日本語能力検定に臨む台南市の菊池須磨子
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
地理的な距離の近さと歴史的な絆の深さも相まって、この台湾島の中華民国では日本語の語学教育が重視されているの。
それは私こと菊池須磨子が通っている台南市立福松国民中学も例外ではなくて、選択科目として日本語や日本文化の授業が開講されているんだ。
日本人の父と漢族系本省人の母との間に生まれて名前も完全に日本式だけど、生まれも育ちも台南市で日本へはまだ一度も渡航していない。
そんな私が日本語と日本文化の授業を選択しているのは、父の故郷にして若き日の両親の思い出の土地への思慕の念が原動力になっているんだろうね。
いつか日本へ渡航して、私の名前の由来ともなった神戸市須磨区の土を踏む時の為に。
今日も私は、第二外国語として選択した日本語の勉強に勤しむんだ。
私が中学で履修している日本語の選択授業は、公的資格である日本語能力試験の受験も視野に入れているの。
言語知識やヒアリングの小テストは普段から定期的に実施されているけど、今日は本番を想定した模試の結果が帰ってきたんだ。
「ねえ、菊池さん。模試の結果はどうだった?」
終業のチャイムが鳴り止むや否や、同じクラスの曹林杏さんが私の席へ一気に近づいてきたよ。
そもそも模試は自分との戦いだけど、他の受講生の成績はやっぱり気になるのだろうね。
「う〜ん、語彙力をもう少し鍛えなくちゃなぁ…言い換え類義と語形成の派生語の問題で、ミスが目立つんだよね…」
採点済みの解答用紙を見つめながら、私は溜め息混じりで答えたの。
合格点には達していたけど、テストはあくまでも水物だからね。
当日の試験で泣きを見ないよう、苦手分野はなるべく克服しておきたい所だよ。
「それでも菊池さんは、聴解問題はパーフェクトじゃない。私、聴解問題はあんまり自信ないんだよね。特に即時応答の所がイマイチなんだ。今回の模試も聴解の基準点がギリギリだったから、本番が怖いんだよね…」
「よ…よしてよ、林杏さん。私まで不安になっちゃうじゃない…」
たとえ総合得点で合格点に達していても、各得点区分で基準点を満たせていなかったら合格証明は貰えない。
そこが日本語能力試験のシビアな所だよ。
返却された模試の結果に、私と林杏さんはこれから受験する日本語能力試験の本番に不安を募らせるばかり。
そんな私達の深刻ムードに、教室に残っていたもう一人の女子生徒が風穴を開けてくれたんだ。
「菊池さんも林杏さんも、そんな気負い過ぎたら良くないよ。二人とも模試の結果も悪くないんだし、それに試験当日まで時間はあるんだから充分間に合うって。」
至って何気ない口調で私達をフォローしてくれたのは、私や林杏さんと同じクラスの王珠竜ちゃんだった。
日本法人で駐在員をしていたお父さんの影響もあってか、珠竜ちゃんは日本語科目を選択した一年生の中でも特に成績が良いんだ。
何しろ先生からも、「多少の訛りに目を瞑れば、日本語ネイティブと殆ど変わらない」って評価される位だし。
「あっ、そうだ!私、今日の放課後に文昌帝君へ御参りに行く予定だったんだけど、菊池さんと林杏さんの二人も一緒に行こうよ!」
珠竜ちゃんが御参りを提案した文昌帝君というのは、北斗七星の文昌宮を神格化した神様で、道教においては学問や科挙を司っていらっしゃるの。
そういう訳で文昌帝君は中華圏における学問の神様として広く愛されていて、この台湾だと受験生はみんな文昌帝君に合格を祈願するんだ。
「それは良いね、珠竜ちゃん。何しろ文昌帝君は『北の孔子、南の文昌』と言われる程に御利益がある訳だし、その文昌帝君が後押しして下さると考えたら心強いよ。折角だから林杏さんも行かない?」
「この流れだと、行かないって選択肢は流石に無いかな…日本には『正直者の頭に神宿る』って諺もある訳だし、しっかり勉強をしている私達なら文昌帝君への御参りも『苦しい時の神頼み』にはならないよね。」
