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第56話「初戦終了」


「戦闘において、一番重要なのは隙をつくことである」


 桜坂蘭が小学生時代。刀道の世界へと足を踏み入れた彼女へ向けられた指導者の言葉は、彼女を突き動かす原動力であった。言動力でもある。

 彼女が矛にも、盾にもするものであって、桜坂蘭が『好機』と捉え動き出すに至った理由でもある。


 (あたしが唯一、傷をつけられるのはここしかない!)


 刀を即座に右手で抜き、間合いにしては遠すぎる距離をスプリンターもびっくりなスタートダッシュで駆け抜ける。四季透の、恐らく隙であるはずの殺気が解かれた瞬間。

 その僅かな時間でも、桜坂蘭は抜いた刀で薙ぎ払えるよう地面スレスレを(きっさき)で掠める。


 (なんで……! 目が合うのよ! こっちは隙をついたはずでしょ!)


 今までの行動全てが桜坂蘭の世界でのみ完結していれば、彼女は隙をついた攻撃――それも一番命中率が高いであろう胴を狙った一文字切りで、四季透にダメージを負わせていただろう。

 しかし、ここには桜坂蘭だけではない。

 模擬戦のシミュレーション試合でもない。

 登録された選手のデータをホログラムで映し、それと実際に斬りあう戦いではない。


 (でも、さすがに届くでしょ……!)


 桜坂蘭は、運動的優良児を遺憾無く発揮し、詰め寄ることに成功する。

 彼女が右手で撫でるように構えた刀は、この日のために何時間も何十時間も研いできた苦労を輝かせる。

 素振りだって何回としてきた。

 今までの経験で、これが一番当たる確率が高く、上級者相手に意表をつくことができるのも、この一文字切りだ。

 そう確信しながら、桜坂蘭は左足を力強く踏み込み、刀に両手を掴ませる。少しでも威力がでるように。少しでも、正しいフォームを描けるように。


 (よし……!)


 構えから、斬るまでの始動。

 そこに至るまでを邪魔されなければ、この一撃は良くて胴へのダメージ。場所によっては大きく削ることができる。例え躱されたとしても、手や腕の内側にさえ気をつけられないのが人間である。そこには、ちょっとした切り傷ができてしまうほどに、体は意思と真逆にズボラである。

 それが小さなダメージだったとしても、確実に『名家四季家の長男、四季透へ傷をつけた選手』ということが可能となる。


 (なにより、あの九鬼さんがダメージを与えられなかったんだから)


 時間が引き伸ばされていく感覚の中、確かな結果を夢見た少女。

 だが、残念なことに。

 非情であるが故に。

 振り抜いた一文字切りは、何も無い空間を撫でるだけであった。


「……うそっ」


 噛みちぎりそうな歯を思わず動かした桜坂蘭。遅れてやってきた彼女の髪が、これまた鬱陶しいほどに視界を遮る。

 しかし、そんな僅かな視野の中にも、四季透の姿はなかった。


「……」


 不意に、それも気がついたら桜坂蘭は振り返っていた。なんとはなし。意味もなく。ただ、自分が探している人物は背後にいるような気がしたのだ。

 そして、緊張が――不安が、彼女の胸を打つ。


 (……なんでっ、確かに躱すこともできない一撃だったはず!)


 唇を噛み締め、悔しさが涙袋に溜まっていく。

 背後――そこにいたのは、刀も抜かず、左手で柄だけは握ったまま中腰の四季透。

 こちらをジッと見据え――見定めるような視線だけは変わらず、彼はそこにいた。

 初めからそこにいたような振る舞いで。


 (なんで……なんでよ)


 泣きそうな心情であった。

 悔しさと不安と緊張で、張り詰めた心が砕けそうになっていた。

 自分の放った渾身の一撃が無意味になったこともそうだが、なにより、今まで積み重ねてきた経験が通用しないことを叩きつけられたようで、膝から崩れ落ちそうであった。

 しかし、彼女はまだ立っている。

 圧倒的な力の差を見せつけられても。ディスプレイに映った可視化されたシールド値がひとつとして減っていないのを知っていても。すれ違いざまに、自分が大ダメージを負っていてもおかしくない状態だったことも。

 全てをひっくるめて、投げ出す前に抱え込む。


「こな……くそおおおおおおおお!」


 大声を出すことは、士気向上や相手を萎縮させるためには有効であり、この場合であれば退却しかけた自分自身の精神を繋ぎ止めるため、彼女は虚勢と虚声を張り上げる。

 それがハリボテでも構わない。


「一撃でも!」


 基礎の基礎。上段から下段へ向けての振り下ろし。真っ向切りと呼ばれる構えは、歪であった。

 型なんて分からない。恐らく、構えた本人だって自分が正しく構えていたのかなんて覚えていない。録画された映像を再生すれば、驚愕して顎が外れてしまうくらいには、崩れていた。

 振り上げた腕はフラフラ。刀を握りしめていても、どこか飛んで行ってしまってもおかしくない。

 それでも、彼女は――桜坂蘭は、無難な刀で無難な攻撃手段を選んだ。

 それは、相手への畏怖を跳ね除けるためでもあり、少しでも格上相手でも礼節は貫き通したい意志の現れでもあった。


 (あたしなんて、この学校じゃ初戦を勝ち抜くことなんてできない! 昔からそうだった! 井の中の蛙が絆されて、蛇の前にお出しされただけ!)


