【2】
「そんな馬鹿らしい……! 通るわけないだろ!」
初めてこの計画を持ち掛けられたとき、怒りより呆れで声を荒げた海斗に、相手はどこまでも真剣だった。
国の、表向きは捜査機関、……おそらくは情報関係の管理的立場にいるらしい遠藤という男。
あまりにも怒涛の展開に、記憶そのものが曖昧なのだ。
「美杏は現実の社会を知らない。ごく幼いころからずっと君の父親に閉じ込められて、歪んた英才教育を施されていた。……髙いIQだけに着目した偏った教育を。……常識そのものを知らないんだから大丈夫だ」
明らかに異常なその事態について、何でもないように真顔で述べる彼に悔恨の念が襲って来る。
「俺がもっと早く見つけられたら良かったんだ! そうしたら──!」
実の娘を実験材料としてしか見なかったあの男から、一日でも早く奪い返せていたら。
物心もつかない娘を連れ去って姿を消した父親。
「この子は天才だ! 相応しい教育を与えないと!」
「……何言ってるの? 美杏はまだやっと二歳なのよ!? もし天才児なんだととしても、そういうのがわかるのはもう少し大きくなってからじゃないの?」
一人盛り上がる父は、母が困惑して諫めるのにも聞く耳を持たなかった。
研究者崩れだと常に自嘲していた父。彼に足りなかったのは、きっと知的能力だけではなかった筈だ。
「もういい! お前みたいな凡庸な女に育てられたら、せっかくの才能も台無しだ!」
日々繰り広げられていた両親の口論は忘れられない。
それが突然の父の暴挙で断ち切られたことも。
海斗は当時十二歳だった。
母は約一年前に病でこの世を去るその瞬間まで、いきなり引き離された娘のことを気に掛けていた。
髪を伸ばしていたのも、母が喜んだからだ。心の何処かで海斗を美杏と重ねていたのだろう。
年齢も性別さえ違う息子に、娘の面影を見出そうと彼女は必死だった。妹と色は多少違うが癖の具合がよく似た髪は、格好の材料だったに違いない。
そう、海斗はずっと美杏に関する事情を聞かされて育った。
幼い娘を守れなかった、と自分を責めて涙を流す母を慰めながら、父への憎悪と妹への思慕を募らせていた。
決して自分には向けられない母の関心を、そうすることで無意識に埋めて意識を逸らし誤魔化したかったのだと今は思う。
母亡き後、もう理由などないというのに髪を切る踏ん切りがつかなかったのも、きっと同じ。
ようやく父の消息を突き止めたのは半年前のことだ。美杏を連れ出すだけならそこまで難題ではない。
問題は、諸悪の根源の父の存在を消すことだった。
「美杏はまだ八歳だ。今ならきっと間に合う。……彼女に必要なのは『交換条件』を介さない愛情だよ。ただ甘やかすだけでは駄目だ。これは君にしかできない」
考え込んで半ば自分の世界に没頭してしまっていた海斗に、男が言葉を繋ぐ。
交換条件。「この問題が解けたら」「これが全部できたら」というのが、すべてにおける父のやり方だったという。
食事を与える、遊びを許す。何かと引き換えにするものではない、当然のことでさえも。
「このまま治療を受けている病院で『対価を受け取って仕事をこなす』スタッフに囲まれて過ごすよりは、アンドロイドとの間に信頼関係を築く道を探る方が美杏の将来のためになる」
そう彼は説得して来た。
「君にも伝えたが、美杏は大人の男を怖がる。『できなかった』時に父親に殴られていたからだろう。私も最初に顔を見せて以来接触できていないし、彼女に不要な負担を掛けてまで試みる気もない」
だから「アンドロイド」なのだ、と彼は重々しく言葉を発する。海斗に、機械の身体と人口知能を持つ「人間ではない存在」になり切れ、と。
父親を殺害して、妹を奪還した。
それ自体は依然として正しかったという考えに揺るぎはない。生かしておいたら、あの男は確実に美杏を狙ったはずだ。
けれど海斗は決して正義のヒーローではあり得ない。この法治国家では、単なる殺人犯に過ぎないこともきちんと理解していた。
父との美杏を巡る攻防で、海斗は右脚のほぼすべてを失った。
大振りな刃物と棒状の得物を振りかざす父に応戦した際、切り付けられ殴打されたのだ。
深夜の襲撃でドアを破るのに手間取り、父に飛び起きて凶器を用意する余裕を与えてしまった。
とにかく美杏を守って、父を始末することしか頭になかった。
ベッドで眠っていた妹を包まった寝具の上から被さるように庇ったのは美杏に攻撃が及ぶと考えたからではない。
