第137話「誠心誠意」
我ながら、ここまで妹に愛され、お返しというには大袈裟なほどの愛を返しているのは妹バカと言うべきなのだろうか。そうであるなら、些か表現に乏しい俺が唯一導き出したこの状態を説明する語彙は『痛い』かもしれない。
目に入れても痛くないなんて言葉があるものの、実際、愛情というのは痛覚を伴う。胸の奥がじくじくと傷ができて出血するように感情がこぼれて、止まらなくなる。止血する方法もないのに、勝手に傷が塞がってはカサブタになって、予期せず剥がれ落ちる。この繰り返しで次第に膿を吐き出し、どうしようもないほどの傷口となって死んでいく。愛とは不可視の傷であって、生涯永劫の勲章でもある。もちろん、その愛が歪であったとて、それは誇り方の違いであって、大概とすれば細かく揶揄するだけの繊細さもない。
傷ができた人を見て、可哀想や痛そうだのの感想は抱くものの、人は決してその痛みを共有できるわけでもない。愛情に育まれた人を見たとて、それは自分自身ではないのだから遠ざけるより他ない。中には、お節介にも手を焼く人はいるだろう。『痛い』に寄り添うことが愛なのかもしれない。
もちろん、妹達へ大仰な愛を謳っているわけではないものの、そう表現するしかないほどに、心臓の向こう側は痛むか痺れるか、自分の意思とは関係なしに鼓動をはやめてくる。
「兄様? 聞いてますか?」
「あぁ、聞いてるよ」
若干の心配を瞳に浮かべながら夢は聞いてくる。
あれから、日記を開き執筆者の恨み辛みが多分に込められた文字を読み解いていた。しかし、どうにも俺には読めないことは分かったし、夢に解読して読み聞かせてもらわなきゃいけないことも理解できた。
「それで、『鬼化』についてなんですけども」
「すまん、『鬼化』てなに?」
「……兄様、今夢は手を握るか頭を撫でるかの二択で迷っております」
「そっか、じゃあ手を握ろうか」
不満げな唇は右手を握ることでホコを収めてくれた。
むしろ、口の端っこがにへっと柔らかくなっている。単純な妹に少しばかりの不安と、今は俺にしか見せないこの光景に優越感が心の内を占める。
しかしまぁ、これを『痛い』とは言い難いな。
「それで、『鬼化』はどういうものなんだい」
「えっとですね――」
言いかけた桃色の唇は動きを止める。まるで、時間が止まったように。釘を刺されたように身動きの取れない状態となる。
夢はただ一点だけを見つめていた。
「夢? どうした」
妹の視線を同じようになぞる。長い机とシンプルな色味の椅子を飛び越えた先。それは俺達が入ってきた扉へ向かっていた。
そして、そこにはこちらと目が合って、戸惑いを浮かべる人がいたのだ。
「…………九鬼」
ぽつりとつぶやく。
その声を聞いたのか夢もこくりと小さく頷く。
扉には九鬼道寛がアイスキャンディをくわえ、こっちをおっかなびっくりと言いたげな目で見てきていた。
目も離さないその姿はまるで威嚇している犬のようでもあった。リードを引っ張られても、てこでも動かないから無理やり連れて行かれる犬みたいだ。
「どうしようか、場所変えるか?」
「さすがに、目が合っていなくなるのは相手に失礼ではありませんか?」
「それもそうだけど、なんとなく気まずいというか」
模擬戦をしてから一切話をしていない。会ってすらいない。それでも、相手がSNSでの発言を蹴り挙げられてボヤに突っ込まれていたのを傍観していた立場からこその気まずさが募る。
相手の自業自得といえば聞こえはいいが、俺達はそれを望んでいたわけじゃない。外野が勝手に燃やして、おもちゃみたいに遊んだのを信じられない気持ちで見ていたからこそ、いたたまれない。
そこから、俺達の弱点を解説することである種の立ち位置を確立した彼に、なんと声をかければいいのかも、どうやって立ち回ればいいかなんて、経験不足と記憶力のない俺が正解を見つけられるわけもない。
「あれ、こっちへまっすぐ来ますよ」
「は」
情けないほど、素っ頓狂な声が出てしまう。
意識を逸らした瞬間に、九鬼は俺達の机へ向かって歩行するだけの空間を早足でやってきている。
いや、怖いって。視線くらいは離してくれ。
そして、目の前に堂々たる出で立ちになると、九鬼は何も言わず、まんじりとして動かない。さっきまでのテキパキとした足取りが嘘のようだ。
ただただ、見つめ合い。無言の重苦しい空気が支配していく。メンチの斬り合いは試合だけで充分だと思うんだが。
「…………何か用か?」
このまま黙ったままだと、したい話ができない。妹との作戦会議やら今後の対策会議に支障をきたすのなら、早めに対応しておくのが吉だ。
対応は早めにしておいて損は無い。
「四季透さんと、四季夢さんだけですか」
「そ、うだが」
なんだか、一層かしこまった姿勢に思わず怯んでしまった。いや、別に対決しているわけでも勝負でもないから、怯んでもいいのだけど、相手が相手だし。なんとなくの敗北感が淀みに沈んで、消えていく。コーヒーに落とした砂糖のように、もう溶け込んでしまって見えなくなってしまう。そして、いつか飲み干した時に溶けきっていない砂糖が底にへばりついているのだ。
それをもったいないと思うから、混ぜきりたいのに混ぜ方がよく分からない。
「用というのも、自分勝手なことで大変恐縮となりますが、それでもよろしければ私の話を聞いていただければと思いますが」
「……まぁ、聞くだけなら」
すっかり抱いていた警戒心さえも戸惑いを浮かべて立ち往生している。そりゃそうだよな。うんうん、わかってあげられるよ、と宥める間もなく、九鬼は九十度に腰を曲げた。
地面と並行になった頭は、これまた綺麗なつむじを見せつける。
「模擬戦の挑発で不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。また、『四季家の弱点判明』と動画を作成、投稿したことで不愉快な思いをさせてしまったかもしれません。
今後、同じような過ちを繰り返さないよう誠心誠意努めてまいりますので、今までの無礼をお許しいただければと思います」
…………社会人?
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