【1】
──あの時抱え込んだ温もりだけが、この世との繋がりを保つ縁だった。
「はじめまして、ご主人様。僕は『カイ』、あなたのお世話係を言いつかりました」
白い病室のドアを開けると、冷たい蛍光灯の光がカイを迎えた。
壁には監視カメラが静かに動き、、遠くでスタッフの足音が響く。窓際に置かれたベッドで、少女がシーツを握りしめていた。
暗褐色の長い髪が彼女の小さな肩に乱れ、髪と同じ色の大きな瞳がカイを凝視する。
怯えと警戒が混じったその目に、カイは部屋に一歩踏み入ったその場で、淡々と自己紹介をする。
こちらを凝視する十に満たない彼女を怯えさせないよう、距離を詰めることはしない。
「マ、スター……?」
「そうです。あなたは僕のマスター」
シーツを両手で握り締め、不安そうに口を開いた彼女に頷いた。
「何言ってるの?」
「僕はアンドロイドです。人造の身体に、『人間に学んだ』人工知能を搭載した、人間に似せただけの道具です」
懐疑的な様子でさらに問い掛ける少女にそれだけ返し、右下肢を覆う衣類の裾を捲ってみせる。
顕になる、機械の脚部。一瞬息を呑んだ彼女は、それでも気丈に続けた。
「でも他は、……その手も、人間、だわ」
「いいえ。単に右脚は『擬態』が間に合わなかったんです。あなたをお待たせするわけには行きませんから」
全身に警戒を滲ませて食い下がる彼女を、少しでも安心させるために言葉を並べる。
「擬態、──人間の振りってこと? じゃあ他も全部、中は機械なの?」
「そのとおりです。マスター」
この少女は明らかな年少者以外の、青年を含めた成人男性に強烈な拒絶を示す。
そのため直接対応する担当者は、すべて女性で固められていた。カイ以外は。
「わかんない。わたし、よく……」
混乱した素振りの彼女に、カイはあっさりと引く。
「では今日はここで失礼します。また参ります」
少女に暇を告げて元通り下肢を覆い隠すと、カイは病室をあとにした。
「わたしはマスターじゃないわ」
毎日通って五日目だったろうか。少女が思い切ったように告げて来た。いつもの如くどこか強張った表情ではあるが、多少はカイに気を許して来たということなのかもしれない。
「承知いたしました。ミア」
「……うん」
要望に沿ったカイに首肯はしたものの、ミアは何故か戸惑いを見せる。
「どうかなさいましたか? もしお嫌なら変えますので仰ってください。なんでもあなたの指示に従います」
「そうじゃ、ないの。あんまり呼ばれたことないから。──名前」
訥々と紡がれる言葉に、この少女の来し方が窺えた。
「『ミア』はあなたのお名前ですよね?」
「そうよ。……そう、だと思う。でも、病院に来るまで呼ばれたことない気がするのよ」
己の名として知らされてはいたものの、実際に呼び掛けられた覚えがない、と呟く彼女。
「これからは僕が毎日お呼びしますから。すぐに慣れますよ」
カイが語り掛けるのに、ミアの口元が緩む。この少女が初めて見せてくれた笑顔だった。
「ねえ、どうしてカイは髪が長いの?」
黒い、まるで女性のような長髪を後ろで無造作に束ねているカイに、ミアの疑問が投げ掛けられる。今までにも、それとなく気にしている様子は見て取れていた。
「右脚と同じですよ。……そうですね。例えば人形の髪は、最初から綺麗にカットした状態ではありません。ある程度長いものを植え付けて、そこから整えて行くんです。そして髪の調整は一般的には最後になります」
完全に「人間風の擬態」が完成する前に呼ばれたためだ、とカイはミアに説明する。
「だからもしあなたが『もっと本物の人間のように』と仰るなら、右脚はすぐには無理ですが髪は至急仕上げます」
「ううん、いらない。カイは困ってないんでしょ? だったらわたしもそれでいいわ」
慌てたように手を振って否定する彼女に、カイは黙ったまま頭を下げて了承を示した。
病院を出て、ミアとカイは郊外の小さな一軒家に移った。
周囲には人家も人影もなく、窓の外にはただ木々の影が揺れる。遠くの車の音も届かない静寂が二人が暮らすことになる家を包んでいた。必要なものはすべて届けられるため、外出する理由も必要もない。
