32.見過ぎ令嬢は婚約手続きに待ったをかける
フロリスから手紙を受け取ってから一週間後。
もはや彼を出迎える際の儀式と化していたクラウディアのエントランスうろつき行動は、過去最高潮の激しさを見せていた。
そんな主にリリィは静かに声をかける。
「お嬢様。いい加減になさってください……」
「だって……だって! これからフロリス様が正式に婚約のお手続きをするためにこられるのよ!?」
「そうですねぇ……。ここまで来るのに本っっっっっ当ぉぉぉぉぉーに長い道のりでしたねぇ……」
「違うの! そういう意味じゃないの! ああ……どうしたらいいの!?」
「どうするもなにも……お嬢様は、ただ旦那様のお隣でニコニコしながらお座りになられていればよろしいのでは? その間に旦那様が、ササッと婚約誓約書にサインをなさってくださいますよ?」
「そうなのだけれど……そうじゃないの!!」
いつもはフロリスに会うことが楽しみすぎてパニックを起こしているクラウディアだが、この日は切羽詰まった状態でエントランスをうろついていた。
この一週間、彼女は本当にフロリスと正式に婚約してもよいのだろうかと悩みに悩んだが、結局は答えが出せないまま本日を迎えてしまったのだ。
フロリスがクラウディアを婚約相手に選んだのは、騎士団長が出した退団条件を達成するのに一番好条件な相手だったからだ。
だが、そんなクラウディアとの婚約を貫こうと、彼は一週間もかけて両親を説得し、婚約誓約書のサインをもぎ取ってきてくれた。
フロリスには、生涯を心から愛せる女性と結ばれてほしいとは思う。
だが、一週間もかけて両親を説得してくれた彼の労力はどうなるのだろうか。
そんな葛藤を彼女はこの一週間、繰り返していた。
今のクラウディアは、この婚約をどうすれば一番フロリスの幸せに繋がるのか、全くわからない。
そのもどかしさからエントランス内を行ったり来たりしているのだが、侍女のリリィには久しぶりにフロリスと会えることに興奮して、チョコチョコしているようにしか見えないようだ。
「お嬢様。久しぶりにフロリス様とお会いできる嬉しさで興奮される気持ちはわかりますが、いい加減に慣れていただけませんか?」
「だから、そういうのじゃないの!!」
すると、外から馬の蹄の音が近づいてきた。
その瞬間、クラウディアが緊張でピシリと固まる。
しばらくすると、遠ざかる蹄の音と共に兄とフロリスが邸の中に入ってきた。
「ラディ……。お前、朝からずっとここでフロリスがくるのを待ち構えていたのか?」
「ち、違います! 待っていたのは、ほんの十五分くらいです!」
「どちらにしても待ち構えていたんじゃないか……」
呆れた様子の兄の背後から、フロリスがひょっこりと顔を出す。
「クラウディア嬢! 久しぶりだね。三週間ぶりになってしまったけれど……元気にしていた?」
三週間前は第三騎士団の不祥事の後始末に忙殺され、目の下にクマを作っていた彼だが、今はもう回復している様子だ。
すっかり見慣れたキラキラの王子様スマイルをクラウディアに向けてくる。
「は、はい。フロリス様もお元気そうでなによりです」
「ごめんね……。もう少し早く戻りたかったんだけど、母がなかなか折れてくれなくて……」
その言葉にクラウディアが一瞬だけ肩を震わせる。
どうやらクラウディアとの婚約に猛反対していたのは、フロリスの母であるシエル夫人らしい。
耐え難い現実をなんとか受け止めようと、クラウディアは唇を引き結ぶ。
すると、フロリスが困惑気味な笑みを向けながら優しく頭を撫でてきた。
「でも安心して。ちゃんと納得させてきたから。婚約誓約書にもサインをしてもらってきたし」
そう言ってフロリスが肩から下げていた鞄からなにかを取り出そうとすると、兄がそれを制止した。
「こんなところで出すな! 今から父がサインをするのだから、その時に確認させろ」
「あーっと、すみません……」
「お前、少し浮かれすぎていないか? 花畑頭なのは妹だけにしてくれ……」
「副団長。それ、妹さんに酷いです……」
「これが我が家流のラディの扱い方だ。慣れろ」
そういってズンズンと応接室に向かいはじめた兄にクラウディアが慌てて声をかける。
「あ、あの、お兄様! その……少しだけフロリス様とお話する時間を……」
「後でいくらでも話せるだろう。まずは優先させるべきことを先に済ませろ。父上もお待ちだ」
「で、でも……」
クラウディアが粘ろうとするも、兄は長い脚でスタスタと歩きはじめてしまう。
