第35話「毒は薬へ。薬は毒へ。巡る」
それから数日も経っていない。ましてや、半日すらも経っていない頃、その騒ぎ出しそうな声は鍛冶場にやって来た。鳥のさえずりをかき消し、木々のざわめきを鎮めるような存在は、鍛冶場の扉をくぐり抜けて俺の背後へ居心地を求めていた。
「四季様」
「ノックはしたかい。勝手に入ってこられても困るんだけど」
背後から聞こえてきた声は誰のものでもない。今朝、無理やり同席してきて、朝ごはんを食べながら説教もした男――中尼史記。その声に間違いない。無論、ここへやってくる男の声は、珍しくとも教師か、あっても鬼族なものだろう。その中で教師がわざわざ俺の事を様付けなんてするはずもない。鬼族だって下の名前で呼ぶ。
だとすれば、限られてくるのが一人になるわけだ。
そんな推理を他所に、どこかへ置きながら、納品されたダンボールを開けようとする。あぁ、ガムテープがぐるぐるに縛りつけて、いかにも厳重にしましたと証明書代わりへしている。そうするから盗られやすくなるとも知らないのだろう、この業者はいつだってそうだ。
「ノックはしました。ですが、反応もなかったので失礼しました」
「そうか、だとしたら耳が遠くなってしまったようだ。これでは弟子をとるなんて難しいだろうね」
「屁理屈を……。四季様は見ていたじゃありませんか。見逃しませんよ。全開になった扉をわざわざノックしてまで入ってきた人のこと、ガン見していたじゃないですか」
「おや、そうだったかな。気のせいじゃないかな」
「気のせいじゃないです。殺気を込めて、訝しげに見ては誰か分かると平静を装ったじゃないですか」
……どうやら、この子は見た目以上にちゃらんぽらんじゃないようだ。にしたって、そこまで気づくものだろうか。殺気なんて、曖昧かつ認識しにくいものを明確に感じては言語化できるなんて。
大抵の人は、おおよその大多数は、平和ボケした思考では不機嫌だと片付けるものを。判別して、断定するのは至難の技だともいえる。
まぁ、この学校ではまぁまぁ珍しくない話だけど。強くなりたい人というのは、得てして得ずして、得られなくしてそういった殺気の同定はできないものだ。
ましてや、背中越しに――表情も分からないとすれば気配と声音で察知するしかない。だとすれば、俺の様子は気分も悪い状態なわけだ。
「そうか、うん、ごめんね。ここへ来るのは妹か苦情文と反省文を持ってくる先生くらいでね。どうにも他の人が来てしまうと警戒してしまうみたいだ」
「いえ……迂闊に飛び込んだ自分も悪いですから」
謙虚か。いや、怯えなのか。ダンボールの中の物を確認できたので、中尼君を視界に捉えるとそこへは恐怖による震えが、明瞭な意識的な、根源的な恐怖を目の当たりにした逃避が包んでいた。
そこそこの反応だろうか。そうやって判断するのは、あまりにも自惚れすぎる。彼を評価できる立場にない。そもそも、自分自身の評価と風評を解決させなければいけないのに、他者の云々を総評できるほど、落ちぶれてもいない。
「それで、何か用かな。いや、改まって聞くようなものじゃないだろうけど、俺の時間を奪うだけの理由は持ってきたのかな?」
この問いも自分勝手の身勝手たる所以だろうか。だとしても、俺自身以外と妹以外は基本的に生活の勘定から外すものだ。身内じゃなければ感情からも退かすものだ。
そうやって正当化するしか、自分自身の威厳を保てないのだ。相変わらず、愚かな尊厳だ。
「俺が弟子に向いていない理由。それが分かったのです。聞いて貰えますか」
「……そっか、それだけで充分だよ」
明らかな落胆の声音を発する。
感情を声に乗せること自体、あまりやるべきことじゃないし、喜怒哀楽に左右される人間性とやらは刀の錆になるしかなくなる。だからこそ、するべきじゃないはずが、注意していたはずが、どうやら理性と切り離された唇は勝手に動くようだ。
「君は弟子に向いている」
「……え、いや、理由は」
こちらが落ち込みとすれば、あちらは驚愕――放心だろうか。
しかし、背中で語るべきじゃないことだろう。どうせ振り向けば豆鉄砲を食らった顔をしているはずだ。そう思って振り向いたら、中尼君は笑顔でピースしていた。
「舐めてるのか」
「いえ、真面目です」
「嬉しくてピースするなよ。俺が背中向けてるからなんでもしていいと思ってるだろ」
「はい」
「はい、じゃない。そこはすみませんだろ」
どうにも軽い。注意してやったのに、徒労に感じるほど無意味な感触を与えてくる。
しかも、「すんません」とちゃらんぽらんな返事だ。舐め腐ってやがる。やっぱり、弟子には向いていない。
「言っておくが、弟子に向いていると言っただけで、俺が弟子にすると言ったわけじゃないぞ」
「すみませんでした」
反転。即座に土下座する中尼君。
君、カメレオンの生まれ変わりかい。転身というやつを覚えるには、まだ早いんじゃないかな。
そう思ってもいいくらい様になった土下座を、どうにかこうにかしようとした矢先。
「兄様……何をしているんですか」
こちらを白い目で見つめる夢が、中尼君の後ろに立っていた。おや、おやおや、これは俺がやったことだと思っていそうだな。
いや、やったことではあるけど、求めたわけじゃない。そう言い訳しようと思ったが、なにやら思考は咄嗟に思いついたことを美化してしまうようで、ふと考えたことをこれはいいことじゃないかと問答無用で採用してしまうのだ。
「そうだ、夢。ちょうどいい、頼みたいことがある」
そう伝えた夢の表情は、これ以上ないくらい面倒そうな表情を顔の奥底に隠していた。まぁ、それ以上に血の気の湧き上がりを感じているんだろうな。
そんな少女に似つかわしくない、愛くるしさの欠片もない、無表情を浮かべていた。




