第152話「五グラム程度」
叶が閉め忘れた扉を閉めに行くと、小さな影が飛び込んできた。
それは、小さな存在で。特に、今は小さくなっているのかもしれない。ふわっと、嗅いだこともないような優しい香りが鼻腔を撫でてくる。香水だろう。ほんのりとだけつけては、ふとした瞬間に好きな匂いがすることにテンションが上がる子だから、動きに合わせて近づけばその幸せを分けてもらうことができる。
今回は、向こうからやって来た――いや、俺が心配させて来てもらった、が正しい。
だから、叶は扉を閉めなかったのか。
「望」
「…………」
「怒っているか」
「…………怒ってる人にそんなこと聞かない方がいいよ」
「そりゃそうか」
ぐりぐりと肋骨を額で削られる。
地味に痛いが、仕方ない。不安にさせたのだから、これくらいは受け止めなければいけない。
「ごめんな。怖かっただろ」
「……うん。でも、話は聞いてたから」
「話、てどこまで?」
「鬼の呪いが酷くならないように、特訓するって」
知っていたか。
いや、叶が教えてくれたのだろう。さっき望と会ったと言っていたし、状況を予め説明してくれたのだろう。
俺が説明する責任があって、謝る必要があるのに、だ。
勇猛果敢の猪突猛進スタイルとは打って変わって、気遣い上手のお姉ちゃんに変貌を遂げた。元からそうだったけど。
「だから、今回みたいに倒れることが多くなるかも、てことは聞いたか?」
「うん」
「望は、嫌か?」
未だに胸に顔を隠した子は、少しの逡巡が脳内を駆けているようだ。無言で、喉が震えて、心の燻る決意が、揺らいでいるのかもしれない。
それでも、行ったり来たりする堂々巡りに終わりをつけるのか、より一層、俺の体までめり込んでくる。
「心配させないで」
ただ、それだけ。
言いたいことはそれだけ。
それ以上は、求めすぎて。それ以外は譲れない。
そんな不安な主張を受け止める。
「分かった。ごめんな、心配かけて」
「うん。次やったら、許さないから」
ギリギリと、腰骨が悲鳴を急にあげはじめた。
おかしいな、最近、ストレッチ不足だったからか。こんな急に痛くなるなんて、俺も鍛錬不足なのかもしれない。
◆
その後、望は俺の腰を叩いて治すと、そそくさとどこかへ行ってしまった。
そもそも今日は予定があったらしく、それを中断してまで来てくれたとのことだ。
「後で、お礼でもしなきゃか」
わざわざ自分の予定を後回しにして、俺の安否を気遣ってくれたのだ。これほどの無償の愛に現物支給の愛情は相応しくないかもしれないが、形に残して伝えるのも、有償の愛として綺麗に見えるはずだ。
そうと決まれば、あれやこれやと望の好みそうな物をどこで買ってくるか算段を立てる。
やっぱり、普段使いできるやつの方がいいよな。
かといって、女子の必需品とか分からないし。どうしたものか。うーん……。
「……お前、何唸ってるんだ」
「おー、九鬼か。……後、榊先生?」
「不思議そうな聞き方するんじゃない。四季透がぶっ倒れたと聞いて、心配で駆け付けた心優しい先生へあんまりな対応じゃないか」
「いや、あくびしながら言わないでくださいよ。絶対嘘じゃん」
この気だるそうな人は、いつになったらやる気が出るんだろうか。
扉から九鬼が重そうなアタッシュケースを手にぶらさげ、その背後から榊先生の無精髭がぐにゅっと覗いてくる。
絶対寝起きじゃん。
「九鬼、それは? もしかして、神鋼か」
「ご名答。それより、起きてて大丈夫なのか」
「よくあることだよ」
「意識失うのが日常なのは、異常だぞ」
榊先生、あなたの教え子はちゃんと心配してくれてますよ。誰より一番早くに畳の上で寝っ転がらないでくれませんかね。
威厳はどこへ行ったんだよ。
「榊先生。せっかく監視役を頼んだのに、寝ないでくれよ」
「どうせ、耐久力の検証だろうが」
人の呪いに対する抵抗力を耐久力とか言わないで欲しいけど。物じゃないぞ。
とは、憤慨する気力は湧いてこないのが不思議だ。
叶だったら、吹き飛ばしていたことだろう。
やはり、まだ脳みそは起きていないのかもしれない。
「まぁ、死にそうになったら助けてやるから安心しろ。連日徹夜でこちとらちょっとでも休まなきゃ気を失いそうなんだ、理解しろ」
「ちゃんと寝た方がいいですよ」
「お前のせいだ馬鹿者」
これ以上ないくらい不満な視線。俺が作刀時の記憶がないけど、榊先生の反応から察するに俺は先生に見守ってもらっているようだ。
それも、連日。
予選の日でも頼んでいたのか。それは申し訳ないことをした。
正当な不満を受け止めると、榊先生は涅槃寂静さながらの姿勢で目を閉じていた。
「榊先生は放っておいて。とりあえず、透さんにはいくつかの神鋼を触ってもらうことになるが、本当に体は大丈夫なのか?」
「お前にそこまで心配されるほどじゃない」
「そう、ツンケンするな。平気ならいいんだ。ではでは、説明をする」
そう言いながら、金銀財宝か、もしくは札束が敷き詰められていたらいいなと妄想していたアタッシュケースを開く九鬼。
しかし、そんな都合のいいものは詰まっていない。
ただ、金銀財宝よりも価値のあるものが四個入っていた。
「それぞれ、小さい方から五グラム、十グラム、十五グラム、二十グラムに削り取った神鋼だ。まずは小さい方から触ってもらい、鬼の呪いがギリギリの反応になるものを見つけよう」
「ギリギリ?」
「あぁ、倒れる寸前の量を見つけて、今後はそれを身につけておいてもらおうと思ってな」
神鋼を身につけるって、アクセサリーということか。
前代未聞というか、聞いたことがない。そもそも、刀の原料だ。そんな扱い方を習っていない。鬼を打ち倒すために必要だとは、聞いていて、それ以外の用途なぞ思い浮かぶこともなかった。
だから、心底信じられないと表情に語ってしまった。
「信じられないのかもしれないが、様々な方法を試すのも名家の余裕だったり、品性にも繋がるんじゃないのか」
「これが五グラムか?」
新境地を開拓するのはいつだって無謀とも思えた度胸と、無法地帯の挑戦心だろう。
新しいことに親しみを込めて迎えてやらねば、前時代に取り残されるのは必然だ。
そうと決まれば、まずは小さく畏まって、無骨な形の神鋼を手に取る。
削り出したとは言っていたが、純度百パーセントなんだろうか。少しの疑問はあるが、もしそんな削り出しができたのなら、純粋に感心する。関心もある。
「あ、まずは指先から――」
そこで、世界は途切れていた。
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