第76話「侍月大会予選二回戦8」
四季透の二回戦相手は、激しく緊張していたわけでも。悔しいほどの緊迫感を得ていたわけでも。震えるような後悔が包んでいたわけでもない。
ただただ、いかつい風貌に鋭い目付き、筋骨隆々な体をスーツへ押し込んだ監督官の教師に見つめられながら、彼は沈んでいた。
落ち込んでいた。
「……雨曝君、大丈夫か?」
「大丈夫に見えますか?」
「見えないから聞いたんだ」
不貞腐れたように吐き出した雨曝。前髪は枝垂れ、緩くウェーブを描いているものの、対面した人間からしてみれば、目が見えないので表情の一切が分からないと愚痴を垂れるだろう。
丸まった背筋は、一本松のように伸びていれば、誰よりも高い背丈になっていただろうに、変にかしこまって、自分の大切なものを匿ってしまったからに、圧倒的存在感が卑屈な主張に変わってしまっている。
それでも、監督官の教師よりも高いのだから、威圧感としては充分だろう。少なくとも、そのまま歩けば妖怪の類だと恐怖してくれることは間違いない。
「先生、僕は悲しいんです。何が悲しいか、聞いてくれますか」
「試合前にナイーブになってしまうのは知ってるから、時間制限つきでもいいなら聞くぞ」
「優しいのか、優しくないのか分からない返答ですね」
とても、低い声。野太いとは違い、掠れたわけでもない。いや、若干掠れ上擦っているのだ。
これでも、普段よりかは高い声をしているのだ。まるで、バイクのエンジン並に震えながら話すのが、雨曝である。
「僕は、この侍月大会。そこまで本気でやろうとか思ってないんですよ。だって、大会に出ればある程度の義務的な模擬戦が免除になるじゃないですか。だから、とりあえず出てみて、勝ったか負けたかはともかく、出場するだけでお得だから出てみた。
そしたら、対戦表を見たら絶望じゃないですか」
「うん、だからってこっちに近づきすぎないように。先生も絶望するから」
監督官ににじり寄っていた雨曝は、ハッと口を開く。そして、軽く頭を下げ元いた場所を確認し、戻っていく。
それに教師は安堵する。なにせ、体格差が歴然とした形である。監督官の教師もいざとなれば動けるよう、鍛えられそれなりの体格であるのだが、雨曝はそれを優に超える。
(まるで熊だもんな)
大人しいものの、自分が高校生で戦うとなれば避けたい相手に雨曝を挙げるだろう、と教師は心の中で思う。
だが、教師と生徒の関係であるからこそ、雨曝がただ相槌を打てばいいだけの話をしていないこともよくわかる。
「確かに、雨曝の言う通り。トーナメント方式にしてある以上、強敵と同じグループになったらそういった不満が出てくるし、先生だったらうんざりする」
淡々と吐き出しているように見えるものの、教師の視線は少しだけ雨曝から逸れる。
教師であるからこそ、トーナメント表のことをいち早く知っていた。なにより、そういった不満が出てくることは教師陣に周知されていたのだ。
それは昔から――それこそ、『鬼族』の壱鬼が活躍し始めた段階から既に広まったことだ。
今更ではない。だが、今更で済ませてはいけないのもまた事実。
「だけどな。雨曝。その口振りだと、四季透に負けるて言ってるようなものだから、減点だぞ」
「採点方式でもないのに、脅しに使わないでください」
「脅し……脅しね」
どっちが脅しか分からないな、と言いたげに肩を上下に揺らす教師。それを見た雨曝であったが、どう反応するべきか迷い――悩み、末には開いてなにか言いかけた口を一文字に結ぶ。
不満。一言で表すなら、そういった感情の動き。
だが、教師は何をもって減点と言ったのか、言わないのも優しさだろうか。
(大人の世界にはな。諦める時と、諦めちゃいけない時があって。そういう時に限って、いつもと同じような楽を選ぶんだよ。いつも諦める、楽を選ぶ人間は、いつだってそれを選択する。それが正解だと、体験を得ているから。
だから、ここぞという時に自分を殴ってでも、諦めさせないようにしろ――とか言いたいけど、多分、聞く耳を持たないだろうな……)
世の中、自分の都合のいい話だけ信じる者もいる。
特に、自分の思い通りにならないことを嫌い、不機嫌になる者もいる。
幼稚なまま社会に出ることだってある。
それを痛感し、体験し、矯正するかどうかは本人の素質に左右されるため、ここで教師が口酸っぱく説教したところで、雨曝は「諦めなかったとしても、現状何も変わらないじゃないですか」と反論するのが目に見えている。
火を見るより明らかで、それが例え小火であっても、教師にはよく見えるのだ。
そんな教師が、チラッとタブレット端末に映った試合開始までの秒数。それが限りなくゼロヘ近づいているのを確認する。
次に、雨曝の表情を伺うも――前髪に隠れていてよく見えないものの、言えない不満が心の底でとぐろを巻いているのだろう。一文字にした唇は、若干の力が込められている。
「……まぁ、すまないな。そのうち、俺の言っていたことも分かるようになるだろうし、とりあえず、行ってこい時間だ」
快く送り出せた実感は、教師に一抹とてない。
なにせ、雨曝からすれば要求や不満をさりげなく受け流された印象しかない。それは教師自身、よく分かっている。
だが、ここで、全ての思いを打ち明けたとて、それが雨曝のためになるとは限らない。そこまで世話をするのが、優しさとは言えない。そんな心情があってなお、もっといい方法があったのではないかと考えるのも、大人である。
だから、教師はぎこちなさを隠した笑顔で肩を叩くしかない。
それを不機嫌に受け取った雨曝は、重く息を吐き出し、言われた通りに所定の位置まで歩みを進める。
抱いた不満。どうせ、自分も可哀想な対戦相手と評されるのだろうと、そう思いながら。
その先には、馬鹿馬鹿しくなるほどの現実が待っていることも知らずに。




