第67話「お願いです5」
叶と一緒に海岸、砂浜まで来てみたはいいものの。二人して、水平線を眺めてしばらく経っていた。
なんとはなしに。
誰も喋らず。何も話さず。
ただ、ゆっくりと昇ってくる優しい光だけを、見守っていた。
「…………」
横から朝日に照らされた叶を見ると、いつになく真剣で、だけどどこか儚げさな雰囲気を頬に纏っていた。
何か言いたい。だけど、言いたくない。
あー、すまないな叶よ。兄さん、ある程度分かってはいるんだ。
「叶」
「……なに?」
「言いたいこと、当ててあげようか」
叶の顔から目を離し、波打つ世界へ。遥か先には、途方もない文化と世界が広がっているなんて、想像できないものを瞳へ映す。
「当てられるなら、どうぞ」
右から挑戦的な声。おそらく、不敵な笑みを浮かべているんだろうか。それとも、不安げな顔をしているんだろうか。
どちらかは分からない。
どちらでもないかもしれない。ただ、前だけを見てしまっているのだ。
「俺に侍月大会を辞退して欲しいて、そう言いたんだろう」
「……………………………………」
返ってくるのはさざなみだけ。
これほどに、大きく。そして、苛立つような音はないかもしれない。
いつまでも変わらずあり続け、時には暴君のように変貌する海へ、多少なりとも怒りを抱くのはあまりに滑稽だろうか。
しかし、そういうものだ。
世界が大きくても、俺たちが小さいわけじゃない。
この波の音が、愛すべき妹を急かしているのかもしれないと思えば思うほど、断ち切りたくなってくるのだ。
時間が進んでいるのを音にしてしまうなんて、あまりにも残酷だろう。時計の針が進むのと一緒で、波が寄せては返す当たり前の事象も、時の流れを意識させるに違いない。
そう思っていたのだが。
「んー……外れかな?」
どうやら、俺の見当違いだったようだ。
前だけ見ていて叶の表情は分からないが、声の感じからして茶化しているわけではなさそうだ。
「外れか……だったら、凄い恥ずかしいんだけど」
「いや、大外れとかじゃないよ? 意味合い的には似てるかもしれないてだけで、ある意味正解かも」
「そういう気の使い方が一番恥ずかしくなるんだって、気づいててやってるか?」
「へへ」
やっぱり、茶化していたのか。
うわ、気づけば気づくほど。思えば思うほど、心臓が真っ赤になってしまう。いや、元々血肉――というか筋肉の塊なんだから赤いのは当然だとして、高鳴りとはまた別の羞恥の鼓動と言うべきだろうか。
つまりは、赤っ恥に心臓がバクバクと脈打っている。
「兄さん。あたしは侍月大会とか、全国大会とか、あんまり気にしてないの。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど」
「言っちゃいけないな。確かに」
叶と俺は所属しているクラスが違う。
歳も違うが、そもそも鍛冶師を目指す鍛冶科と、武芸全般で広く活躍できるよう育成する武術科とは、その役割も別物だ。特に、侍月大会がその例だろう。
「兄さんだって、本当は刀のメンテナンスとかしなきゃいけないんでしょ?」
「本当はな。参加生徒は免除されるから助かるけど、去年は刀のメンテナンスとか、機器類の点検に刀の成分分析、時には見物に来た生徒の整理だったりなんかしていたな」
去年、それこそ刀も打たず、実技に必要な物だけ済ませ、最低限の成果だけを出していたからか、先生からあれやこれやと頼まれたのは覚えている。
ひたすら動き回って、走り回って、目を光らせて、をしていたからだろうか。先生達のことをよく覚えていないのは。
いや、ただの自業自得だし。言ってしまえば、あそこで先生がこき使ってくれなかったら、素行不良で退学処分になっていたかもしれない。
そんなものだ。行事における所属科の仕事というのは。
「でも、武術科て定期的に模擬大会があるだろ。それに何回か出るか、この侍月大会に出るかしないと夏休み無くなるんじゃなかったか?」
「え、そうなの!?」
知らなかったのか。驚いた声が静まり返った世界に虚しく響く。
「そうだっただろ。武術科の誰かがそんなこと言ってたから、確かだったはず――おい、服の裾を掴むな。こればかりは俺じゃどうしようもできないだろ」
自分で解決しなさいよ。
そのために兄さんはいるわけじゃないんだから。
ただ、俺じゃどうにもならないことをすぐに理解したのか、即座に手を離す叶。