今日の授業で習った日本語の諺を、林杏さんったら早速活用してきたね。
今回の日本語能力試験に対する林杏さんの意気込みが、そこからも伝わってくるよ。
こうして意見の纏まった私達三人は、台南市のお寺に建立された文昌堂へ御参りする事になったんだ。
金字で「文昌堂」と記された扁額の掲げられた豪華で荘厳な御堂を前にすると、自然と背筋が伸びてしまうよ。
「菊池さんも林杏さんも、準備は大丈夫だね?」
「問題ないよ、珠竜ちゃん。私も林杏さんも奉納用に受験票をコンビニでコピーしてきたし、御供え用の肉まんと粽も屋台で買ってきたからね。」
珠竜ちゃんに応じながら、私はテイクアウト用の網袋に収まっている肉まんと粽の包みに視線を落としたの。
文昌帝君への御供えはセロリやニンニクといった生野菜が一般的だけど、実は肉まんや粽も御供えに出来るんだ。
それというのも、肉まんを表す「包子」の「包」には「保証する」って意味があって、粽の「粽」は「当たる」って意味の「中」に発音が近いんだ。
それで包子と粽を二つ合わせて「合格保証」になる訳だね。
文昌帝君への御供え物は持ち帰って受験生が食べる習わしになっているけど、セロリやニンニクといった生野菜は調理しないといけないじゃない。
その点、肉まんや粽なら参拝の帰り道にそのまま食べられるよね。
「屋台で粽を買う時には、林杏さんに助けられたよ。林杏さんが機転を利かせて『その粽に鶉や家鴨の卵は入ってますか?』って聞いてくれなかったら、きっとそのままだったからね。」
「そりゃそうよ、菊池さん。折角の文昌帝君への御供えなのに、卵が入っていたら何にもならないじゃない。」
文昌帝君への御供えにおいて、卵や団子みたいな丸い物はタブーとされているの。
何しろ丸い形は算用数字の「0」を連想させるからね。
誰だって0点は取りたくないじゃない。
御供え物の準備も出来た訳だし、後は作法に則って御参りをこなすだけ。
屋台で買い求めた肉まんと粽に赤紙を貼り付けてテーブルに置いたら、試験当日に使う文房具と受験票も御供えの隣に並べるんだ。
そうして一通り並べ終えた時、私は大事な事に思い至ってしまったの。
「より本式にやるなら、受験当日に着る衣服もテーブルに置かないといけないよね。試験会場って、確かうちの中学だったような…」
「確かにそうだったよ、菊池さん。それで試験の要項には、『児童・生徒は在籍校の制服で試験に臨む事』って書いてあって…あっ!」
どうやら林杏さんも、私の言いたい事が分かったみたいだね。
「困ったなぁ…お寺で制服のブラウスやスカートを脱いだら、流石に不謹慎だろうし…」
「不謹慎ってレベルじゃ済まないよ、林杏さん。下手すりゃ学校に連絡されて大目玉だって!」
そんな具合に狼狽える私達を尻目に、珠竜ちゃんは何と緑色のブレザーをいそいそと脱ぎ始めたんだ。
「ちょ…」
「えっ、珠竜ちゃん…?」
呆気に取られる私達の目の前で白いヘアバンドを外すと、珠竜ちゃんは襟元の赤いネクタイにまで手をかけてしまったの。
だけど、それで終わりだった。
先の3点セットを一纏めにすると、そのまま珠竜ちゃんは線香を買いに行ってしまったんだ。
「ブレザーやネクタイだって、試験日に着る服である事には変わりないよね。何も当日に着る制服を全部置く必要はない訳だし。二人とも、そこまで考え過ぎなくって良いんだよ。」
「えっ?ああ、そっか…」
「それもそうだよね、珠竜ちゃん。文昌帝君もそこまで厳格な事は仰らないだろうし。」
そうして私達も珠竜ちゃんに倣う事で、恙無く参拝の作法をこなせたんだ。
蝋燭やお線香に火をつけて、お茶やお酒を御供えして。
合格祈願の御参りが済んだら、後は御神籤や絵馬の奉納といった付随する儀式を気分に応じてこなしていけば良いんだ。
「あ〜あ、また笑杯じゃない。これじゃ何時まで経っても御神籤が引けないよ…」
「そのまた前は三回連続で陰杯だったね。」
