第86話「鬼の呪い3」
夢だろうか。
いや、俺の妹であって和服が最も似合う眉目秀麗な四季夢のことではなくて。
夢を見ていた気がした。
ただ、なんの夢だったかは思い出せない。いつもだったら、寝起き直後は覚えているはずだろうに、今回のものはそれと全く違う毛色だったように思う。
なんとなく、なんとなくだ。
背筋が冷えている感覚がするのは、なんとなくだ。
そんな時、目が開くよりも前、それも覚醒直後と言うべきか。現実を徐々に認識していく段階で、右手が強く――それでいて優しく握られているのを実感する。
誰だろう。
叶だろうか――にしては、指のタコがない。あの子、すぐに手がボロボロになってしまうから、ケアが凄く大変だとボヤいていた。とすれば、叶ではない。
だとしたら――誰だろうか。そう思い、ゆっくりと瞼を開けると心配そうに、これから世界が終わろうとするかのような切実な願いを込めているかのように、揺れた瞳で見つめてくる望がいた。
「………………望?」
「とぉ兄……? とぉ兄!? 大丈夫、あたしが誰か分かる!?」
「いや、ちゃんと名前で呼ばなかったけ……?」
体を起こすこともままならず、動かそうとしてもビクともしない。それが僅かな亀裂のように、体へ響く。思わず、顰めた顔をしてしまった。
「痛い? 怪我してるの?」
「いや、全身筋肉痛みたいに動かない……」
「そりゃ、あれだけ人智を超えた動きもすれば体が動かなくて当然よ」
ふと、聞き覚えのある声がした。
仕切りのために置かれたカーテン、そのピンク色の布の向こうから乱暴にかっぴらきながらやってきたのは、朽木先生だった。
純黒の髪をひとまとめにし、緩やかな波が毛先にかけて広がっている。白衣を真面目に着ているものの、どことなく雰囲気はお茶目な印象がある人。
その人が、俺以上の顰めっ面――もとい、呆れと怒りとを混ぜ合わせた絶妙な表情をしていた。
「どう? 体の調子は。というか、意識的にの話しね。見えているものに違和感とか、考えが上手くまとまらないとかあるかしら」
「…………いつも通りですけど」
「じゃあ、一応精密検査でも受けてきましょうか」
精密検査……?
なにを。
「精密検査って、え。いやいや、元気ですって」
ここで病院に行くことだけは避けたい。大会中、それも予選をここまで順当に勝ち進んできたのに、入院となってしまっては全てが水の泡みたいに消えてしまう。
だから、必死に元気なことをアピールしようと体を起こす。痛い痛い痛い……。
全身が錆び付いて、無理に動かすと関節が外れそうだ。試合前までは順調に――むしろ、絶好調なくらいだったのに。ここまで重たくなるなんて、予想できないって。
それでも、望の不安げな顔を横目に、無理やりにでも上体を立たせる。
「ほら、辛いでしょ。少なくとも、体は悲鳴上げてるのだから病院で治療でも受けてきなさい」
「でも、大丈夫――」
胃の内容物が無理やりな稼働に耐えきれず、上がってきそうになるも必死に堪え、抑え込む。
吐きそうなくらい動いたつもりはなかったのに。
昔はこれでも平気だったのに。
久しぶりなせいか。
「大丈夫じゃない。私から見れば貴方は大丈夫な状態じゃない。気を失って、全身筋肉痛。これだけで救急車を呼ばなかったことに後悔しているくらいよ」
「でも……試合がまだあるんです」
予選は明日もある。三回戦で、そこまでいけば後は本戦になるから、少し期間が空く。だから明日まで我慢すれば問題ない。
そう小賢しい考えを見透かされたのか、そういった生徒が数多くいたからなのか。
朽木先生は大人びた口調に似合わないほどの童顔を、俺の前まで持ってきて――更には胸ぐらまで掴んでくる。
「いい? 入院するかどうかは医者が決める。私が病院まで連れて行くかは私が決める。貴方が決めるのは、ここで無理をしてまで動いて家族のために死ぬか、それとも速攻で治して戻って、家族との将来のための行動かどうかよ。
