第60話「壱」
壱鬼。それは『鬼族』という枠組みの中でも、頂点に君臨し、刀道の世界においても覇者として存在する。いわば、一強と呼ぶに相応しく、形容するには物足りない怪物である。
もしくは、化け物とさえ呼ばれる。
だが、同時に月見高校の高校生として活動している壱鬼は、それ以上のプライベートな話――センシティブな話でさえも、耳にすることがほとんどない。
ゆえに、存在しているはずが存在していない。
どこかにいるはずが、どこにもいない。
そんな生徒である。
だから、壱鬼が盲目の侍だとか、武士だとかは風の噂にすらならないのは、他の『鬼族』が揉み消しているか。はたまた、中尼君の勘違いかもしれない。
だが、前例がないわけではない。
俺達、四季家の人間が鬼の呪いで血肉が茹で上がる経験をしているのが、その証拠として挙がる。
「とぉ兄はどう思う? 中尼さんの発言」
あれから鍛冶場での反省会もつつがなく終わり。
中尼君は自室へ。夢は食堂へ行ってお汁粉を貰いに行った。どうやら、緑茶を飲むとお汁粉が欲しくなるらしい。よく分からない理由だが、甘いものを食べた後に塩っぱいものが欲しくなる現象に似ているのだろうか。
叶は夢について行って、そのまま雑貨を買いに行くらしい。
で、俺は刀の整備――もとい、汚れをある程度落とす作業ともし時間があれば、少しばかり刀でも打とうかと思っていたのだが。
望が手持ち無沙汰に飲み干した空き缶を、くるくると指先で回しながら聞いてくる。
「どう思うって、壱鬼が盲目かどうかの話か?」
こくん、と可愛らしい頭が揺れ、追従するようにウェーブの髪が揺らめく。
だが、その反応からするに欲しい答えを与えられそうもない。
「中尼君にも言った時と変わらないよ。俺は壱鬼の目が見えないことなんか知らないし、そんな噂を小耳に挟んだことだってない」
「それは、とぉ兄は友達が少なかったからじゃないの」
「失礼な。友達はいる。最近、お前達がやって来たから皆気を遣ってくれてるんだ。決して、ぼっちだから噂を聞く機会がないわけじゃない」
本当かな〜? みたいな疑り深い目をしやがって。ちゃんといますって。います。はい、クラスメイトだけじゃなくって友達はいます。月見高校にもいます。
なんで、信じられないのかな。そんなに孤立無援な存在じゃないんだけど。
「じゃあ、中尼さんが言っていたことは間違いだったてこと?」
「間違いかどうかは分からない……」
こればかりは望みのものは用意できない。
いい答えというのは、少なくとも真実味に一割ほど嘘が脚色されたものだ。
この場合、嘘が全てを占めるどこか、嘘かどうかも分からないという井戸端会議の議題にちょうどいいものしか返せない。
「とぉ兄は『憶測で判断して、決めつけるのは簡単だけど、それを訂正するのは相手も自分も否定することになる』言ってたけど。九鬼とか『鬼族』の人から、何も聞いていないの? 壱鬼の事情だとか」
「それが聞ける立場だったら、今頃家名は一等地に住んでるよ。崖っぷちの家にわざわざ内情を話して、ついでの如く道連れにされたらたまったものじゃないだろ」
「そんな無様な姿晒すくらいなら、腹切って死ぬけど」
まぁ、そうなんだけど。愛する妹が簡単に命をなげうつこと、呆気なく捨てる選択肢をチラつかせないで欲しい気持ちでいっぱいだ。
俺が言うよりも心が苦しくなる。
ただ、そういうのが家の在り方。名家の存在証明というやつだ。
「死ぬとか、軽々しく言わないようにね。冗談でも、俺は悲しいよ」
「……ごめんなさい」
項垂れた頭が殊更可愛く見えるのは、バカゆえに。
というより、うちの望が可愛いのは当然として、所作そのものはどこの家へ嫁へ出してもいいくらい、お淑やかに教えてきたのだ。今だって、ちゃんと背筋伸ばして足も組まず座っている。
なにより、叶が頬づきをつけば夢が窘め、見習えと望を指し示す。そのくらいには、お手本なのだ。
可愛さの。美しさの。まぁ、さっきまで空き缶をくるくる回していたのは、ただ手が空いてしまったからだろう。いつぞやに流行った手遊びのくるくる回るおもちゃと同様、お淑やかで麗しい乙女でも、遊びを抜くことはできないのだ。
「まぁ、もし憶測に憶測で返してもいいくらいの無礼を働くなら……。多分、刀を握っている間だけかもしれない」
「それは、とぉ兄や姉さん達と一緒てこと?」
切り替え上手の望は、下げて萎れた頭部を直し、こてんと首を傾げる。
知的な目つきにしては、ギャップを狙いすぎな動きにさえ思うが、そういうのがいいんだろう。
俺は、いい。
大好きだ、そういうの。
「多分、そうだろうな。あんまり推理ぽくない不純な推測だけど、中尼君が試合中に感じた違和感へ理由をつけるなら、そうなるだろうな。
壱鬼は、鬼の呪いで刀を持っている間、目が見えなくなる――ていうのは」
きっと。
おそらく。
多分。
そんな下品な言葉で、言っていいようなことじゃないのは確かだ。本人にも失礼だし、なにより俺達が鬼の呪いで死にかけているから、他の人に憶測で言い切ってもいいだろう、の理由には一切ならない。
むしろ、そういった間違った推論を俺達が咎める立場にあるべきなのだ。
だから、ここでおしまい。
確証もない。真実味が、かろうじての目撃情報のみ。であるなら、これはただの噂話の形をした悪口だ。
今後、そういった話をしないよう望と約束し、叶や夢、そして中尼君へも伝えることで終結させた。
どうせ、知ることになるのだろう、という展望を込めて。




