「大切なものは鍵をかけてしまっておかないとね」という婚約者から逃れるには、鳥籠が安全圏です
どうしてこうなってしまったんだろう。というのは、早い段階で考えるのをやめた。
「リーシャ、鍵はどこ?」
「捨てたわ」
サイラスの穏やかな問いかけを私はばっさりと切り捨てる。
人を優に閉じ込められる大きな鳥籠の中、優雅に紅茶を飲みながら。堂々たる居住まいで迎え撃てば、サイラスは前髪をかき上げて小さくこぼした。
「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ……」
こんなはずじゃなかったのは、私も同じだ。
予想外の出来事に、それでも焦る様子のないサイラスは私に視線を投げた。
「こんな大きな鳥籠、どうしたんだい」
「大きな鳥を囲うために特注したの」
「美しい鳥が囲われていてかわいそうじゃないか」
「自由はいらないわ。翼を折って、狭い世界でいくの」
「なぜそんなことを? 君には自由が似合うのに」
「自由の代償が大きいからよ……」
「代償? なんの話だ?」
「こっちのこと。私はここで生きていくの、放っておいて」
あえて突き放して、これ以上話すことはないとばかりに紅茶を啜る。温みを失った紅茶は少しほろ苦い。
私の態度にサイラスの手が忌々しげに格子にかけられ、カシャンと鳴った。ゾッとするような仄暗い目が、低く声を出す。
「リーシャ。鍵はどこ?」
「……捨てたってば」
背筋が冷たくなりながらも言い返せば、サイラスは「そう」と打って変わった笑顔で背を向けた。
「図らずも、愛しい鳥が自ら鳥籠に閉じこもってくれたんだ。しばらくはそのままにしておいてあげるよ」
見張っておけ、と部屋の前に騎士を置いて、サイラスは出ていった。
❇︎
サイラスとモブキャラのリーシャは、家の繋がりを強くするために婚約を結ばされたそれぞれの家門の駒だ。
政略結婚がゆえにお互いに興味のない二人なので、サイラスがヒロインと出会ったことでリーシャは婚約を破棄されそうになる。しかしサイラスはまったく相手にされず当て馬にさえなれず、結局リーシャと結婚をする。サイラスはヒロインに想いを残したまま、リーシャは自由を得たままで。
――というのが、サイラスとリーシャが登場する『ときめき☆ウェディング』という乙女ゲームの正ルートだ。自分好みのイケメンを攻略して結婚するという、まぁ単純なゲームだった。リーシャにとってはハッピーエンドの見えないこれが正ルート? とも思うが、リーシャにとってはこれが一番のハッピーエンドなのだ。
ゲームをプレイしたことのある転生者の私だからこそ、その真実を知っている。
「なのに、ヒロインったら……!」
リーシャのハッピーエンドは、サイラスがヒロインに惚れることで叶う。
ヒロインに懸想するサイラスが本来ならこんなにリーシャに関心を持つことはありえない。声をかけることも目を合わせることも、リーシャの存在すら無に等しく扱うサイラスはそれほどまでにヒロインに想いを向ける。サイラスはヤンデレ枠だ。無として扱われた方が、リーシャは幸せなのだ。
――しかし。
「ぜっっったいに失敗したわよね。サイラス惚れてないじゃん!」
ヒロインはどこかで選択を誤ったらしい。
最初のうちこそ物憂げにしていたサイラスはストーリーの進行と共に、なぜか私に興味を持ち始めた。気のせい? 気のせいよね? と適当にあしらっているうちにヒロインは自分はしっかりとハッピーエンドでストーリーを締めくくり、サイラスはヤンデレる矛先を私に向けた。向けたことを察して、私はすぐさま鳥籠を特注した。逃げる選択肢は一ミリもなかった。
「だってサイラスルートはヤンデレ拗らせてヒロインの心を殺しちゃってたもん……!」
正ルートではないが、サイラスルートももちろんある。最初こそ幸せに満ちあふれたヒロインとサイラスだが、サイラスの愛は重く他の男性との接触を禁じ、果ては使用人、メイドの目に触れることまで嫌がった。ヒロインには自分だけ、という洗脳と監禁状態でストーリーは終わる。
サイラスに愛されるヒロインは抜け殻で、人形のような表情のヒロインを抱きしめるサイラスのスチルイラストがヤンデレ好きに人気を集めていた。
「私は絶対に嫌。あんな人形みたいになるなんて、まっぴらごめんだわ!」
だから、そうならないように私は人との接触を避ける。避けるというか、ヒロインだって普通に生活していただけなのに、それさえ許されないのだから自ら閉じこもるしかない。
サイラスが嫉妬に狂ってヤンデレを拗らせないように、闇落ちして暴走してしまわないように。