 桜坂蘭の姿勢と威勢。

 それが決して、無情の鬼に届かなかったわけではない。

 四季透は駆け寄ってくる桜坂蘭の、尋常ならざる想いを感じ取ったのか。はたまた、気まぐれか。

 それとも、『負けは負けとして、潔く散る美しさ』に魅せられたのか。

 彼は左手で強く、柄を握りしめる。カチャリ、と指が鍔に触れる音。腰を落とし、真正面から向かってくる相手へ対するために、右足を開く。

 なるべく刀を隠すようにして、フェイントなど必要ないことの証明を行う。


 (斬られてもいい。それが面接に有利ならそれでいい。だけど……)


 走馬灯。

 桜坂蘭の中に巡るのは、今までの思い出。中学時代、部活動で頑張っていた彼女は、今や念願叶って月見高校へ進学することができた。

 狭き門を叩き、なんとか自分自身が入れるだけの隙間をこじ開け、ようやく掴んだ栄光への道は、憧れとは程遠い修羅の世界であった。

 三年間、刀道の大会や技術。剣技や基礎体力や柔軟性。それらを培って、積み上げてきたはずが目の前の存在が悉く否定していく。本人にそのつもりがなくとも、彼の立ち振る舞いや構え、模擬戦での九鬼との戦い方。それらが、充分な証拠となって突きつけられている。喉元に鋒が添えられているのだ。


 (このまま、泣きべそかいて首を差し出すのは違う気がする!)


 彼女が大切にしてきたのは、桜の花弁と一緒に舞い踊る武士の英華ではない。煌びやかな世界に憧れる乙女の心でもない。

 きっかけは確かに、テレビに煌々と照らし出された武士ではあったものの、道場や中学時代の鍛錬。そして、思い知った現実が育てたもの。

 それは紛うことなき、武士道であった。


「くっらええええええええええええ!!」


 渾身の一撃。

 上からの振り下ろした刀は、四季透の眼前まで差し迫る。ここまで動かず、ただ技を待っていた武士四季透は、彼女の刀が振り下ろされる軌跡から体を少し左へと動かす。

 僅かなその動きではあったものの、それによって彼は避けることが可能となる。だが、ただ避けるだけでは、この一撃を無為にしたことにならないか。

 そう、四季透は問い掛ける。

 そして、瞬時に出した答えは彼が抜刀し始めた『春刀 徒名草』の輝きに示された。


 四季透は迫り来る刀を半身で抜けられる位置まで動き、鞘から桜の刀身を抜き出す。

 そして、あえて彼女の刀を受け流すように――刀身の側面を撫でるように抜刀していく。

 それでも、脆い刀は代名詞の如く、擦りつけただけでも根元から徐々に徐々に桜の花弁を散らしていく。

 甲高い悲鳴を上げ、目標となる対象に向かってその身を粉にしながら、『徒名草』は一撃を放つ。

 桜坂蘭の、首元まで差し迫る。

 真っ赤に燃え上がった四季透の体は、正しく鬼の体現である。


 (……あ、)


 気づいた時――認識した時には、桜坂蘭の首に衝撃が起こる。

 拳銃から銃弾が発射されたような爆音を響かせ、シールドに守られた桜坂蘭の首は、軽く指で押されたような感触があるのみ。

 何が起こったのか。

 痛みもなく、斬られた感覚もなく。ただ、斬られたような気がするのみであった桜坂蘭の視界には、キラキラと桜色の雪が舞い降りる。

 幻想的で、神秘的な光景はさながら、小さい頃見た桜の武士が間近にいるようでもあった。

 しかし、その時と違うことはテレビで見ていた観戦者ではなく、対戦相手だったこと。

 そして。


「そこまで! この勝負、四季透の勝利!」


 立会人の叫びによって、判明した自分自身の負け。

 背後で立ち尽くす四季透。

 彼がどんな顔をしているのか、どんな思いでいるのか決して桜坂蘭には分からないものの。

 天井を見上げ、降り注ぐ刀の欠片を見て溜息を吐き出す。


「…………悔しいなぁ」


 今までの後悔と、四季透と対面してようやく掴んだ武士道とやら。なぜ早く気づかなかったのか。それがあれば、自分の未来が変わっていたのかもしれない。

 そんなやるせない気持ちが、彼女の涙袋を決壊させた。

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