第143話「空元気」
グラウンドから聞こえてくる掛け声。
野太くも、青酸っぱい空間は投げ合う白球がそのまま空へと消えてしまいそうなほどだ。
いつか無くなってしまう。
だけど、今はある。
そんなあっという間に過ぎ去ってしまうものを見たからか、センチメンタルな純情を抱いているとグラウンドの奥から走ってくる生徒に全く気づかなかった。
いや、気づかなかったわけじゃない。
野球部のユニフォームに身を包んだ人が、先日見た事のある足運びをしていた。だから、気づいた時には目の前にいた。
そのくらい、隙をつくには充分で。
だから、野球部のユニフォームを着ていてもおかしくないくらいだ。
「おや、四季透さんじゃん」
「長虫さん、だっけ」
「おいおい、わっちのことまで忘れたんか? 昨日戦った仲じゃろうて」
緑のあみあみ越しにイタズラっぽく睨んでくる。
まるで、蛇みたいな目をしている。
華奢に見えた肉体に、野球部の中でも中間の背丈をしている生徒。特徴的な口調に、試合中は『蛇足』と呼ばれる蛇行に足を動かす奇想天外な選手として有名だ。
そんな相手と昨日戦って、今日はなんとなくで会話ができる。
そこに試合中、突き刺すような殺意も敵意も全くないのだから、ギャップ差が凄い。
「忘れたわけないだろ。……なんでユニフォーム着てるbんだ?」
「ん? これか、似合っとるじゃろ」
そう誇らしげに言わなくても。
後、見せつけるようにくるりと一回転しなくてもいいって。
「あー、似合ってるよ。うん」
「そういう反応は良くないから辞めとけな。……そっちの人はあんたの友人かの?」
視線で誘導してくる長虫さん。
それは隣の桜坂さんを示していた。
なんとはなしにグラウンドで動いている人影を眺めて持て余していた彼女は、急遽の指名にぎょっとする。
「あ、私?」
「あんた以外におらんじゃろ」
「い、いやー、私は先輩というかなんというか」
俺のことを伺ってくる。無理もない。たった数日の関わりを友達と称するのは、相手にとって失礼でないか気にしてくれているのだろう。
かくいう、俺も桜坂さんを友人と言うべきかどうかは曖昧である。先輩ではあるし、対戦相手ではあるけど、もう少し時間を一緒に過ごせば友達かもしれない。
そういうのは、明確な線引きを必要としていないし。
「日が浅いちゅうことじゃったら、わっちと一緒じゃな。わっちは長虫弁天。よろしくお願いします」
「あ、こちらこそよろしくお願いします。桜坂蘭です」
ネット越しに頭を下げ合う二人。
まるで社会人の社交辞令を見ている気分だ。
俺も見習うべきだろうな。こういう所作というか。当たり障りないどころか、当たり前になって空気読みと化した暗黙の了解を。
「で、長虫さんは何をしていたんだ?」
「見ての通り、野球部として駆け回っておるんじゃ」
ユニフォームについた汚れを叩き落とし、裾を広げる自慢げな長虫さん。
「野球部なの?」
緊張はどこかへ消し飛んだ様子の桜坂さんは純粋に尋ねる。
それを受けて長虫さんは、首を傾ける。
「いや? わっちの足で野球部なんか向いておらんからの。あ、桜坂さんは知らんか」
「知らんか、ていうのは足運びのことか」
そうそう、と指さしてくる長虫さん。
なんだか、テンションが高いような。あれか、運動していたからアドレナリンが出ているんだろうな。
「あ、観ましたよ。透さんとの対戦」
「うわぁ、負けたとこ見られちまったんじゃな。なんか、恥ずいの」
頬をポリポリして、照れくささを弾き落とす長虫さん。
まぁ、負けたところは見られたくない。俺だってそうだ。なんてみっともないんだという気持ちすら湧いてくるのだ。
負けず嫌いというのはそういうものだ。
「ま、観てもらったんならあの足運びじゃと、むしろ動きにくくての」
「なんで? なんか柔軟な体活かして駆け回ってそうだけど。盗塁とか有利なんじゃ」
「んなわけあるかい。どっちかといえば、持久力よりかは瞬発力の必要な競技じゃから蛇行するのはむしろ悪手じゃて」
そうなのか。
いや、そうか。よーいドンで走ることが多いのだから、継続的に動き回ることを得意とした『蛇足』は余計足を引っ張るのか。
遅延だったり、相手を撹乱するためならいざ知らず。即決即断の速攻戦術が大正義とすれば、邪道も邪道か。蛇の道と書いて蛇道だ。
「そういうわけじゃから、友人の代わりに入っておるだけじゃ」
「友人ねー」
長虫さんの友人。どういう口調の人なんだろうか。
そこに共通性もないが、気にはなる。
「なんじゃ、意味ありげな言い方は。わっちにだって友人はおるわ」
「いや、そういうことで言ったんじゃない」
危うく勘違いされそうになったのを訂正するも、疑念増し増しのジト目で見られる。
蛇でもそんな睨み方はしないぞ。
これ以上の弁明はむしろ逆効果だと溜め息をつくと、長虫さんは一層緑のネットに顔を近づける。
まるで、秘密の会話をするために。
「ところで、話はできたんか」
「話?」
「馬鹿、昨日のTalkの相手のことじゃ」
囁き声はグラウンドの奥から聞こえてくる掛け声に消えてしまいそうなほどだ。
しかし、隣の桜坂さんに配慮してくれたのか。それとも、俺自身を案じてくれたのか。どちらにせよ、あんまり内緒の話は第三者の目の前でするのもどうかと思うが。
「なんだよ、Talkの相手て」
「あれじゃ、才木という名前の相手がおったじゃろ。話はできたんか」
「お前、貸した時に見たのかよ」
「見えたもんじゃから、しょうがないじゃろ」
こいつ、悪びれもせずに開き直って。
まぁ、そりゃ心配にもなるか。俺の記憶がすっぽ抜けているのだ。才木のことも覚えていない。それでも、先日まで会話をしていた。
それでも、俺は忘れてしまった。
才木という存在が消えてしまったのだから、そこで縁が途切れたと、長虫さんは思ったのだろう。だから、ちゃんと返信をしろ、なんて忠告してきたのだと思う。
「お陰様で、事情は話して許してもらった――」
言いかけて口を噤む。
いや、許してもらっているのだろうか?
