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第92話「望の寝起き」


 隣に座った望は大きな欠伸をしてから、もしゃもしゃと口の中に何も無いのに咀嚼する。きっと、口の中が気持ち悪いのだろう。寝起きとはそういうものだ。


「ほら、望ちゃん。しっかり起きて食べてください。喉に詰まりますよ」


「ふぁい……」


 甲斐甲斐しく世話をするのは、俺の対面にいる夢だ。自分の食事が半分も済んでいないのに、望のあれやこれや気遣っている。


「夢、場所を変わるか? その方が――」


 そう言いかけた時、隣から制服を引っ張られる感覚がして噤む。見ると、望が寝ぼけ眼でも俺の服を掴んでいたのだ。


「やだ、とぉ兄は隣」


「ですって。兄様はそこで望ちゃんのお世話をしませんか? 結構可愛いですよ」


「可愛いのは分かるけど」


 こういうのは、夢の方が適任というか。慣れているのは夢だ。俺はてんでしたこともないし、隣で炊き込みご飯をホクホクしながら楽しんでいるだけで充分だとは思う。

 ……というか、恥ずかしいのだ。


「とぉ兄、うどん……のびちゃう」


 ふにゃふにゃとした口調で主張してきやがって。可愛いけど、その状態でうどん食べて詰まらないか?

 絶対、詰まるだろ。


「いいけど、ちゃんと目を覚ませ。そうじゃなきゃ危なくて餌付けできない」


「兄様、餌付けではなくあーんと言ってください」


「夢、俺にそこまでの度胸はない」


 要求の仕方がさりげなくて大胆過ぎるだろ。あーん、と言える自信なんかない。されたことはあるけど。

 されるのと、するのは違う。


「うん……うん……。起きた、起きたよ」


「本当か?」


 望の顔をジッと見る。確かに寝ぼけ眼だった小さな宝石は、意志を持って輝いている。うん、相変わらず綺麗だし睫毛も長いな。


「起きたみたいだな。じゃあ、こぼさないように食べなさい」


「え? あーん、してくれないの?」


「起きたんだから、自分で食べなさい。お兄さんは恥ずかしくて難しい」


 途端、夢と望から湿った目線が送られる。

 だって、な。恥ずかしいだろうて。それに、うどんをあーんするって結構難しいぞ。頭の中で思い描いたシュミレーションのどれもが、望がどこで噛み切ればいいのか分からず口いっぱいにうどんを詰め込んだ姿で終わっている。

 ……それでいいかもしれないけど。寝起きにそれは酷だろう。


「…………」


 それでも、望は「こいつないわー」と言いたげな目で見てきやがる。

 ……うん。耐えられる保証もない。というか、今後の兄妹生活が危うくなる予感しかしない。

 仕方ない……。俺は、サバの味噌煮の一切れを箸で掴むと望へ向かって差し出す。


「はい、ど――」


「はむ」


 早い。差し出した瞬間には、サバの味噌煮は望の口の中へ消えていた。というか、箸につまんだ瞬間には動いていたな……。


「とぉ兄、サバ好き?」


「突然、なんだ。好きだけど」


 もしょもしょ、と望の小さな頬が動く。まるでリスみたいだ。


「あたしも好き」


「そうか、そりゃ良かった」


 なんの話しをしているのだろうか。

 まぁ、いい。向かいに座っている夢も微笑ましい光景でも見ているかのように、笑顔で炊き込みご飯を小さな口へおさめていく。


「望ちゃん。兄様、次の試合で望ちゃんの戦い方をしてくれるみたいですよ」


「え、ほんと?」


 キラキラとした双眸がこちらへ向いてくる。眩しい。

 しかも、俺の袖をやんわりと掴んできて、更には顔を近づけてくる。どこまで来るんだ。目の前だぞ。


「本当、てか近いな」


「いや、嘘ついていないかなって」


「目を見たら分かるのか?」


 刑事じゃあるまいし……と思ったが、そういえば世の中見ている方向が無意識で嘘かどうか分かるらしい。心理的なやつだが、それを望が会得しているとあれば、目を覗き込んでくるのは当然の行動なんだろう。

 しかし、それでも俺の顔の前、きめ細かい小雪のような肌を間近にしたまま望は制止する。


「分かる。あたし、目がいいから」


「それは知ってるよ。後、近すぎ」


「このままでいいかなって、思って」


「良くない。うどんが伸びるぞ」


「は!?」


 望もミニうどんが伸びるのはいただけなかったようだ。まぁ、伸びたうどんもまた別の味わい深いものもあるが、やっぱり企業がオススメしている食べ方をするのが安牌というものだ。

 望が慌てて自分の椅子に座り、手を合わせうどんを啜る。それを確認してようやく、食事を再開できると姿勢を正すと――


「はい、兄様。あーんです」


 ほうれん草のおひたしが目の前に差し出される。

 ……もう、何も言うまい。

 俺はそのまま口を開け、受け入れることにした。

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