だから、我儘を言うなら医者の前だけにしておきなさい。自分勝手に生きたいのなら、やるべきことをしっかりやり遂げてからにしなさい」
ハッとする。
胸ぐらに込められた怒りは、冷たいどころかとても温かく、優しいものだ。
「兄様」
その現場を見たとすれば、恐ろしい虐待の事件だと思いそうだろうが、夢がやってきたのは罪悪感と自分自身の非を認め、過ちに堕ちたことを相当に恥辱を感じている表情と一緒にだ。
その後ろに見える叶も同じような顔をしている。
……どうやら、なにかあったらしい。
「兄様、朽木先生の言っている通り、病院へ行きましょう」
「夢……お前が言うなんて珍しいな」
「私は――私達は間違っていたというより、急ぎすぎてしまったのです。然るべき対処をしておくことで、最終的に迅速な結果を得られることに使命で蓋をしてしまった。ここで、開いてしまわないと私達は本当に落ちぶれてしまいます」
心の底から言い放つ夢。その瞳に心が打たれそうになるも、彼女が詳らかにしたのは、俺達の失態である。
そう、俺達。
四季家ではなく、そこに名前を受け継いだ子ども達が間違えたことである。試合前、図貝先生が言っていたこと、名前も知らない先生が俺の体調を案じて、責任を背負ってくれたこと。
それらは、結果を残すためには誠実に行動しなければ、反感を買うという、当たり前のことだったのだ。
「兄様、急がば回れという言葉もあります。今生き急ぐのはあまりに早すぎます。
…………なにより、私は兄様に死んで欲しくありません」
妹の、今にも泣きそうな顔を見る。
震える奥歯を噛み締め、少しでも不安が零れてしまわないほうにしている。
それを見て、観て、視線を下ろし足元へ向ける。
俺は……俺は、妹の不安を煽るために頑張ってきたのか? 家のため、妹達のためていうのは、ただ都合よく使っていただけじゃないか。
自分のやりたいことをしたいだけで周りに迷惑をかけ、いざそれができないと分かれば『家のため』とか『自分は大丈夫』だと言い訳をして、無理やりに押し通そうとしただけの愚か者じゃないか。
それでは、周りからの悪評ばかりになるのは目に見えている。今までより、四季家はもっと酷くなるだけじゃないか。
「透君。私は一介の教師で、家の名誉とか復興とか全く分からないけど。でも、今の透君は、ただ家の名前を使って我儘しているだけの子どもに過ぎない。
だったら、だったらね。壱鬼とか参考にしてもいいし、誰か相談出来る人がいるならすればいい。でも、私は『周りから賞賛を浴びる人は、周りを最も気遣った人』だと思っているの。
とりあえず、病院までどんな行動をするべきか、考えてみなさい」
「はい……ありがとうございます」
ゆっくりとあげた目線には、朽木先生の優しい笑顔。それも奥ゆかしい優しさで、俺のことをしっかり信じてくれている瞳をしている。ちゃんと言われたことを理解して、その言われたことだって頭ごなしに信じているわけじゃなく、ちゃんと自分の家のこと、妹達や他の人へ応用できるようにすることができると、信頼してくれているのだ。
それが分かっただけでも――いや、本当ならもっと早くに分かっていなければいけなかったことだけど。
それでも、こうやって教えてくれて――説教してくれる人がいることに下げる頭は深くなくてはいけない。
そうやって、朽木先生の許しを得てから俺は立ち上がる。
傍にいた望が慌てて体を支えてくれようとしてくれたが、「大丈夫」と伝える。ちゃんと歩ける。そのくらいには回復している――つもりだったが、一歩踏み出しては体に電撃が流れてしまい動けなくなる。痛烈で、激烈な怒槌が足元から脳天までを駆け抜けてしまって、思わず隣の望へ寄りかかる。
「もう……」
少し情けない思いをしたが、柔らかく支えてくれる望や即座に駆け寄ってくれた夢や叶のお陰で、歩くことはできそうだ。




