第87話「問診」
「異常なし」
ありとあらゆる検査、機械に突っ込まれては出され、眠らされては口の中へ管を突っ込まれ、情けなく涎を垂れ流し文字通りの全身を見られた後。
問診用の丸っこい椅子に座った目の前で、白髪をクルクルと頭上で巻いたおじいさん? が気だるそうな目元を向けながら言い放った。
「異常……なし?」
一緒に付き添いでいてくれた朽木先生は、唖然とし俺の肩へ手を置く。あの、肘置きでもないんですけど。座ってるからちょうどいい場所にあるからでしょうけど、手を置くための肩じゃないはずなんですけど。
「異常なし、それ以上はないな」
「え、でも気絶したんですけどこの子。ぶっ倒れましたけど」
「脳のCT見ても影は無い。一応、肺も見てみたけど、綺麗だな。まぁ、ちょっとした白い影はあるけど許容範囲内だろうて」
異常なしですって。
目の前のおじいさん先生が呆気なく言いながら、手にした検査結果の紙をペラペラと捲る。
そこになにか書かれているのだろうけど、ちらっと見えた文字があまりにも潰れすぎていて判別できなかった。呪文でも使っているのだろうか。
「君、四季透て名前なんだってな」
「……あ、はい」
唐突に話題が向いてくるのに、合わせて反射的に返事する。だが、それを聞いて目の前の先生は「はぁあぁ……」とどでかい溜息を吐き出す。
え、そんなに嫌な患者なんですか。
「この島に刀道の学校があるから、ある程度覚悟してたが。そうか、君があの四季家の人か」
意味深に言っているけど、医師界隈でも知れ渡っているほど、悪名なんだろうか。それはそれで、今後病院へかかることが億劫になるから勘弁して欲しい。
ちゃんとインフルエンザのワクチンだって打っている身だ。健康優良児でありたい。
そんな不安げな顔を見られてしまった。というより、目が合った時、この先生の今まで何人も見てきただろう鋭眼は知的好奇心をひたすらに隠していることが伺えたのだ。
「君、お祖父さんが入院されているだろ」
「え、はい」
「そのお祖父さんがな。入院先の医者と仲が良くて、君が月見島へ行くと知って真っ先に私へ連絡してきたんだな」
そんなことを?
あの暴れん坊のお祖父さんが?
俺をひたすらに修行という名目でボコボコにしてきた人が?
今でも思い浮かぶ、あの皺を寄せてまで笑った意地悪な顔を。
「……あれ、でも俺が入学する前に退院してませんでしたっけ?」
「あの後、体の検査でも実験でもしてくれていいから呪いの解明をしてくれって、むしろ頼み込んできたらしいぞ。
今も研究中じゃないかな」
「……透君のおじいさんて何者?」
恐る恐る聞いてくる朽木先生。
言わんとしている恐ろしさは理解できる。そういうのを俺も感じているから尚更、殊更である。
いやね、先生。俺も呆れながら言いますが。
「あの人も例に漏れず、鬼の呪いで刀を持ったら辛いはずなんですけど。最悪、倒れてもおかしくないんですけど。
なんでか、一度も倒れずに俺を修行だとか言って二十四時間以上訓練してきた化け物みたいな体力の人ですよ」
遠い目をして、看護師さんの後ろを見る。あぁ、空が曇っている。俺の目みたいに。
「倒れずに……?」
「はい。で、腹の調子が悪い、て言いながら病院行ったらそのまま入院して。確か、なんでしたっけ……」
「ガンだね。胃ガン」
診てくれた先生が補足してくれる。ということは、お祖父さんのことは結構広まっているらしい。
いや、どうだろう。
ある意味、特殊な事例だからこそ、本人の許可を得て様々な知識人に広めているのかもしれないけど。
「彼のおじいさん、胃を全摘したんだけど他にもガンの転移が見られていわゆる末期状態に近かったんだけどな。
お姉さん、この子の体を少しでも不思議だとは思わなかったか?」
「え、いや、確かに刀道の試合の最中は奇想天外というか、人智を超えた動きをしているとは思いましたけど」
「違う。そういうのじゃないな」
おじいさん先生は、頬杖をつきながら俺を指さす。
シワまみれのシミまみれ。今までの苦労とアルコールが染み付いた荒野の指し示した先は、俺の心臓だろうか。
それとも、本質なんだろうか。貫かれたことに、少しだけギョッとする。
「こいつ、さっきまで起き上がれなかっただろ」
「は、はい」
「でも、ここへ来てからどうだ? もう走れるくらいには回復してるぞ」
疑うように、訝しむように、朽木先生は俺を見てくる。まぁ、そうでしょう。疑うのも無理はない。全身筋肉痛で苦しんでいた人間が、たった数十分でほぼ全快するなんて、仮病でもしていたのかと思うくらいだろう。
「で、走れるか?」
「さぁ、どうでしょう」
「じゃあ、試合で動けるか?」
「そりゃもちろん」
おじいさん先生との問答を聞いた朽木先生は、魂を抜かれたように腑抜けた顔をする。
危うく気を失いそうな体に喝を入れて立ち直す。持ち直すことで、落ちかけた意識を手元へ手繰り寄せる。
「……前代未聞じゃないですか」
「そうだ。前例がない。なにより、問題はこの子のおじいさんだな。
至る所に転移したガン細胞はどうなったと思う?」
「…………ガンの性質とか、彼のおじいさんの回復力を考えると悪化していそうですけど」
「そう考えるのが普通だな」
だが、違う。
おじいさん先生は、乾いた唇を悪者くらいしかしない笑みへと形作ると、しゃがれた声に陽気を掛け合わせた色を紡ぐ。
「なんと、ガン細胞を全滅させたんだな。恐ろしい話だ。余命三ヶ月と宣告して一ヶ月後には、ガン細胞なんか綺麗さっぱり無くなってたからな」
え、そうなの……。
俺のお祖父さんの知らない話を聞いて、俺と朽木先生は共にドン引きの顔をしていた。