第123話「長虫弁天8」
登り始めて数分で、長虫弁天こと天ちゃんの行く手を阻んだものがあったわけでもなく。至って普通の斜面が続いており、若々しい葉が所々に落ちているくらい。
モワッとした湿気さえなければ、陽射しも木漏れ日程度で済んでいるから、快適といえばそう言える。
手入れがされているわけでもなさそうで、木々の間隔も疎ら。だからだろうか、赤茶色の地面を見れば動物の糞が転がっていたりもする。
「これが修行?」
想像していたのとは違う。
天ちゃんの率直な感想がそれだ。
これではただのハイキングだ。ある程度整備されたコースじゃなくて、ちょっと鍛えようと道から外れたハイキングでしかない。
そのことに気づいた天ちゃんは、期待していたものとは違うことにガックリと肩を落とす。
「なんか、戦ったりしないんだ」
天ちゃんの想像していたのは、木刀で打ち合って何度も何度も繰り返す、さながら剣道の打ち合い稽古である。
なのに、今自分は山を登っている。
なだらかな斜面をゆっくりと進んでいる。
「強くなれるのかな……」
そう呟いて、しばらく。
山の中腹まで来た。天ちゃんの足は少しばかり疲労を蓄えていったが、ここまで難なく登れたとすれば、後は楽だ。頂上につきさえすれば、降りるのに大した苦労もない。
そう思っていた。
「…………え?」
天ちゃんが、どっこいしょと石の崖をよじ登って目にしたのは茶色の物体。
チクチクとした毛先は脂で湿っているし、四足でトントンとあっちらこっちらと動いている蹄は、泥がこびりついているし今まで険しい崖を駆け上ってきたのか、欠けていたりもする。
「いの……!」
相手が動物の中でも、どんな種類なのかを判断できた天ちゃんは声を抑える。
しかし、些細な音も聞き逃さない存在はぴくっと天ちゃんの方へ顔を向ける。左の牙は欠けているが、右の牙は突き刺されば大怪我間違いなしの武器を持っている。
なにより、左の目が潰れている。
明らかに同種との争いに敗れた猪が、天ちゃんの七メートル先にいたのだ。
(で、でも。野生動物だけど、襲ってきたりはしないはず……)
小学生であっても、多少の知識は至る所にでも転がっている。
縄張りに入らない。
入ってしまっても、驚かすような行動をとらない。
大声や物音など厳禁だ。
だから、息を潜め猪の出方を木の影から伺う。
(大きい。あれだけ大きいのに、負けたの?)
見れば、天ちゃんよりも大きな体なのはそうだが、真っ直ぐ立った時横並びになりそうな高さなのだ。
胴も長いのも相まって、今天ちゃんが遭遇して襲われでもすればひとたまりもない。
それを想像しては、背中が凍りつく。
(なんで、動かないの。早く行ってよ)
ちらっと見ては引っ込むことを繰り返していても、未だに猪は動く気配すら見せない。
むしろ、辺り一帯をフゴフゴと荒い鼻遣いで嗅ぎ分けている。こうなってしまっては、すぐさま動くかどうか猪の気まぐれになるだろう。
最悪、ずっとこのまま膠着状態になることだってある。
(それは、嫌だな……。なんとかバレないように登ろう)
天ちゃんは、木の影にその身が隠れるよう猪と対角線に進む。ここで下山を選ばず、しっかり登山することを選択した勇気は褒められるべきだろう。
一度登った石の崖を降りるかどうか。少しばかりの逡巡を挟み、物音を立ててしまうリスクを考慮して、なるべく音を立てない忍足で大回りするルートに舵を切る。
猪を中心として、木々の並びはほぼ等間隔。
合間に雑草が伸びていれば良かったが、あいにくそういった好都合な植生にはなっていないようで、苔や小さなキノコが並んでいる。
とても身を隠すのにうってつけな存在ではない。
(とにかく……ゆっくり。ゆっくり進んで、息を潜めて、集中しよう)
ただの健康運動だった修行も、今となっては緊張感溢れるものとなってしまった。
なにせ、野生動物との遭遇など、小学二年生が想像するわけもなし。多少、小動物くらいはいるだろうと天ちゃんの考えを猪突猛進で消し飛ばしたとすれば、大きな功績ではある。
しかし、天ちゃんの姿がバレて、一気に興奮させてしまうと大変なことになるのは目に見えている。
天ちゃんは、ゆっくり、落ちた枝葉を丁寧に避け、浅い呼吸を繰り返し、少しでも環境音に紛れるよう精一杯進む。
最初いた木から次の木の影までは難なく進めた。
これを何度も繰り返し、猪の姿が見えなくなるまで登れば、後は遭遇しないよう大回りの下山ルートをとれば、問題ない。
そう、全ては順調に行くと、天ちゃんは高を括っていた。
――苔に足を取られ、ずっこけるなんて最悪のことがその身に起こるなんて、思ってなどなかったのだから。
「いっ!」
思わぬ衝撃が全身を襲う。
それでも顎をうたないようにはしていたが、若干硬い地面に激突したことは拭えない事実であって。
思った以上の声が胃袋から吐き出されたのも、言うまでもない。
そして、それが伝わってはいけない相手にまで伝わった緊張感が、倒れてからスローモーションになった世界で天ちゃんの脳内を侵食した。
『ぶごっ!』
息を吸い込み、吐き出した音だろう。
それが天ちゃんにまで聞こえてきた。慌てて、木々の間から迫ってくる巨体を確認できれば、立ち上がる動作はスムーズである。
しかし、打ち付けられた痛みに体の至る所があってないようなものだった。
(やばいやばいやばいやばい!)
