2.見過ぎ令嬢の兄は苦労人
部下を熱意溢れる令嬢たちから救出している兄の姿を眺めていたクラウディアは、輪の中に入れない臆病な自分に引け目を感じ、そっと視線を外した。
そしてバルコニーの手すりに頬杖をつき、現実逃避するように夜空を見上げる。
兄クレストは厳しい言葉を放つことが多いが、意外にも面倒見がいい。
先程のように部下だけでなく、クラウディアのことも一応は気にかけてくれる。
だが昨年ぐらいから初恋を拗らせ、奇行に走り気味な妹には呆れている様子だ。
そんな兄なので、もしクラウディアがフロリスとの間を取り持ってほしいと声を上げれば、面倒そうな反応をしながらも、その機会を作ってくれるだろう。
しかし内向的な性格の彼女は、三年経った今でも彼を見つめるだけで精一杯な状態だ。
その妹の現状に最近の兄クレストは、かなり苛立っている。
この奇行のせいで、来年成人を迎える妹には未だに縁談の話がこないからだ。
『このままでは妹が行き遅れの小姑になる』
兄に心労を与えている自覚はあるが、それでもフロリスを目で追うことはやめられない。ましてや自分からアプローチするなど、塔から身投げする覚悟でもなければ無理だ。
仮にフロリスが誰かと結ばれることがあれば、その女性ごと熱い視線を送ってしまうだろう。
そんなクラウディアが唯一フロリスと交流できたのは、三年前に兄から新しい部下だと彼を紹介された時だけだ。
しかし当時十四歳だった彼女は、フロリスの美男子ぶりに緊張で硬直してしまい、呆れ気味な兄に代理で自己紹介をしてもらうという情けない状況だった。
つまりクラウディアは、この三年間フロリスを見続けていただけで、まともに会話をしたことがない。
妹のその状況に一年目は内向的な性格だからと、静観を決め込んでいた兄。
しかし二年経っても変わらない状況に呆れ、三年目ではそれが苛立ちに変わる。
そして現在では「もうさっさと腹を括り、想いを伝えて玉砕してこい!」と言い放ってくる。
恐らく兄だけでなく、周囲の人間もクラウディアの状態には呆れているはずだ。
だが、それでもフロリスに対してアプローチを起こそうという勇気がでない。
その思いを奮い起こすには、あまりにもクラウディアの自己肯定感は低すぎた。
『地味すぎる自分が彼と交流したいと願うことは、あまりにも図々しい』
クラウディアの中では、常にこの考えが頭の中を支配している。
彼女にとってフロリスという人間は『雲の上の人』であり、自分とは違う世界に住んでいる存在という認識なのだ。
だが、彼の姿を目にすると貪欲なまでに見つめてしまう。
『手の届かない人であっても見るだけなら、きっと許される』
内向的なクラウディアにとって、これが唯一フロリスに好意を伝える方法なのかもしれない。そんな控えめな思いとは裏腹に彼を見つめる姿は、周囲に大胆な行動として映っている。
毎回フロリスの姿を視界に捉えたクラウディアは両手を胸の前で組み、まるで神でも崇めるような視線を送っているのだ。
そんな遠慮のない熱い眼差しを送り続けた結果、フロリスに対する淡い恋心は周囲に知れ渡り、嘲笑の対象となってしまったのだ。
これが先程、令嬢たちからあのような会話を浴びせられてしまった経緯である。
その醜聞は当初、同じ年頃の令嬢間だけで囁かれているだけだった。
しかしこの三年間、あまりにもクラウディアがフロリスに熱い視線を送りすぎたため、今では世代や性別に関係なく彼女の奇行は有名である。
そんな妹の状況に誰よりも頭を抱えているのが兄クレストだった。
職場では「兄なのだから妹の恋の後押しぐらいしてやれ」と同僚や上司から揶揄われ、職場で妹の縁談話を持ち出せない状態に陥っているらしい。
一応、過去にクラウディアと年齢が近い部下に縁談を打診したらしいが、フロリスに対する恋心が知れ渡っているせいで、誰もその話に乗ってこなかったそうだ。
現状の兄は妹の奇行だけでなく、婚約者ができないことにも頭を悩ませている。
だからといってフロリスに妹との縁談を持ちかけるわけにもいかないのだろう。
上司という立場で妹の意中相手の部下に縁談打診などしたら、当然周囲は兄が妹のために職権を乱用したと感じるはずだ。
なによりもその展開は、フロリス自身が断りづらい状況に追い込まれることが明白である。
そもそもフロリスは、自身に送られる熱い視線の存在に気づいているのだ。
その状況で縁談など組まれたら、クラウディアも恥ずかしさで死にたくなる。
妹の性格をよく知っている兄だからこそ、今までフロリスに縁談を打診しないでいてくれたのだろう。
そんな状態で縁談に応じられたら、クラウディアは罪悪感に苛まれてしまう。
現状、見つめているだけで十分幸せを感じていても、将来的に伴侶になれる機会が訪れてしまえば『愛されたい』という欲が必ずでてくる。
仮にその夢のような状況が訪れても、温厚で誠実なフロリスであれば大切にしてくれるだろう。
だが、それは立場が上の兄から打診された断れない状況で成立した関係であり、そこに彼の意志はない。
周囲が見えなくなってしまうほど好意を垂れ流しにしているクラウディアだが、その想いは彼の選択の自由を奪ってまで遂げたいものではない。
この先、別の女性が彼の隣に立つことがあっても、そこにフロリスの幸せがあれば、その状況を受け入れる努力を惜しみなくできるとクラウディアは自負している。
しかし令嬢達に囲まれている様子を目にしてしまうと、その決心は揺らぎだす。
この先、彼の隣に別の女性の姿があっても目で追うことはやめられないだろう。
だが、それは自分以外の女性と仲睦まじいフロリスの様子を常に目にする地獄のような状況だ。
果たしてそんな辛すぎる状況に自分は耐えられるのだろうか……。
締めつけるような痛みを和らげようとクラウディアは胸に手を当て、そっと目を閉じる。しかし、それは突如かけられた低く柔らかな声に阻まれた。
「こんばんは、クラウディア嬢。そのような薄着で外にいては風邪を引いてしまいますよ?」
一切人の気配がない状態で急に声をかけられた彼女は、慌ててその方向へと目を向ける。すると手すりに頬杖を突いた美青年が、にっこりと笑みを浮かべながら顔を覗き込んできた。
その状況にクラウディアは、思わず息をのむ。
穏やかな笑みを浮かべた人物、それはつい先程まで彼女が熱い視線を送っていたフロリスだった。