地面に落ちた筊の結果に、林杏さんはゲンナリした顔で肩を落とすばかりだった。
何しろ三日月型の筊杯二枚を投げて表と裏一つずつの聖杯の役を出さないと籤を引けないんだから、林杏さんが愚痴りたくなるのも無理はないよ。
日本の御神籤ならお金を払えばすぐに引けるらしいから、先を急ぐ人にはその方が有り難いかも知れないね。
私はまだ日本に行った事がないから、この点については珠竜ちゃんや両親からの受け売りなんだけど。
だけど私としては、叶えたい願い事を神様に判断して貰う擲筊の占いは風情があって好きなんだよね。
こうして文昌帝君への御参りを終えた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれていたの。
この時間帯になると夜市も始まるから、台南の市街地は一層に賑わいを増してくるんだ。
夜市のある辺りや街角の屋台から漂ってくる料理の芳香や、夕闇に輝くネオンサインの繁体字など、五感全てに訴えかけてくる刺激が何とも言えないね。
まあ、要するに小腹が空いてきたって事なんだけど。
「どうかな、二人とも。肉まんと粽を食べた事だし、締めに何か甘い物でも食べに行かないかな?ほら、『甘い物は別腹』って言う訳だし…」
こんな事を言い出しちゃって、「菊池さんったら食いしん坊」って思われないかな…
だけど、そんな心配は杞憂だったの。
何かに閃いたかのような得意気な微笑を浮かべるや否や、林杏さんが即座に応じてくれたんだ。
「それなら験担ぎも兼ねてリンゴ飴でも食べに行こうよ。この近所の夜市にも、日本式のリンゴ飴を出す店があるみたいなんだ。」
この林杏さんの提案は、私としても喜ばしい限りだったんだ。
何しろリンゴは台湾でも縁起の良い果物として扱われているからね。
中華圏でリンゴは「苹果」と呼ばれているんだけど、これには「平安の果実」という意味も含まれているんだ。
「それは良いね、林杏さん!確か日本の農家さんも台風を耐え抜いたリンゴを『落ちないリンゴ』と呼んで受験の縁起物として売っていたみたいだし、日本語能力試験試験の縁起担ぎにピッタリじゃない!」
どうやら珠竜ちゃんにも、異論はないみたいだね。
それにしても、珠竜ちゃんって本当に日本に詳しいんだなぁ。
それもひとえに、親日家の御家族の薫陶かな。
そう言えば珠竜ちゃんは、さっきの御参りの時に妙な事をしていたけど、あれも日本語能力試験の合格祈願に何か関係があるのかな?
「そう言えば文昌堂の御参りの時に、珠竜ちゃんは鎖みたいなのを一緒に御供えしていたよね?あれって、何かのおまじない?」
「鎖って…ああ、これの事かな?」
そう言って珠竜ちゃんがポケットから取り出したのは、サングラスでも入れるようなプラスチック製のケースだったの。
そうして中から細長い鎖を注意深く摘み上げたんだ。
「これは眼鏡用のチェーンだよ。センスの良いのが売っていたから、お姉ちゃんにプレゼントしようと思ってね。」
「お姉ちゃんって、美竜さんの事?」
一人っ子の私とは違い、珠竜ちゃんには高校生のお姉さんがいるんだ。
珠竜ちゃんよりも五歳年上のお姉さんは王美竜さんと言って、黒髪のロングヘアーと眼鏡が似合う知的な優等生なの。
私も珠竜ちゃんの家に遊びに行った時に何度かお会いしたけど、美人で優しい素敵なお姉さんだったなぁ…
「うちのお姉ちゃん、日本の大学を受験するために猛勉強の真っ最中でね。せっかくプレゼントするなら文昌帝君の御加護を込めておこうって。勿論、お姉ちゃん自身でも御参りには行ったみたいだけど。」
「ああ、それで自分の制服と一緒に御供えしていたんだ…上手く志望校に受かると良いね、珠竜ちゃんのお姉さん。」
それだけ慕ってくれる妹がいるなんて、珠竜ちゃんのお姉さんが羨ましいな。
私達三人も珠竜ちゃんのお姉さんも、みんな無事に合格点を取れると良いね。
今日の合格祈願の総仕上げという事で、夜市のリンゴ飴は心して食べなくっちゃ!