい空気が肌に伝わる。ゴクリと僕は息を呑み込んだ。闇の中を見透かすようにグッと目を見開いたアメルのエメラルドグリーンの瞳が輝いている。
ズズ……ズズズ──と、何かが地面を引きずる様な音が闇の向こうで聞こえた。それに、シュルシュルと舌先を動かす魔物独特の音も聴こえていた。
「アメル様、数が問題ではありません。このヘイダル、王国で培った心技を死力を尽くして御覧に入れましょうぞ……」
ジワリと額に汗を搔いたヘイダルが鉄甲の指先で兜に触れた。ガシャンと鉄の様な金属の仮面が降りて、ヘイダルの顔を覆う。関節部分の鎖かたびらと身体を覆う金属製のプレートがヘイダルの闘気に包まれていた。ガクガクと震えていたヘイダルの剣の切っ先がピタリと止まった。シンとした静かな空気を今にも切断するかと想えるほど剣気が研ぎ澄まされていた。
「ルシカ殿、アキハ殿……聖騎士のエルゼラ団長には遠く及びませぬが、自分とて闘気と魔力を練り出す〝輪廻〟の技は、僅かながら扱えるのです」
初めて聞く人間の名を二人……耳にした。アキハ以外は知らない。剣を構えるヘイダルが呟いた三人の名前が、暗闇に響いて消えて行った。
「僧拳士のルシカ、私の妹。魔双剣のアキハは私の幼馴染み。エルゼラはパパである国王直属の騎士で……王国最強に数えられる三人は誰も此処には居ない。スレイプニルも……」
俯いたイリスの瞳の色が絶望に打ちひしがれて震えていた。
アキハ──。無事だろうか。あれから時々、思い出す。もしも、一緒に冒険出来ていたらって想う。けれども、アキハは此処には居ない。得体の知れない闇から迫る恐怖に、〝もしも〟って言葉が僕らの心を蝕む。
繰り返す〝もしも〟が脳裏に浮かんだ……。映し出すのは最悪の未来──、「全滅」の恐怖。絶望が光の結界の中で僕らを襲う。震えが止まらない。
イリスには妹が居た。ヘイダルには自分よりも強いエルゼラって言う団長が居る。けれども、此処には誰も居ない──、アキハもだ。
「お兄ちゃん?」
「え?」
「しっかりして。イリスもだよ?」
「アメルちゃん……そうだったわね。マグリットの王女として、しっかりしないと」
僕は光の結界の中でイリスとアメルを見た。負けるなんて微塵も思っていないアメルの目が僕とイリスを見ている。イリスの目が、恐怖と絶望に呑まれないように必死で戦っている。僕はグッと拳を片手で握り締めた。足下でテフェルが僕の服の裾を掴んで呟いた。
「レオル様の青き髪の色は勇者様の髪の色。そして、アメル様の瞳は勇者様のエメラルドグリーンの瞳。奇跡は必ずや起きます。ましてイリス様は母神である女神様を主神とするマグリットの王女様なのですから」
疑いのない真っ直ぐなテフェルの瞳が僕の目を見ていた。絶体絶命の窮地に追い込まれても尚、神々しさを失わせないテフェルの姿に、メネトが「信心が過ぎるな?」と言って笑った。
「フッ……。聖職者らしい物言いだな、テフェル? さて、魔法も使えないことだし、どうしたものか。彷徨える魂たちが、仮初めの魔物の姿で闇の直ぐ傍まで来ているぞ?」
メネトの言葉の直ぐ後に、ヘイダルの構えた剣の切っ先がピクリと僅かに動いた。
「メネト殿……後方の援護を頼む。この状況下において、まともに戦えるのは──」
「気づいていたのか、ヘイダル? 良いものがある。こう言った時のための、とっておきの暗器だ。身体の自由と魔力を奪い取る。先の戦いでは良いところが無かったからな?」
「切り札と隠し玉は、お互いに最後まで取って置くものですな……メネト殿」
闇の中を這いずる様な音が、ゆっくりと近づいて来る。光の結界の中で僅かな希望にすがるように、ガクガクと震えた僕の足が止まった。
「誰も死なせないよ。僕にだって勇者の父さんと魔王の母さんの誇りがあるから……アメルも皆も守ってみせる。魔物なんて怖くないから」
「お兄ちゃん?」
「レオル君……?」
フーッと深呼吸をしてから僕は、かぶっていたフードを脱ぎ去り青色に輝く自分の前髪に触れて見つめた。足もとに転がる瓦礫の石を手に取ると、僕にだって戦えるんじゃないかって想えた。テフェルの光の結界から一歩外に出ると、真っ暗な暗闇だけが目の前に広がっていた。