その歩調についていけず、何度も小走りをする羽目になったクラウディアは、移動中にフロリスと言葉を交わすことなどできなかった。
すると、あっという間に応接室に到着してしまう。
ノックと同時に入室した兄のせいで、クラウディアは心の準備が一切できないまま応接室に入る。
すると、フロリスの姿を目にした父が挨拶のため立ち上がった。
「フロリス殿、この度は娘のクラウディアとの婚約を望んでいただき、ありがとうございます。本日は婚約誓約書までご用意いただいたとのことですが……。その、こう言ってはなんですが……本っ当ぉぉぉーに、うちの娘でよろしいのですか?」
すると、思わず噴き出しかけた兄が誤魔化すようにわざとらしい咳をする。
そんな兄を睨みつけていると、フロリスが力強い言葉で父に返答した。
「はい。是非、お嬢さんを生涯の伴侶としてお迎えしたいです」
フロリスの言葉にクラウディアは嬉しさで涙目になり、両手で口元を覆う。
そんな妹に呆れるような視線を向けたクレストは、盛大に溜め息をついた。
「父上。とりあえず一度、席に着きませんか?」
「あ、ああ。そうだな。フロリス殿、どうぞこちらへおかけください」
父に席を勧められたフロリスが長椅子に腰を下ろすと、その隣に兄も座った。
そうなるとクラウディアは、自動的に父の隣に座ることになる。
だが、この状況にクラウディアは非常に焦っていた。
実は当初の彼女の予定では、父の執務室に入る前にフロリスと婚約の手続きについて話し合いをするつもりだったのだ。
しかし、先ほど無自覚な兄に邪魔されてしまった。
ならば世間話から本題に入る父に便乗し、フロリスに中庭を案内したいなどの理由をつけ、彼を執務室から連れ出そうと考えていた。
しかしこの状況では、すぐに婚約誓約書にサインをする流れである。
焦ったクラウディアが立ち尽くしていると、兄に「早く座れ!」と窘められる。
仕方なく兄と向かい合わせとなる席につくと、予想通り父は世間話から会話を開始した。
「いやはや、一カ月前に娘と婚約を前提で交際の許可を求められた時は、本当に驚きましたが……。本当にそのまま正式なお手続きまでしていただき、とても感謝しております。娘はその、なんというか、少々内向的というか……恥ずかしがり屋というか……変わり者というか……」
「お、お父様!」
少しずつ評価を下げてくる父親にクラウディアは、つい口を挟む。
「すまん。だが、間違ってはいないと思う」
「…………」
そのことに関してはなにも言い返せないので、クラウディアは押し黙る。
すると父親は、再びフロリスのほうに向き直り、話を再開させた。
「そんな娘にためにわざわざ一週間もかけて、ご両親のサイン入りの婚約誓約書を早々にご用意していただき、その誠実さに感服いたしました」
「いえ。その……こちらの都合で、できるだけ早くお嬢さんとは正式な婚約を結びたかっただけなので、どうかお気になさらないでください」
その話からクラウディアは、フロリスが婚約を急いでいる理由は兄オルフィスと隣国リグルスの第二王女のためだと、すぐに思い当たる。
「ほほう。その急がれた理由を伺っても?」
「実は跡取りの兄が、突然隣国リグルスへ移住すると言い出しまして……。焦った両親が私に家督を継いでほしいと泣きついてきたのです」
「そ、それはなかなか大変な状況ですね……」
「ええ。今まで自由気ままな次男として過ごしてきたので、急に領主になれと言われ、かなり焦っております。つきましては、三カ月後に現在所属している第二騎士団を退団し、父から領地経営をみっちりと叩き込まれる予定です」
すると、なぜかフロリスがジッとクラウディアを見つめてきた。
「その際、娘さんにも次期シエル家の子爵夫人として学んでいただきたく、我が領地にお招きしたいと考えております」
「ええっ!?」
あまりにも予想外な展開にクラウディアが驚きの声を上げる。
父もその話は初耳らしく、唖然とした表情を浮かべていた。
「で、ですが、流石に婚約が成立後、僅か三カ月で夫人教育というのは……少々気が早すぎるのではないでしょうか」
「その件につきましては、本当に申し訳なく思います。ですが……私は騎士団を退団後、自領の領地経営を学び切るまでは王都には戻れません。もしお嬢さんを王都に残せば、最低でも一年間は手紙だけのやり取りになってしまいます」
「な、なるほど。しかし今から三カ月後というのは、あまりにも急で挙式の準備などが……」