二度と起こすつもりはないし、そんな気すら起きないのだが、気にかかる部分があって断定するには判断に迷う。
「どうした?」
「いや、長虫さんはさ、結婚の約束とかしたことあるか?」
「急になんじゃ……才木という相手とはそういう仲なのか」
「そういうわけじゃないけど」
これは、すごく悩ましいことだ。
というのも、許してもらうには才木の姉と結婚するべきなんだろう。俺としては約束を不問にするのは忍びないどころか拒絶したいくらいだ。
忘れてしまう前に、果たしてしまいたい。
とすれば、才木の姉とした約束を果たすのが、俺にとっての贖罪ともなるんじゃないのか。
……でも、そんな気持ちでは相手にとって申し訳ないし。
これ、もしかして結婚以外の道なくないか?
「まぁ、四季家なら許嫁の一人はおってもおかしくなかろうて」
「いや、そういうフォローはいいから」
「なんじゃ、突き放してきおって」
「才木の姉と、結婚の約束をしていたらしいんだ」
そんな白い目で見ないで。
羨ましさ半分、妬ましさ半分、女の敵だという認識が全部を含めた懐疑の視線が痛い。
「それを忘れおったんか」
「いや、忘れる前から知らなかったというか」
「忘れる前に忘れていたんじゃないんか」
「……分からない」
その可能性は捨てきれない。
だが、身に覚えがない。
「でもさ、結婚するかどうかだったら普通覚えてないか?」
「あんた普通じゃなかろうて」
鋭い一言に胸が抉られ、喉が開かれる。うぐっ、と呻き声が出てくると、ここぞとばかりに長虫さんは続ける。
「そも、友人のことだって忘れとったんじゃろ? そんなあんたが、約束事を忘れておってもおかしくなかろうて」
「……はい、ごめんなさい」
「わっちに謝られても困るわ」
頭を下げたものの、相手が違うと言わんばかりに気だるげな返答をする長虫さん。そりゃそうだ、謝るべき相手は才木の姉に対してするべきだろうし、そうするべきだとは思う。
「まぁ、わっちは許嫁なんざおらんから贅沢な悩みじゃと吐き捨てておいちゃるわ」
「おい、見捨てるな」
「じゃかしい。ほんじゃ、桜坂さんまたどこかで」
「あ、はーい。またねー」
これ以上の追及は必要ないと踵を返す長虫さん。
あー、行ってしまった。遠ざかる背中を恨めしく眺めていると、秘密の会話を終えた俺の近くへ桜坂さんがやってくる。
「昨日戦ったばかりなのに元気だね」
「……まぁ、空元気だとは思いますよ」
昨日長虫さんからの目的を聞いて思ったこととしては、勝ち続けることが必須のようにも思えた。
最低条件でも決勝戦進出だっただろう。
そうでなければ、弐鬼に気づいてもらうことはできないかもしれない。もちろん、予選からの試合を見ているかもしれない。だが、勝ち進めば勝ち進むだけ――無名であればあるだけ、注目を集めやすいしメディアにも取り上げてもらいやすい。
そうしたいはずが、負けてしまったのだ。
もちろん、他にも手段はあるだろうしその一つが『鬼族関係者とのコネクションを確保する』ことだと思う。
でも、そう簡単に割り切れるほど。
振り切れるほどの執念じゃないはずだ。
「そのくらいの気持ちじゃないと勝てないよね。やっぱ、勝ち続ける人って精神的に凄いんだなー」
「そうなんですかね」
「よく分かってないのも若い証拠なのかな」
どうだろうか。
よくよく考えても、よく分からない。負けることが嫌なのもそうだが、負けてしまえば成し遂げられないからこそ、そこら辺は意地が絡んでくる。それを精神的に凄いかと言えば、首を傾げる。
そのうち、分かるのだろうか。
そう思って、隣で並んで歩く桜坂さんを見ると自分の言った「若い証拠」とやらにショックを受けて、ブツブツ何か言っている。
こわ。焦点合ってない桜坂さんをなるべく見ないようにして、忘れることにしよう。そう決めた。
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