ゲームの中のセリフにあった、「大切なものは鍵をかけてしまっておかないとね」の通りに。
「鳥籠の中で安全に生きていくわ……!」
固く決意して、私は鳥籠の中から窓の外に広がる空を見上げた。
❇︎
「食事を持ってきたよ、リーシャ」
それから、サイラスは私の世話の度に手ずから必要な物を持って部屋を訪れた。メイドに任せることも、使用人に持たせることもしない。部屋の外に騎士を置いて、その他の人間を寄せつけようとしなかった。
私が鳥籠に入ってからすでに十日ほど、サイラス以外の人間に会っていない。
「そろそろ窮屈じゃないかい?」
「いいえ、全然。快適よ」
格子の隙間から差し入れられる食事を受け取ると、小さなサイドテーブルに置く。サイラスは部屋に備え付けられた一人掛けソファに腰を下ろした。
「いくら魔道具のおかげで水回りの心配がないとはいえ、そんなところで済ませていたのでは落ち着かないだろう。その時間だけでも出てきたらどうかな」
「その時はカーテンを掛ければいいし、魔道具が優秀だから意外と快適なの。高いだけあったわ」
「ずいぶんと無駄づかいをしたものだね」
「必要なものは惜しんじゃいけないのよ」
そう、必要なものは。
転生前の単位であらわせば四畳半ほどの鳥籠は本当に無理を言って作ったもらったし、魔道具だって高価なもの。その二つで私のコツコツと貯めた何かあった時のため貯金は簡単に底をついてしまったが、仕方ない。
簡単には壊れない鉄製鳥籠にベッドとサイドテーブルを置いて、カーテンでプライベートを確保する。狭くはあるが、転生前の一人暮らしをしていた部屋だって家賃安めの狭いワンルームだった。問題ない。
「今のままではメイドだって君の世話をできない。不自由だろ?」
「ご心配無用よ。自分でできるもの」
私は根っからのお嬢様じゃないからね。
お湯の入ったティーポットを傾け、カップにお茶を注ぐ。温みの残るパンはやわらかくて、バターをさっと塗ればたちまちにとろけて食べごろだ。これだけお膳立てされて、なんなら自分で食事をできない方がおかしい。そもそも、はなからメイドに世話をさせる気なんてないくせに。
私の食事風景を監視しながら、サイラスは「そうだ」と用意していた話題を白々しく切り出した。
「君が閉じこもっているうちに僕らの婚姻式の日取りが決まったよ。ドレスを仕立てなきゃいけないね」
「あら、ドレス」
「そのためにはそこから出てきてもらわないと」
「そうね。ドレスはあなたに任せるわ」
「は?」
「あなた好みに、ご自由に仕立てて?」
サイラスは目を丸くした。遠回しに「ここから出ない」という意図がちゃんと伝わったようだ。
気にせずお茶を飲む私に、サイラスは口元だけで笑みを作った。
「……考えてみるよ」
その言葉通り、サイラスは仕立て屋を私に会わせることなくドレス作りを進めた。採寸など一度もなく、私の好みだって一度も聞かない。
一生に一度のドレスは、サイラスの瞳の色に染め上げられた独占欲あふれる毒々しいものになった。
仕上がったドレスをお披露目された私は、なんの感慨もなく「素敵ね」と感想を述べてサイラスを満足させた。
❇︎
「リーシャ、三日後には婚姻式だよ。メイドたちが君を仕立てたくてうずうずしてるんだ。出てきたらどうだい?」
ドレスのお披露目から少し経って、傍目にはわからない程度にサイラスは浮き足立っていた。
私の世話とは関係なしにやってきたと思ったら、ご機嫌な口ぶりでいつも通りに私を誘い出そうとしてくる。
「女性は数日をかけて支度をすると聞いたよ」
「だったら、メイドをここに呼んで。格子越しでもできるわ」
私もいつも通りツンとそっけなく返す。
メイドを呼ぶなんてこれまでは口だけだったけれど、婚姻式の準備なのでさすがに今回は本心らしい。
いつものようにあっさりと引く気配はなく、興味を示さない私にさらに続ける。
「ドレスだって一度も試着をしていない。さすがに着付けるのは、ここから出ないと」
「試着なんて必要ないわよ。サイラスを信じてるもの」
信じてる、なんて。経緯を知っていれば嫌味に聞こえるかも知れない。けれど私に嫌味のつもりは一切なく、ただただ鳥籠から出たくないだけ。
私の言葉の意味をどう捉えるかはサイラス次第だけれど、そこはなぜか聡く私の考えを読み取っていく。余計な拗れが出ないぶん楽なのか、むしろ厄介なのか。
「……まさか、当日まで出てこないつもり?」
「当日も出ないわよ」
