【3】
「ミア、もうすぐ迎えが来ます。用意は済みましたか?」
二人で過ごした二年間も今日が最終日だ。
十歳になった美杏は、研究所に呼ばれて行くことになった。これからは「まともな」英才教育を施され、国を支える一人になる。
研究所は、「天才児育成プログラム」を備えており、AIや遺伝子操作の実験で国を支える場所だ。
そこがガラス張りの実験室や監視システムに囲まれているというのは知っていた。カイ──、海斗が「アンドロイドになりきる」訓練を受けた場所でもあるからだ。
「……本当に終わりなのね。でも、また会えるでしょ?」
美杏の声には、まだ少し幼さが残っていた。十歳の少女にしてはしっかりしているけれど、それでもこの別れには、感情を抑えきれない。
海斗はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。僕はこの後、残していた右脚の『擬態』を終わらせて、新しいご主人様に仕えます。だから、あなたとはこれで永遠のお別れになります」
「どうして⁉ 会うくらい──」
彼女の声が震える。泣くまいと必死に堪えているのがわかった。
それでもカイは感情を表に出さず、役目を果たすように淡々と語る。
「……あなたならどうですか? 自分の『アンドロイド』が他の人間と会っていたら、何も感じませんか?」
美杏は一瞬言葉に詰まり、それから訴えるように声を上げた。
「カイ──、カイ、それは嫌よ。だってカイのマスターはわたしだから……。でも……」
その小さな胸の中で、理性と感情がぶつかり合っている。
彼女をこれ以上混乱させないように、海斗は「アンドロイド」としての役目を最後まで演じ切ろうと優しく言葉を続けた。
「あなたはきちんと理解しているはずです。余計な感情は忘れて、未来だけを見てください。僕の『オリジナル』はすべて研究所の人間です。──その意味がわかりますか?」
美杏はしばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「研究所にいる人たちがカイの元になったってことね」
「やはりあなたは優秀だ。その通りです」
その言葉に美杏は微かに笑ったが、目元には涙が光っていた。カイは彼女の両手をそっと取る。目を合わせるその瞬間だけは、「役目」ではなく「本心」でいた。
「あなたは素晴らしい研究員になれる。皆がそう期待しています。でも一番それを知って、信じているのはこの僕です」
「……カイ。わたしのアンドロイドが、あなたでよかった」
その言葉を聞いた時、海斗は確かに自分の中にあった何かが報われたのを感じた。
美杏はもう「人間」を恐れてはいない。研究所にいる男性にも怯えることはないだろう。彼らは美杏の中では「カイ」と同じだからだ。
この先彼女は、確かに前へ進める筈だ。
「管理官、仕事を世話してくれないか?」
美杏を送り出したあと、海斗は遠藤管理官に連絡を取って頼んだ。
この社会で生きて行くなら、何があっても美杏の目に姿を晒すことがあってはならない。海斗の希望はただそれだけだ。
「絶対に美杏と顔を合わせることのない仕事を。力仕事でも、汚れ仕事でも、なんでもいいから」
彼の声には懇願が滲んでいた。これ以上美杏の未来に自分が関わってはいけない。ただひたすらにそう考えていた。
「研究所の仕事ならいくらでもあるんだがな。……まあ仕方がない。君がそう望むなら」
遠藤の返答は相変わらず冷徹だが、どこか温かい。
その後、海斗は機密情報のメッセンジャーとして働くようになった。
誰にも名前を明かさず、記録にも残らない。危険はあったが、だからこそ「表」には出ない仕事だった。
美杏の名が世に出るその時、決して足を引っ張る存在になってはいけない。それだけが彼の信念だった。
◇ ◇ ◇
朝の空気はまだ冷たく、カーテンの隙間から差し込んだ光が部屋の中に小さな陽だまりを作っている。
眠りの浅さを引きずったまま、呼び鈴の音に海斗は目を覚ました。
「……んだよ、まだ八時──」
ぼやきながら扉を開けた瞬間、息が止まる。
「カイ!」
目の前にいたのは成長した美杏だった。別れから八年が経つ。妹ももう十八になるのか。
別れたあの日よりずっと伸びた身長。大人びた表情。それでもあの頃の面影は確かに残っている。母によく似た美しい少女の、暗褐色の長い髪が揺れた。
「いいえ、お兄様。──そうよね? カイはわたしのお兄様なんでしょう!?」
「……何を、いったい何を言ってるんです? 僕はアンドロイドで──」
「じゃあ、どうしてまだ右脚がそのままなの?」
彼女の視線が足元へ向く。
