第89話「存在不詳」
朽木先生からの送迎後、車から降りて最初に言われたことは「無理しないこと。過信しすぎないこと」という、注意喚起と体調が優れなかったらすぐに呼びなさいとの心配だった。
それからは別行動もとい、今回の件を診断書付きで提出しないといけないらしく俺は朽木先生から離脱せざるを得ない状況になったわけだ。申し訳ない話でもある。
なにせ、異例だろう事象に、前例なき現象に対応するためには、既存の形式での報告が義務付けられている。
まぁ、つまりは新しく倒れた場合の処置が適切かどうかの検討と対策のために、症状の特定が必要になってくるから、とりあえず情報をまとめておけ。という小難しい話である。
だから、離れないと俺の脳内が情報過多で爆発するので、馴染みの場所である鍛冶場まで足を運んだ。
これが事の成行きでもある。
「大変だね。大人ていうのは」
鍛冶場の扉を開け、左奥には炉があり、その向かい――つまりは右奥に今まで作った刀を飾っている。
真作にもできない、贋作ではある。
「それでいうと、我が祖先の大人様はもう少し技術の伝承に力を注ぐべきだと思うよ」
並べた刀に語るものの、返答があるわけじゃない。傍から見れば悲しい人間か、怖い人種であろう。しかし、そう言わずにおかなければいけないほど、作刀は停滞の極めであった。
「――珍しいのですます」
途端、頭上からしてくる独特な口調。うわ、嫌な奴だ。
「そんな嫌な顔をしないでもらいたいですます」
「なんだ、見えているのか」
「そんな気がするだけですます。それより、独り言は控えた方が羞恥は軽減できるはずですます」
「余計なお世話だ」
嫌な奴に独り言を聞かれた鬱屈が頭上に居場所をつくる。こいつ、また天井裏にいるのか。物好きを飛び越して、狂気だぞ。
「お前はまた天井裏にいるのか」
「いるかもしれないし、いないかもしれないのですます。我々は存在不詳の不明瞭ですます」
「つまりは知られたくないのな」
「そうですます」
そんな難しい言葉を使って聞いている人間を惑わせるのはやめて欲しい。俺もよく分からないのに。てか、言っている人間も適当に言ってるだろ。なんだよ、存在不詳の不明瞭て。
「して、そんないない人は何の用だ」
感情の制御を目標にしていても、嫌な奴を相手にすると苛立ちが声に乗ってしまう。まだ、抑制の仕方が下手くそな証拠で、それを聞いてなお――いや、聞いたからこそ、頭上の嫌な奴はくすぐってくる。
俺の怒りを。
「おや、独り言の続きはいいのですます? 存分に語って、演説してもらってもいいのですます」
「じゃあ、お言葉に甘えてさせてもらおうか」
「用というのは他でもないのですます。二つの内、どれがいいですます?」
こいつ、露骨に話題を変えやがって。この飾った刀を天井に投げつけてしまってもいいけど、やっぱり辞めよう。不毛だ。
で、なんだっけ。俺に二つも用があるって面倒なことを選ばせてくれるのか。
「じゃあ、帰ってくれよ」
「それはできないですます」
「じゃあ、用件が二つあるって聞いたから帰ってくれよ」
「無理ですます」
なんだよそれ。
……頑なに断り、頭上の存在不詳の不明瞭さんは真面目な声で言ってくるから、あまりいい予感がしていないんだよ。聞いてもよくないことがあるのは想像できるし。
「…………わかったよ。一つ目でも二つ目でもいいから言えよ」
押し問答どころか、押し無言でのやり取りに根負けした俺は両手を挙げる。お手上げだ。
だが、頭上の存在は喜ぶ様子を一切感じないから、余計に俺の嫌な予感が加速していく。そのまま飛んでいけよ。
「まず、一つ目。体はもう大丈夫ですます?」
「……あ?」
急に心配してくるなんて、どういうことだ。
意思が脳を介する前に発した威圧的声音は、俺の意図としては充分伝わるものだろう。今まで心配していたことなんて、壱鬼が殆どだったろ。
「見ての通り、元気そのものだ。お前に襲いかかってもいいくらいには活気に溢れているぞ」
「ふむ、殺気も変わらず、短絡的な部分は他者迷惑を鑑みるとよろしくないですますが、元気なのは元気ですますね」
「存外失礼だな」
「攻撃的人間への唯一の反撃手段ですます」
俺を加害者側にしてくるのはよくないぞ。俺は被害者だ。……いや、そんな話じゃないけど。不快にしてくる人間は嫌なだけで、本来は関わりたくないけど向こうから一方的に突っついてくるから、とんでもなく感情を掻き乱してくるからって、攻撃的になるのはよくないか。
……いや、俺は悪くないだろ。
「自分勝手な思考回路は健在ですますね」
「思考盗聴て今の時代できるのか?」
「できないですます。ただ、そうだろうと思っただけですます。馬鹿は釣れたのですます」
ふざけやがって。誰が思った通りの人間で、単純な野郎だって。
「それで? 一つ目は相手を気遣う殊勝な心がけくらいか? 他にはないのか」
「はい。というのも、これは壱鬼様から頼まれていたことですます」
「壱鬼が?」
あの?