父が敵意を、──殺意を向けたのは海斗だけだ。おそらくはそれが捨てた息子だと知る由もなく。
ただ、彼女に見せたくなかったのだ。人が傷つけられる、……殺されるその現場を。
ベッドの上、兄に結果的には拘束されたかのような闇の中で美杏は確実に目覚めていただろう。
けれど、彼女の目に姿を晒さず痛みから漏れた唸り声以外に意味のある言葉も発しなかったことが、今となっては計画遂行の重要な要素なのは紛れもない事実だった。
正体を隠したかったからではない。
いくら周囲には我関せずの胡散臭い人間の集まりとはいえ、あまりにも大きな騒ぎになれば巻き込まれるのを恐れて保身を図る者もいるかもしれない。
脛に傷持つ身が多いとしても、決して「逃亡者の巣窟」ではないのだ。
薄い寝具を隔ててこの身に感じた温もりを、海斗はこの先忘れることはない。あの時妹に感じた愛しさは、嘘偽りのない本心だ。
我が身を守るのは二の次になってしまい、ナイフを持つ手が届かない無防備な右脚は執拗に切り裂かれ打ち据えられた。海斗はその痛みを堪えながら、どうにか振り向きざま父の喉を突き刺したのだ。
もんどり打って床に倒れた父に、止めを刺したのは確実な筈なのによく覚えていなかった。
すべてが終わり、さすがに見て見ぬ振りを貫けなかったらしい近隣住民の通報により海斗は捕縛された。
錯乱状態だったのか、意識自体がなかったのか。
事件後の海斗の記憶に残るのは「美杏は無事保護された」という朗報に加え「右脚は切断するしかない」との宣告を受けたことぐらいだ。
そして現状、海斗が歩行どころか生活全般にまったく困らないのは、相当な権能を持つらしいこの男が手配してくれた精巧な義足のおかげである。
「この義足は国家の極秘技術だ」
遠藤が淡々と話した。
「人間の脚と遜色ない動きを再現する。君をこの計画に組み込むための投資だった」
海斗は己の義足を見つめる。あの夜の代償が、この冷たい金属の脚なのだ。
右脚ほどでないが、満身創痍だった身体はそこかしこが包帯に覆われていた。しかし体表の傷は、既に大半が跡形もなく消えている。
父を手に掛けて妹を助け出したことで、海斗はもう何も思い残すことはなく罪を償う気でいた。
それなのに何故か拘留もされずに、必要以上にも思える手厚い医療が施された。挙句、荒唐無稽な企ての主要人物として選定された、らしい。
この「機械の脚」を活かせ、と目の前の男が畳み掛けて来た。
人間の右脚が機械なのではない、逆に右脚だけを人間風に繕う時間がなかったのだという設定を使えと。
単にゴムやプラスティックで覆えばいいわけではない。「本当の人間と遜色ない」脚に擬態するには非常な手間が掛かるからだ、と彼女を欺くための材料として利用するよう諭される。
「これも司法取引ってやつなのか?」
「そう思ってくれても構わないよ。君に考えてほしいのは、『何が美杏にとって有益か』だけだ」
皮肉を込めた海斗の台詞にも、数々の修羅場を潜り抜けてきたのだろう相手は微塵も動じなかった。
「美杏のような子は国にとって『資源』だ。だが、IQの高さだけを見て感情や人間性を切り捨てる教育が施されるわけではない。それは《《私たち》》の目指すところではないのでね。美杏には機械に置き換えられない人生を歩んで欲しいと考えている。──美杏を含めて、彼らは『人間』なのだから」
「美杏は『実験体』じゃなくなるってことか?」
海斗の問いに、彼は無言で頷いた。
「……私にも娘がいた」
それでも不信感を露わにして口を噤んだままでいる海斗に、彼が唐突に語り出す。
「いた、って?」
サラリと過去形で口にした相手に、思わず訊き返していた。
「七歳の時に誘拐されたんだ。私に要求を飲ませるためにね。結果的には生かして帰す気は最初からなかったようだ。その日のうちに殺されたのはわかっている」
「だから……?」
海斗の呟きは黙殺される。
──七歳。現在の美杏とほぼ同じ。
何故こんな職務に忠実で冷徹そうな男が、たかが一人の少女を気に掛けるのか。
美杏に利用価値があるからか。
だったら父とどう違うというのか、とずっと棘のように引っ掛かっていた疑問が解けた気がした。
口先だけかもしれない、という疑念も拭えない。
海斗、……まだ十八の取るに足りない相手ならこの程度で懐柔できると甘く見たための計算ではないと誰が言える?