簡素なダイニングに、ミアの小さな荷物がぽつんと置かれている。彼女は椅子に座り、窓の外をじっと見つめた。
「ミア、何か召し上がりたいものはありますか?」
夕食の希望を尋ねたカイに、彼女は軽く首を傾げる。
「なに、……別になんでも。病院でもそんなの訊かれなかったわ」
「では、病院でお好きだったものはなんですか?」
「嫌いなものなんてなかったから」
質問の内容が理解できない、といった風のミアに、カイは静かに答えた。
「ではいろいろお作りしますので、正直に感想を仰ってください。そうしなければ僕には伝わりません。あなたの好みを知るのも僕の大切な役目ですから」
「……うん」
ダイニングテーブルの椅子に座って待つミアを時折確認しながら、カイはキッチンで彼女のために料理する。
「どうぞ」
「これは?」
テーブルに置かれた皿を見たミアがカイに視線を向けた。
「シチューです。今日は環境も変わってお疲れでしょうし温かくて食べやすいものをと選びましたが、お気に召さなければ作り直します」
「ううん、そんなことない。……カイ、は食べられないのよね?」
否定される前提なのだろう彼女の疑問にも淡々と返す。
「当然ながら食物を摂取する必要はありません。しかし『食べるという型』をなぞることは可能です。人間に擬態する上で外せない行為ですから」
「あの、……じゃあ一緒に食べてよ」
躊躇いがちに、しかしはっきりと意見を表したミアに、カイはやはり迷いも見せずに頷いた。
「了解しました。それではすぐに用意いたします」
もう一つの皿を持ってキッチンから戻って来たカイに、ミアが向かいのもう一つの椅子に座るよう促す。指示通りに腰を下ろしたカイに安心したように、ミアはようやく食事を始めた。
「美味しい! これシチュー? 病院で出たのとは違うわ。それに熱い」
「具材が違うのでしょう。今日はあなたの身体に負担をかけないよう、消化の良いものをと思い野菜だけです。病院ではチキンやポークのシチューが出されていましたね。あなたの病室は最上階端の特別室で調理室も離れていましたし、どうしても冷めてしまうのは仕方がありません。熱すぎはしませんか?」
「大丈夫。ちょうどいいわ。だからすごく美味しい」
嬉しそうに食事を続けるミアを、カイもスプーンでシチューを口に運びながら見守っていた。
「カイ。一緒に寝てよ。寂しい」
「それはできません」
食事を終えて、彼女が入浴も済ませたその夜。おずおずと見上げて来たミアの要望をカイは口調だけは柔らかく即座に却下した。
「だってカイは人間じゃないでしょ? だったら構わないじゃない」
人間の男なら頼まれても御免だ、と言外に告げる彼女に言い聞かせるように続ける。
「人間ではないからです。僕は『人間のよう』ではあっても『人間と同じ』ではない。そんな資格はないんです」
「わたしがそうしてって言っても? 命令、しても?」
命令などする気は元からなかったのだろう。それでもミアは、少し遠慮がちに言い募った。
「ええ。命令でも従えないことはあります。たとえば『主人を傷つける要求』などは、決して受け入れられません。同様に、僕と人間であるあなたは対等ではない。その線引きを違えることも許されていません」
どこまでも優しく、しかし付け入る隙を与えないカイに、ミアは諦めたように俯いてしまう。
「一緒に寝るのは無理ですが、寝室までお送りしてあなたが眠るまでついていることはできますよ」
カイが付け足すのに、彼女はぱっと顔を上げた。
「じゃあお願い! そうして。一人は怖いの。夜はいつも怒鳴り声が聞こえてた。一人で寝ると暗い部屋に閉じ込められたみたいで──。だからずっと見てて」
「畏まりました」
カイは斜め下の少女に視線を向け、彼女がそっと差し出した手を取る。
「手が温かい」
初めての物理的な接触に、ミアは驚きの声を上げた。
「僕の身体は限りなく『人間』を模倣しています。体温が感じられなければ、即『作り物』だと露見してしまいますから」
「血管、もあるのね。血も流れてる?」
重ねた手をまじまじと見分していた彼女が呟く。