「ご、ごめん。無意識だったよ」
どうやら、不安になっただけで掴んだらしい。
なんともはや……。
悲しいやら、少し嬉しいやらの感情があっちこっちしている。ただ、それが叶に知られるのは癪だもんで、なるべく目の前に広がる揺らめきを眺めることにする。
「でも、そうなんだ……」
叶も同じように引いていく大きな存在を見つめている。ぽつりと吐き出したのは消えてしまいそうな言葉で、決して誰も聞いていないようなこと。誰も分からない気持ちがこもっているような気もしていた。
「そうだぞ。侍月大会に出るてなってたら、『春刀』使ってもらってたし」
「それだけは嫌」
うおい、ばっさり言ってくれおって。
ちょっと兄さん悲しくなるよ。と思っていたら、即決即断の叶は慌てて服の裾をまた握ってくる。
「あ、違うの。兄さんの刀が嫌だからとかじゃないの。決して、違うからね。あたしが使うと刀に申し訳ないっていうか、そういう意味だから」
驚いて叶を見ると、勘違いさせた相手へ必死に弁明しているにしては、悲しそうだった。
いや、罪悪感と後悔が大いに含まれた表情をしていたのだ。
それもそうか。
うん、そうだよな。
服の裾を掴んでいる手へ、しおらしく伸びた指先を握ってあげる。冷たい。小さい。
「大丈夫。叶が言いたいことは分かってるよ。そもそも、叶の戦闘スタイルにとってあの刀はお荷物になっちゃうしな」
どちらかといえば、あの刀は望向きではあるのだ。
今でさえ、俺が使っているものの、あれほど繊細で激情的な刀は天性の才能を持った人が使うべきなのだ。
俺でさえ、不十分なんだ。
そう思っていると、叶の顔がまた気になった。
すると、叶は瞳を伏せている。申し訳なさそうに。
「怒っていないよ。兄さんはいつまでも刀を打ってるし、今打っているのだって叶のためのものだ」
「…………本当?」
「あぁ、怒っていない」
「……うん、ありがとう。ごめん」
表情だけでなく、話題までもをコロコロと転がすのは叶だけだろうか。戦い方というのも、その人本来の性質――生質が影響してくるとすれば、叶は生粋のインファイターなんだろう。
真っ直ぐに生きて、ひたすら突き進んでいく。
猪みたいな存在なんだろうか。
「……今、失礼なこと考えてたでしょ?」
「いや、そんなことは決してないぞ」
いつの間にか、俺の手が叶の疑惑で悲鳴をあげ始める。いたたたたた。
ひとしきり、怒りを込めた後、叶は「ふぅ」と呆れたような息を吐き出す。
「兄さん。あたしは今でも戦って欲しくないの」
ようやく、叶は口からこぼすことができた。
そのくらい、真剣で真っ直ぐな想い。だから、ふざけるのはあまりに失礼だな、と感じては指先に込められた気持ちを確かめる。
「それは俺も一緒だぞ」
「うん、誰かが戦わなきゃいけないのは知ってる。分かってる。理解しているけど、納得できないの。命を削ってまで、することなのかなていつも考えてるの」
「……」
「おかしいでしょ。おかしいじゃん……。あたし達、刀を握っただけで寿命が縮むなんて、特に兄さんなんて作刀までしちゃってるから……」
四季家に降り掛かっている呪い。それはかつての鬼が掛けたもので、これが酷い悪さを働いている。
叶の言っている通り、四季家の血を引く者は刀に触れると死にかける。刀を打てないか、刀を振ることができない。そのどちらかの呪いを引き受け、更には一生消えることはない。
魂に刻まれた呪印のようなものだ。
俺や叶、夢。そして、父親。祖父。今のところ、四季家の呪いを受けているのは、その人達で苦しみながら生きている。
だから、叶は怖いのだろう。
「死なないよ、兄さんは」
だから、叶の指先を少しだけ強く握ってあげる。
痛くないように、存在証明するために。
「侍月大会で終わるような人間じゃないのは、叶が知っているだろ? 俺を誰だと思ってる?」
挑発的に笑ってみると、泣きそうで潰されそうな叶は、僅かに震える唇を落ち着かせ――心に未だに揺蕩う不安の居場所を作ってあげると、昇ってきた朝日に決意を示す。
いや、諦めかけた心を奮い立てたのだろう。
今までの過去がフラッシュバックしてきて、それが理由となったのだろう。
だから、納得し続けない心に、少し距離を置いたのだ。いつか向き合ってあげると。
「じゃあ、約束してね。お願いだよ」
「あぁ、任せとけ」
その指先は、少し暖かった。