寝起きのままの海斗の足先──、剥き出しの機械の義足。言い逃れの余地はなかった。
「それにもし『アンドロイド』なら、今のわたしと同じくらいの年齢のままのはずよ。──カイ。いえ、お兄様。わたしは今年から主任研究員になったの。データにアクセスできる権限を得て調べたのよ。カイの記録には義足の修理履歴しかなかった。不自然だったわ。それで遠藤管理官を問い詰めたら、『カイは人間で君の兄だ』って認めたわ」
海斗は沈黙し、無意識に目を逸らす。
「だったらここに来ちゃいけないくらいわかるだろ!? そうさ、俺は人間だ。でもお前なんか知らない。ただの海斗だ。──俺の存在はお前の邪魔にしかならない!」
吐き捨てるように言った声には、怒りよりも恐れが混じっていた。
それでも美杏は一歩も引かなかった。
「──わたしは今もはっきり覚えてるの。初めてあの部屋で過ごした夜、『カイ』が手を繋いでくれたこと。一人で寝るのが怖くて仕方なかったけど、カイの手は温かかった。……機械のはずなのにね」
ああ、そうだ。あのとき美杏は「手が温かい!」と驚いていた。
「そもそも、どうしてここがわかった? 研究所のデータにそこまで入ってるのか?」
「遠藤管理官に訊いたのよ。彼は言ったわ。『君が会いたいと望むなら、それがすべてだ』って。わたしの意志を尊重して教えてくれたのよ」
「……あのおっさん、相変わらずだな」
海斗が苦笑する。
彼女が本当に『兄』を必要としているのかどうか。それはどんな真実よりも重要な問題だった。
「アンドロイド・カイ」が兄だと知っても、美杏が会うことを希望するとは限らない。
海斗が危惧していたように、己の将来にとって危険な存在でしかない「兄」と距離を取りたい、最悪その存在を抹殺したいと願う可能性も否定できないからだ。
「昔、あいつが俺に言ったんだ。『美杏に必要なのは交換条件のない愛情だ』って。冷たそうな顔して妙に人間臭いこと言うんだよな、あのおっさん」
美杏の目が光る。
「だからわたしはすぐに信じたの。カイがお兄様だって。わたしはずっとカイのことを考えてたわ。だから真っ先に調べたデータは全部おかしかった。カイがアンドロイドならもっと詳しい記録があるはずだもの」
おそらくは故意に不完全なデータを残してあったのだろう。絶対に知らせたくなければ、アクセスしようのない最重要機密にしておけばいいだけなのだから。
きっと遠藤管理官が仕組んだのではないか。
「俺が兄だと知ったら、お前は俺を憎むかもしれない。いや、それは構わないんだ。ただお前に責任を感じさせたくなかった。だからあの夜、俺が父を殺したことだけはずっと隠したかった」
「どうして? お兄様は単なる『殺人鬼』なんかじゃないわ。全部わたしのためだった。一人で何もかも被ってわたしを救ってくれた。……そうでしょう?」
強い言葉。
そうだ。美杏はもうあの頃の、社会を拒絶しておどおどしていた幼い少女ではない。
「ねえ、お兄様。わたしは十八歳で主任研究員になったのよ。最年少でこそないけれど、決してよくあることじゃないわ。──だからあなたが何であろうと、わたしが足元を掬われることはない。わたしが研究所に依存してるわけじゃなくて、研究所がわたしを必要としているんだから」
自信に満ちた妹の台詞に、海斗は圧倒される。
あの小さかった妹が、飛び抜けた才能だけが集う場所で力を握るなんて。あの無機質な施設で、彼女はこの八年間どれだけ戦ってきたのだろう。
「お兄様がわたしを助けてくれたように、今度はわたしがお兄様を守るの」
美杏の言葉に、胸の奥で何かが震えた。
──一方的に守るだけじゃない。八年前のあの日に完全に諦めた「共に生きる」という選択肢が、こんなにもまっすぐ目の前に差し出されるなんて。
そんな未来を、想像していいのか。
いや。「美杏が望むなら」きっといいのだろう。あの頃、毎日のように考えていたそのままに。
「……妹に守られるだけじゃ情けないな。俺も研究所でできることをおっさんに探してもらうか」
美杏の目が輝く。
「お兄様、行きましょう。わたしと」
海斗は目を細め、小さく息を吐いた。
「そうだな。それもいいかもしれない」
差し出された手は、もうあの頃のように小さくはなかった。
海斗はゆっくりとその手を取る。伝わる温かさは何も変わっていなかった。
人間として。兄として。
ようやく「未来」という名の扉に手を掛ける覚悟ができた気がした。
「兄妹」と名乗るつもりはまだない。
だが、人間同士として再び隣に立てるのなら、それで充分だ。海斗はこれからも、美杏の幸福だけを願って『生きて』行く。
──もう一度掴んだ温もりが、今度こそ未来へ続く道標になる。
~END~