第77話「侍月大会予選二回戦9」
雨曝昴は、中学生から急激な成長期を迎え、健康的な肉体と反骨精神が育っていった。
なにせ、彼は四季透と戦うことをデメリットしかないと勘違いしているほどには、この世のほとんどを自分の都合だけで思い描いている。そういう人が悪いわけでもないが、少なくとも、刀道の試合においては損得勘定で切り捨てられる方が珍しいのだ。
例えば、四季透と戦った桜坂蘭は、見物客やLIVE配信の視聴者からの評価は軒並み「四季透の腕試しの被害者」か「『鬼族』と対戦しなければいけなかった可哀想な子」と暫定的で、およそ本人を否定した言葉しかない。
無論、桜坂蘭もそうなることはある程度理解していた。だが、そこに不満を持つよりも幾分か自分のためになりそうなことは何か? それをしっかり考えた上での結論が――四季透に一矢報いる。ないしは、一太刀でも与えること。
そうすることで、それに相応しい動きをすることで、解ってくれる人は解ってくれる。それを信頼していた。
少しだけの誤算があるとすれば、全く考えていなかったこと。四季透が、それに応えてくれたことだ。
桜坂蘭の一撃をいなし、圧倒的力量差を見せつけたこと。
それが、一般人にとっては――四季透と戦ったことのない人にとっては、可哀想な結果だと見えるだろう。
しかし、彼女はある種、強かであったからこそ、試合を観戦していた企業側、特に刀道の分野に広く、長年の事業を添い遂げた会社にとっては欲しい人材として映ったわけだ。
強かで、四季透さえも利用した。結果的に見れば、桜坂蘭は負けても、ある意味勝つこと――目標は達成できたのだ。
だが、それは彼女の基礎的な精神によるもので、長年の蓄積した感情の発露でもあるわけだ。
対して、今回の対戦相手の雨曝昴は、反骨精神と駄々っ子の成れ果てを備えた男である。
彼はあわよくば勝てる試合だけが欲しく、そこそこの結果があればいいと甘く考え、それこそが善良だと勘違いしている。なによりも、四季透とトーナメント表が同じ組だったことを愚痴垂れていたように、彼は勝てない相手にはどうやっても勝てないと決めつけ、諦めているわけだ。
いつだったか、雨曝昴は諦めることを楽だと勘違いするようになった。
中学生の頃、驚異的な背丈を獲得し始めた段階で、様々な部活から誘い文句が飛び込んでくる。バスケだって、バレーだって、野球だって、陸上だって、圧倒的リーチと威圧感と人並みの技量さえあれば、活躍できることは想像できたからこそ、多くの勧誘者が訪れた。
それに快く――鼻が高々とてっぺんを目指したものの、彼の鼻先は呆気なく折れることとなる。
そう、彼はてんで運動できないのだ。
バスケで言うなら、ドリブル。
バレーで言うなら、レシーブ。
野球で言うなら、投球。
そういった、およそ戦術以前の戦い方が明後日へと向かってしまうほどに、彼は下手くそであり、運動音痴であった。
故に、彼は人から勝手に期待され、勧誘され、それでもなお、必死に頑張ってみたものの「もういいから」と、努力を取り上げられた経験からいつしか心の中で、ふつふつと懐疑心を抱くようになる。
いや、これがきっかけだろう。
この積み重ねが、彼の感情の発露であろう。
自分なりに頑張ったところで、報われないどころか他人から同一視をされ、努力していないと判断される。自分ではやっている。しかし、他人は認めない。だからこそ、諦めることが唯一、自分自身を守るための盾となる。
その小さな手持ちほどの盾に、大きく育った体と感情をなるべくはみ出さないようにして。こじんまりとして。
そんな彼が自信を喪失しかけた頃に、ある教師が見兼ね、声掛けしてくれなければ、月見高校へと入学しようとは考えなかっただろう。
「君はどうにも受け身の考えをするようじゃな」
その当時、中学の中でも校長よりも歳を取っているのではないかと生徒の間で噂となっていた教師。頭部は輝き、長く蓄えた髭は白滝のよう。だが、背筋はしっかりと伸び、厳格さを醸し出したその姿から生徒達は彼を「師匠」と呼ぶ。
そんな老師が雨曝の丸まった後ろ姿にピシャリと言い放った。