焦った天ちゃんは、そのまま突進してくる猪の対角線になるよう逃げてしまった。直線での動き、猪の正面から伸びている行動線の延長に自分がいてしまっている。
そんなことに気づくのなんて、今の掻き乱された天ちゃんには無理な話だ。
今すぐにも泣けば許してくれないだろうか。
頭を地面に擦りつければ見逃してくれないだろうか。
もしくは、いきなり喋ってくれて友好的な種族だと誤解をといてくれないだろうか。
「そんなことあるわけないよ!」
楽観的希望を吐き捨て、脳内リセットを図る。
木々の隙間をなるべくジグザグになるよう道筋を選んでいるが、追いつかれるのは時間の問題である。
(考えろ考えろ! このまま逃げ続けてもどうせ跳ね飛ばされる!)
既に敵意を抱いた獣は、しつこいほど追ってくる。
特に背中を見せた相手を許すほど、生易しい世界に生きていない。殊更、強調すべきはあの猪は縄張り争いに負けた個体だということだ。
凶暴性を増し、凶悪性を抱いて、自分のテリトリーを守るのに命を賭ける存在であること。
天ちゃんが不意に後ろを見れば、血に染まった眼光が来ている。
「どうすればいいんだよ!」
諦めてしまおうか。
そんな後悔と一緒に奈落へ踏み出そうとした瞬間。母親との思い出が、走馬灯として壮大なBGMと共に流れ始めた途端。
『木に登ってみな!』
まるで天啓のように、脳内に流れた言葉の通り。
目の前の木に抱きつき、丈夫かどうかも不明な枝を掴んでは無理やりにでも登っていく。
運が良かったのは、小学二年生の身長でも届く位置に頑丈な枝を備えていて、猪が登ってこられないほどの背丈を有していた木に登れたことだろう。
二本目、三本目と必死によじ登り、猪の『ぐぎゅる』という唸る鳴き声がしてようやく、天ちゃんは真下を確認できた。泣きそうな、汗だくな顔で。
二メートルほどの高さにきて、なんとか見下ろすことができた。
「……は、っ、はぁ」
ここでようやく、一息つけた。
そう思った。
そう思っていた。
天ちゃんは、これで猪が諦めるまで木にしがみつけばいいと、安堵していた。
天の声に感謝もしていた。急に降って湧いた言葉の通りにすれば安全だと、神様はいるんだと勘違いしていた。
実際にいたのは、腕のない仙人みたいな剣士だ。
「よう、大変じゃったの」
猪の背中へいつの間にかヤンキー座りしていた参鬼は、口から下駄を鳴らす。この独特な音は参鬼の笑い声なのだが、興奮状態の獣の背中に乗ってすること状況ではないはずだ。
「参鬼さん! 危ないよ!」
「危ないじゃと? どこが」
「い、いや、猪に近づきすぎたら駄目だって……!」
「童よ。勘違いしとらんか。わっちが、これまでここで生活していて、猪に出会ったことがないとでも思っとるんかね。山奥での生活がたった数日の素人だとでも思うんかね」
いや、だって、と言いかけた天ちゃんの声を封じ込めたのは、猪の呻き声を合図に行われたジャンプである。
全身の筋肉を余らせることなく飛び上がったのは、背中に乗っていた参鬼を振り落とすため。
実際、その素振りが――筋肉へ流れる血流に若干の変化と微細な筋肉の運動を見て、参鬼は体勢を崩されないよういち早く脱出をしていた。
「所詮、畜生よな」
そう言い残すと、参鬼は乱暴にも飛び上がった猪の背中へ、右脚を突き立てる。
回し蹴りでもない。
ただ、蹴飛ばすように足を向けると。
「『蛇尾』」
そうつぶやく。当たり前のように。それでいて、残酷と冷酷な音で。
その残虐なイメージを受けたからだろうか。
天ちゃんが瞬きをするよりも早く、足の一撃――ただ猪の背中へぺたりと足裏を張っただけなのに、猪の体は吹き飛ばされた。
それも、天ちゃんのよじ登った幹に全身を打ち付けるほどに。
猪の声にならない悲鳴が無常な響きとなったほどに。
決定的なダメージとなったのだろう。頑強な樹木に打ち付けられた猪は、起き上がることなく、地面に伏せる。
そこでようやく、天ちゃんは恐怖から解放された。
だから、だろう。
(あれが、参鬼さんの技……!!)
参鬼の技を初めて見た天ちゃんは、感情の昂りがこれまでの恐怖を上回る。
上回って、敬意と、尊敬と、畏怖を連れ立った。
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