「厳密には血液ではありませんが、切れば『血のような』ものが流出する仕組みにはなっています。当然ながら組成は異なりますが、少なくとも見た目と機能は人間に似せていますので。『人工知能』も同様です」
「知能も。……だったらカイの元になった人間がいるのよね?」
「そのとおりです。僕たちは、幾人もの人間から取ったデータをベースにしています。そこからさらに、学習を重ねて行くんです」
幼い主人の手を引いて解説しながら、カイは寝室へ向かった。
日を重ね、生活の基本的な流れも整ってきた頃。
「ミア。食事の用意ができましたよ」
「はーい。……カイも食べる?」
カイが知らせるのに、ミアの屈託のない返事を寄越す。同じことの繰り返しで、もうすっかり日課となったやり取り。
「あなたが望むなら」
穏やかなカイの声に彼女は大きく頷いた。
「じゃあ一緒に! ねえ、今日はなに?」
この暮らしが始まって以来、ミアは毎回差し向かいでの食事を所望した。
「シチューです。前回作ったときに『美味しい』と仰っていましたので。今日は野菜だけではなくチキンですがよろしいですか?」
「もちろんよ。でも、本当になんでも学習して行くのね。もうわたしのことはカイが誰よりもよく知ってるわ」
感心したように、ミアはすぐ後ろを歩くカイを振り仰ぎつつ食卓へ向かう。
「そう、これ! 以前、はシチューなんて見たことなかった。いつも缶詰やペレットと水だけで。病院で出てたものも嫌いじゃなかったのは本当よ。でもわたし、カイが作ってくれるものが一番好き。──なのにカイは味わからないから可哀想ね。すごく美味しいのに」
椅子を引かれて腰を下ろすなり喜びを表す彼女に、カイは冷静を保ったままだ。
「最初から知らないものを『可哀想』とは言いません。さあ、冷めないうちにどうぞ。その方が『美味しい』んですよね? 人間は」
軽く受け流されても、ミアは簡単には引かなかった。
「味覚ってアンドロイドには無理かしら?」
「もし可能だとしてもプログラムですよ。わかる振りをしているだけです」
問われて静かに答えるカイに、彼女は少し残念そうではあっても納得したらしい。
「うーん、そうよね。せっかくだから一緒に美味しい! って言えたらいいと思ったんだけど。それもわたしの勝手だわ」
「いいえ。僕はあなたのそのお気持ちだけで『嬉しい』ですよ」
笑みを形作るカイに釣られるように、ミアは笑ってスプーンを手に取った。
そうして、ミアとカイの生活はなんの波風も立たないままに続いている。
基本的に、彼女が不自由なく過ごせるよう取り計らうのがカイの役割だった。料理や掃除、洗濯等の家事はもちろんすべてカイが担う。
初めのうちは何をするにも顔色を窺うかのように尋ねて来たミアも、「あなたの好きなことを」としか返さないカイに自分で考える以外にないと理解したらしい。
少しずつ、本を読んだり絵を描いたり、「やりたいこと」を見つけて楽しむようになっていった。
ミアがダイニングテーブルで色鉛筆を手に取って紙に花の絵を描き始めたが、指がふと止まる。
「カイ、これ上手?」
「とても綺麗ですよ、ミア」
カイが微笑むと、彼女は小さく頷く。だが、紙の端に黒い影のような線が乱暴に引かれていた。
「……以前は絵を描いたら怒られたの。『問題を解け』って、大きな声で──」
ミアの声が震える。
「間違えると叩かれて、……怖かった」
カイは一瞬、動きを止める。だが、すぐに静かな声で答える。
「ここではもうそんなことはありません。あなたは自由です。絵も好きに描いていいんですよ」
カイはそっと紙に触れ、彼女の震える手を落ち着かせる。
「その絵も僕のデータに記録しておきますよ」
「こんな絵も?」
不思議そうなミア。
「なんでもです。あなたのすべてが僕のデータとして蓄積されて行くんですよ」
この少女を見守り育てて、将来的には社会に戻すのがカイに課された使命だ。
いずれは世話係のカイ以外の人間とも関わる機会を与える必要がやってくるだろう。
そのタイミングを判断するのはカイの仕事ではなかった。
アンドロイドに自我など求められてはおらず、権利も与えられていないからだ。