いや、あの? て疑問になるほど見知った関係ではないけど。テレビ画面とか新聞の表紙を飾っている姿は知っているけど、あくまで知っているだけ。覚えていない。どんな顔とか、体格とか、そこら辺は記憶に残っていない。思い出そうとしても常に壱鬼の顔にはモザイクが掛かる。
人に興味が無さすぎた弊害かもしれない。もしくは、他者との関わりが少なかったからかもしれない。もっと、人付き合いを増やさなきゃか。
「珍しいな。壱鬼が俺を気遣うなんて」
「四季透、あなたは少なくとも『鬼族』の一員なのですます。それを忘れぬように務めるのですます。それが責任ですます」
「はいはい。そうしますよっと」
こう説教臭いとあしらい方も適当になってくる。大人が言ってくるのと、同年代が言ってくるのとでは説得力が違う。
てか、同年代なのか? この存在不詳は。
「で、二つ目ですます」
「早くしてくれないか。今日は疲れてるから帰って寝たいんだが」
「そのくせ、鍛冶場まで来て何をするつもりだったのですます? どうせ、『防刀』の作刀でも進めようとしたのですます」
まぁ、そうなんだけど。こう、気づいてくれないものか。なんとか気付いてくれよ。気遣ってくれよ。
「お前をぶっ飛ばしてやるのを作刀よりも先にしてやってもいいんだぞ」
「怖いですます。こんな野蛮人には品性の恵みを神様も授けてくれないのですます」
「ふざけるのなら帰ってくれないか」
弄ばれるのを嫌う心からの叫びは、自分が思っているよりも重く、鈍重な響きであった。
それが伝わったからか、頭上の存在不詳の不明瞭は肩を竦めたか。声を竦めたか。少なくとも、冗談では済まないことだと気づいたようだ。
「失礼。二つ目をお伝えしてもいいですます?」
「……嫌な予感がしてるから断るというのは?」
今まで自分の都合で話し掛けてきたやつが、初めてお伺いを立ててきたとすればそれはもう俺にとって、都合の悪い話だろう。そんな気がしてならない。
「では、二つ目ですます」
ほら見てみろ。俺からの質問は無視だよ。結局、自分が言わないといけないのなら、相手のことを考える素振りを見せないで欲しいものだ。
「『防刀』の作成が済み次第、壱鬼様へお伝えして欲しいのですます」
「待て。壱鬼て、俺会ったこともないぞ」
厳密には記憶がない。誰だかもよく分かっていない。ネット検索して出てきた画像を見ても、それが壱鬼だと断定できていない。というより、見ても多分違うと違和感を抱くのだ。
フェイク画像どころか、フェイク記憶なのだ。
「大丈夫ですます。完成次第、案内させてもらうのですます。それまで、健全な生活を心掛けておくのですます」
「いや、案内て――て、もういないし」
言い切ったが最後、頭上にいた存在不詳の不明瞭さんはいなくなっていた。気配どころか、存在自体が忽然と消えている。
まるで、今まで話していたことが嘘だったかのようでもあった。
「…………まぁ、やることは変わらないからいいか」
健全とは呼べない精神ではあったが、壱鬼が俺の事を心配してくれていたこと。それだけは少し心が穏やかになる情報ではあった。親以外、家族以外で俺の身を案じてくれる人がいるというのは、身も心も暖まる話だ。
存在不詳の不明瞭さんはそこに含まないが。
しばらく、並べた刀と視線を合わせ、俺は鍛冶場奥へと向かって行った。