けれど、男の貼り付けた仮面のような無表情の裏の苦渋が微かに透けて見えた気がした。
信じてみようか。
少なくとも、この男の案に乗れば美杏の傍らにいて気配りすることはできる。万が一この男が「敵」なら、その時に動いても遅くはない筈だ。
どちらにしても、美杏が権力にとって「利用価値のある存在」と見做なされているのはまず間違いなかった。
それならこちらも利用してやろう。妹の身近にいられるこの機会を逃してはならない。
「……わかった」
「交渉成立だね。では、訓練を受けてもらおう」
アンドロイドに扮するための。
不安を隠しきれていないのだろう海斗に、美杏なら納得させられる、と男は持論を述べた。
機械工学や医学に関しても、彼女はおそらく同年代の子どもとは比べ物にならない、しかし所詮は半端な知識を有している。本人ではなく教えた側の能力の問題で。
だからこそ逆に、「そういうこともある」と丸め込めるというのだ。
それが事実なら哀れに思う。何も知らない、……余計なことだけ知るからこそ騙される美杏が。
マスターは本来、男性に向けられる呼称だ。
女性に置き換えればミストレスになる。しかしこれも、年端も行かない少女には似つかわしくない。
人工知能ならばどう判断するのか、と訓練担当と意見を交わした結果、「マスター」で通すことになったのだ。
こんな些細なことさえ疎かにはできない。
そう。この計画は、何があろうとも美杏の前で失敗することがあってはならなかった。
父親を殺した男が兄だなどと、妹の人生にとって枷にしかならない。
当時は曖昧だった殺害の場面が、時が立つとともに蘇って来ていた。
海斗の視界が一瞬揺れる。血の匂い。父親の叫ぶ声。振り上げられた刃物が右脚に食い込む痛み。
妹には決して知らせたくない事実が。
それでもせめて、すぐ近くにいて守りたかった。そのためには他に方法などない。
兄だと名乗る日は、永遠に来なくても。
◇ ◇ ◇
「じゃあ一緒に食べよう!」
美杏の希望で、海斗も彼女と共に食事をするのが恒例になっていた。
人間ではないので食物は必要としない、しかし表面上「食事を摂る」真似はできる、といういい加減極まりない方便を、妹は素直に信じている。
いや。海斗に知識がないからそう感じてしまうだけで、それこそが「リアル」なのかもしれない。
「プログラムですよ」
アンドロイドにも味覚があれば、と問われ、海斗が不本意ながらも設定通りに答えるのに残念そうな美杏に真実を伝えることはできない。
──本当に、美杏は何も知らないんだろうか。
彼女の頭脳なら、海斗の拙い演技など簡単に見破れるとしても何らおかしくはなかった。
それなのに、『カイ』をアンドロイドだと信じて疑わない妹の様子に逆に不安が募る。「気づいているのでは」という危惧よりも、むしろ「何故、気づかないのか」が気に掛かった。
美杏は人間の男を忌避する。嫌悪、憎悪、……恐怖。
しかしアンドロイドなら何も心配はいらない。
決して危害を加えて来ることはない、忠実な僕ならば。
それが彼女の心にバイアスを掛けているのではないか。「気づかない」のではなく、「気づいてはならない」と自己暗示を掛けているかのように。
けれど確かめる術はなかった。
美杏が無意識にも能力の発露を戒めることで自身を保っているのなら、海斗がそのバランスを崩すことなどしてはならないのだ。
第一、現実逃避だとしたらいったい何だと言うのか。
妹が平穏に過ごせるなら、「普通」の基準など一切不要だった。
美杏が現実など見たくないと望むなら、海斗はそれに従う。世界の片隅の隔絶した空間で、このまま兄妹二人きりで生きていたいと願う自分もいた。
妹自身に父への盲信がなかったことが何より幸いだと感じている。
美杏は苦しんでいた。
しかし逃げられなかった。「逃げる」という選択肢自体が彼女の中には存在し得なかったからだ。
彼女の世界には、ずっと父しかいなかったのだから。「最初から知らないことを『可哀想』とは言わない」と、奇しくも海斗が口にした通りに。
あの時はそう信じていた。
しかし本当にそうなのだろうか。美杏は可哀想ではなかったのか?
すべて知らせた上で選択権が与えられなければならない、と今更のように迷いが生じている。
たとえ事実がどうであれ、彼女を「人間」社会から孤立させたままではいけないのだ。それでは父と同類に成り下がってしまう。
海斗にはこの身が人間だと、……兄だと明かすつもりなどないのだから尚更だった。
だからこそ、「ただの道具」に終始しなければならない。
彼女が『カイ』のことだけでも信じられるように全力を尽くす。
おそらくこの目論見の狙いもそこにある。『カイ』は人間ではないが、人間を可能な限り模倣している。
そう、彼女には繰り返し伝えていた。
つまり人間、……殊に成年男性は、美杏を苦しめた父のような存在だけではない、と彼女が自然に許容できるようになることが一つの到達点なのだ。
美杏が『カイ』を信じて受け入れられるなら、その元になった「人間というもの」への信頼も生まれるかもしれない。『カイ』個体ではなく、その先の大多数へと繋げる橋渡し役。
その時、この計画はようやく次の段階に進む筈だ。他の「人間」と接するという、新たな挑戦へと。
ではこの「幸せな日々」はいつまで続くのだろう。
くだらない。馬鹿らしい。客観的に眺めればそのとおりだと感じていた。他人事なら、海斗もきっとそう考える。
けれど、たとえ世界中から嘲笑されても構わなかった。この愛しい妹のためならどのようなことも厭わない。
間違いなく期間限定のこの時間を、人間でも兄でもなくただの世話役のアンドロイドとしてでも、余すことなく味わいたかった。
持てる力のすべてで、感情など持たない「機械人形」に擬態してみせる。それが美杏の願いで欲することなら異議を差し挟む必要もない。
海斗は今、そのためだけに生きてここにいるのだから。