「ご安心ください。式に関しては、しっかりと時間をかけて準備いたします。ですが、そうなると婚前に共に暮らすことになりますので、お嬢さんの体裁にも関わります。できるだけ早く正式な婚約を結び、すでに我が家が彼女を囲い込んでいると周囲にはアピールしたいのです」
これまで一切そのような話をされていなかったクラウディアは、あまりの展開の早さに口をポカンと開けたまま固まる。
どうやらこの一週間でフロリスは両親の説得だけでなく、確実にクラウディアをシエル家に迎え入れる準備を整えてきたらしい。
責任感が強い彼は、自身の都合で申し込んだ婚約だとしても、それを貫く覚悟を決めているのだ。
それが一層、クラウディアに罪悪感を与えてくる。
「わかりました。そこまでご準備いただいているのであれば、安心して娘を送り出すことができます」
父の言葉に安堵の表情を浮かべたフロリスが肩掛けの鞄から、黒革のファイルを取り出した。
「それでは……こちらにご署名をいただけますでしょうか」
そう言ってファイルを開き、父の前に差し出す。
そこには二箇所にサインがされた婚約誓約書が挟まれていた。
それを目にした瞬間、クラウディアが息をのむ。
「ええ、もちろん」
そう言っていつの間にかテーブルの端に置いてあったペンとインク瓶の乗ったトレイを父親が引き寄せた。
そこからペンを取り、先端をインク瓶に漬ける。
そしてフロリスが用意した婚約誓約書のエインフィート家側の署名欄にペン先を近づける。
その瞬間、クラウディアが大声で叫んだ。
「お、お待ちくださぁぁぁぁーい!!」
部屋中に響き渡る声量だったため全員が体をビクリとさせ、一斉にクラウディアに驚きの表情を向ける。
「ラディ、急にどうしたんだ? お前は、ずっとフロリス殿との婚約を望んでいただろう?」
「そ、それは……そうなのですが……。で、ですが、このままわたくしと正式に婚約を結んでしまったら、フロリス様の幸せな結婚が……」
よくわからないことを口にするクラウディアに三人が怪訝そうな表情を浮かべる。
「僕の幸せな結婚なら、今クラウディア嬢が止めに入らなければ確定したんだけれど……」
「そ、それは違います! だって……フロリス様はオルフィス様のために退団するには、どうしても中央貴族の令嬢と婚約する必要があったのですよね!?」
その話にフロリスだけでなく、兄クレストも理解ができないと言わんばかりに眉を寄せる。
だが、父親はその娘の訴えからフロリスに鋭い視線を向けた。
「どういうことでしょうか? 今の娘の話では、まるでフロリス殿が騎士団を退団をするためだけに娘との婚約を希望されたように聞こえたのですが?」
「そ、それは誤解です! そもそも僕にも彼女が言っていることが、よくわからないのです! クラウディア嬢、なぜそこで僕の兄の話が出てくるの!?」
「その……一カ月ほど前に騎士団の詰所で、ある話を耳にしまして……。フロリス様が、お兄様と隣国の第二王女殿下が結ばれるために家督を継ごうと退団を申し出たら、騎士団長様から引き止めに合い、一カ月以内に中央貴族の令嬢と婚約をしなければ退団を認めないと、無理難題な条件を突きつけられていると……」
「「はぁ!?」」
この話にフロリスだけでなく、クレストまで素っ頓狂な声を上げる。
「ええっ!? ちょっと待って! そんな話、いつ出まわってたの!? ふ、副団長! ご存じでしたか!?」
「知っていたら、お前がこいつに婚約を申し込みたいという話は受けていない!! ラディ! その話をしていたのは誰だ!!」
「だ、誰って……そ、それはちょっと……。で、ですが、外部の方もご存じで、叙勲祝賀会の際に婚約を辞退したほうがいいとご助言を……」
「それはどこの誰!? もしかして、いつも僕に群がってきている令嬢の一人!?」
「そ、それもちょっと……。その方のご迷惑になりますので、お答えするのは控えさせていただきたいかと……」
クラウディアがモゴモゴと言いよどむと、兄とフロリスが盛大に溜め息をつく。
すると、苦笑を浮かべた父がある提案を口にする。
「フロリス殿。どうやら娘は今回の婚約にあたり、なにかとんでもない方向へ勘違いをしているようです……。一度、じっくり話し合っていただけないでしょうか」
「ええ……。僕のほうからも是非お願いいたします……」
力なく答えたフロリスは、父から「よければ中庭でも散策しながら……」と勧められ、二人は中庭へと向かった。