しかし、まだ甘い。私に『鳥籠を出る』という選択肢が一切ないことを、サイラスはいまだに理解していない。
ガタンと音を立ててソファから立ち上がった。サイラスが強張った顔で、鳥籠に近づいてくる。
「まさか君は、式さえも鳥籠の中にいるつもりなのか……?」
「私はこの中にいたいの」
「鍵は」
「何度も言ってるでしょ? 捨てたって」
これは実は、嘘ではなく本当のこと。鳥籠に自ら入り鍵をかけ、開いていた窓に向けてポーイと投げ捨てた。なのでまぁ、探せばその辺に落ちてはいると思うけど。今のサイラスはそこまで気が回らないだろう。
強張った顔に無理矢理に笑顔を張り付けて、サイラスは私を覗き込んだ。
「リーシャのご家族はどう思うかな。大切な娘が、鳥籠から出てこないなど」
「不思議に思うでしょうねぇ」
ただ本当に、不思議に思うだけだと思うけれど。家の駒でしかない私に、それ以上の愛情は両親から与えられてこなかった。
「そうだ、式の前にご家族とお茶の席を設けようか。そうすれば君も、安心して……」
「そうね、安心して里心がついて、お家に帰りたくなっちゃうかも」
鼻で笑いそうになるほどの嘘だ。実家に戻ったところでまた新たに家に有益となる婚姻相手を当てがわれるだけ。
それはサイラスにとっても同じことで、だからこの嘘も見透かしているはずだ。黙り込んでいたサイラスは鳥籠の格子を握りしめて、打って変わって情けない声を出した。
「……リーシャ。リーシャ、お願いだ。出てきてくれ」
「嫌よ」
「式はどうするんだ? 鳥籠の中の花嫁など、僕はどうすればいい」
「式なんて挙げなきゃいいのよ。慎ましく、ここで神に誓えばいいわ」
「そんな、リーシャ……」
はじめに見せていた余裕は、いつしか焦りに変わっていく。
すぐに鳥籠から出てくるだろうと鷹を括っていたサイラスは、今や私の手のひらの上で踊り始めていた。悲しげな瞳が私に向けられる。
「それで、君は僕に愛を誓ってくれるのか? こんな閉ざされた空間に、僕の手も届かない。君が手を伸ばしてくれないと、触れられさえしない。君は、僕を愛してくれるのか?」
私を捕まえようと手を伸ばして、けれど届かなくて、悲痛に懇願する。
「サイラス――」
伸ばされた哀れな手を同情心たっぷりに見下ろして、私は頬を染めた。
「あなたこそ、私に愛をくれるのかしら?」
パッとサイラスの目が輝く。自然と緩んだ口元が声を弾ませ、無邪気な子供のように雰囲気が華やいだ。
「捧げるよ、君に、誰よりも深く大きな愛を。僕にしか与えられない。君を愛するのは、僕だけだ」
急ぎ慌てた口調で想いを捲し立てられ、私は微笑んだ。
「嬉しいわ、サイラス」
「だから出てきてくれ。僕の手を取ってくれ、リーシャ……」
「ええ。もちろんよ、サイラス」
「リーシャ……!」
「――この、鳥籠の中からね」
「はっ……?」
一瞬の間を置いて、サイラスの握り込んだ拳が鳥籠に叩きつけられた。
「あ、ああぁぁぁああぁぁああああああっ!!!!」
力の限りに叩きつけられる拳にもはや痛みなど感じている様子もなく、大きくて不快な金属音が何度も鳴り響く。そこに混じるサイラスの悲鳴は悲しみを凌駕した怒気がこもっていて、まさに狂気だった。
「出てきてくれリーシャ、愛してる、君を愛してるんだ、出てきてくれよ!!」
ガシャン、ガシャンッと容赦なく、その必死な様子に私は冷めた視線を送った。
「鳥籠を壊したら、私はあなたの手を二度と取らないからね?」
その言葉にぴたりと暴れる手を止めたサイラスは、しばらく私を睨みつけた。けれど私が冷静に態度を変えず見つめ返すと、怒りは再び悲しみに変わっていく。格子を握りしめたままずるずるとへたり込んだサイラスは、すっかり意気阻喪していた。
肩を震わせ嗚咽し始めたサイラスのそばに寄ると、格子を握る赤黒くなってしまった手に自分の手を添えた。
「リーシャ……リーシャ、僕を、愛して……」
「愛してあげるわ。私は、鳥籠の中から」
涙で顔を濡らすサイラスは、重ねた私の手に朧げな瞳で口付けた。唯一許されたその接触を愛しんで、惜しむように何度も。
まるで飼い犬が飼い主に愛を伝えるように従順に、懸命に、私の手を取って離さないでと懇願するように頬擦りをして。
「いい子ね、サイラス」
――本当は、ヒロインに想いを拗らせて闇落ちするサイラスを、隣で見ているつもりだったけど。
私に想いを寄せて、私の意のままに拗らせるサイラスをここで見ているのも悪くない。
私の手に必死に愛を伝えるサイラスに、恍惚の境地に至る。
「愛してる、リーシャ……」
鳥籠の中で私は、最推しの狂愛を甘受する。