廊下、それも放課後のことである。
「……いきなり、なんですか」
びくついた体に、怯えた声。雨曝の精神衛生上よろしくない行動に対して、老人は「こりゃすまん」と茶目っ気たっぷりのウインクまでしながら謝罪する。
それも顔の前に右手を立てて。
だが、雨曝はそれを快く思わないのだ。不機嫌に、唇を一文字に結び、少しだけ鼻息を荒くする。
友達はいない。話すような人どころか、これから一緒に帰る相手などいない。いつも孤独に頭を下げ、お目通りかなっているのが雨曝である。
家に帰って、何をするわけでもなくゲームで時間を潰し、程よく課題をこなし鬱々としたまま床へ沈む。
それが彼のルーティンであり、一つの個性でもある。
「いやぁ、すまんのう。色々な先生方から相談を受けておったんじゃ。そこで、君の行動やらを見させてもらった」
「……暇なんですか、面白くないでしょ」
不貞腐れた言葉は、心底己を下げるためのものであった。言えば自分の気分を沈め、容易く鬱屈できる。
そんな雨曝昴の背中がより一層丸くなったことで、老師は真っ白で整列された歯茎を見せ、笑う。
「かっかっか。君は面白いな。誰も他人を観察するのに面白いかどうかで判断などせんわ。ただ気になる。ただ、目についた。たったそれだけの、些細で矮小な理由だけじゃ。実際、君にとって儂以外の先生が相談した内容なんざ気にもとめんじゃろうて」
「…………」
それはそうだ。興味すらないのだ。
自分がどれだけ勝手に期待され、勝手に裏切られてもなお、教師陣は皆見捨てるように追い出した。「すまなかった」と言う先生のなんと気まずそうなことか。
雨曝はその状況を思い出しては、より憂鬱に浸ってしまう。
「ほれ、少しは顔を上げい。君はその受け身がいかん」
まるでお節介してくる親戚のおじいちゃん。そう思わずにはいられない雨曝であったが、言われた通り少しだけ顔を上げる。
この時から既に長かった前髪は、以前として彼の顔を口元だけ見せるように伸びていた。
「君、その背が理由で色々スポーツをやらせれたようじゃが、どうだった?」
「……どうもなにも、楽しくなかったとしか」
忌々しいとさえ、彼の口は震える。
元凶があるとすれば、伸びた背丈だろうが、雨曝の抱く不満はむしろ彼へ希望を持って来ては取り上げた奴等だろう。
それが固く握りしめた指先に宿っていた。
「そりゃそうじゃろ。君、見るからに動けるだけの筋力はないからの。いや、あるのはあるが自分の体格を頭の中でイメージできていないだろ。だから、ドリブルしようとすれば、ボールは明後日の方向へ行くし、転がってきた球を捕ろうとすれば股を抜ける。自分の姿はいつだって、他人からの言葉でしか形成されておらんからじゃ」
「…………」
言い得て妙。いや、図星だったのだろう。
実際、そのミスが頻発し何度も何度も教えられてなお、出来なかったからこそ「もういい」と言われたのだ。
雨曝昴は、鏡を見て自分の顔を認識しているわけじゃなく、他人に「怒ってる?」と聞かれて初めて表情を知るのだ。
それに気づいたからといって、なんだ。そう頭を僅かに振っては、自分を守る盾に縋る。
「……説教がしたいなら、俺が悪かったです。ごめんなさい」
「誰も謝って欲しいと言ったわけじゃなかろうて。いや、すまんの。こっちの配慮が欠けておっただけか。
言ったろう、先生方からの相談があって君に話し掛けたと」
少なくとも、自分はこれからいいこともなく、これから寝るまでの間ずっと、この老師に真実を叩きつけられたことを悪口だと勘違いしながら苦しまなければいけない。
そう思っていた、彼の背中は緩く弧を描いて。
見えている世界が遠のいていく気がした。
いつしか、唇だって乾ききって震えていた。拳も、指先も、力無く感覚だってなくなっていた。
そんな雨曝昴に、老師は優しく問いかける。
まるで、孫を遊びへ誘うよう無邪気に。
「のう、雨曝君よ。自分から動かずとも相手が向かってきて、それを凌いでいくだけで勝てるスポーツをしないか?」
雨曝昴の才能を見出し、月見高校へ進学できるほどに鍛えた老師との出会いが正しくこの時である。