第122話「長虫弁天7」
夏休み。
小学生にとって、その響きがとてつもない開放感と魅惑な輝きを秘めていて。
親にとって、その響きは三食から遊びの面倒を見なければいけないからと絶望感漂うものであるわけだが。
長虫弁天こと天ちゃんは、そのうちの一週間から二週間は、参鬼の家宅にて面倒を見てもらえるのだから、送迎や何かあった時すぐにでも動けるよう気をつけていればいいので、母親も気が楽であった。
「ほな、一週間後の同じくらいの時間でお願いします」
出迎えをした参鬼はぺこりと白髪の頭を下げる。
山奥にあっても、この夏の暑さはどこも変わらないようだ。猛暑に次ぐ酷暑のせいで朝早く到着しても、蒸し暑さでの苦しさは緩くなっているわけでもない。
母親は垂れ落ちる汗を予め持ってきたタオルで拭う。
「はい。あの、何かあった時はすぐに呼んでくださいね」
「はい、もちろん。何も無いよう努めますから」
「後……ちゃんと電話掛けられますよね?」
「舐めてもらっちゃ困るんじゃがな」
突然砕けた口調は、参鬼の心情と周りの反応から漏れ出た感想だろう。
しかし、彼が真っ青な作務衣から取り出した――両腕のない彼が、どうやってズボンのポケットからそこはかとなく重い真っ黒な電子端末を取り出したのかといえば、参鬼の袖が両腕の代わりを務めるようにスマホを眼前まで持ってきたのだ。
マジックだろうか。それとも、両腕はしっかりとあるのだろうか。
しかし、母親がどこからどんな角度で見ても、参鬼が隠しているだろう腕は見えない。
だから、気にしないことにしたのだ。
「ほれ、ここのマークを押して電話帳からあんたの電話番号選べばいいんじゃろ?」
「はい、合ってます。さすがに慣れましたか」
「これでもわっちも若いんじゃけどな。皆見た目で判断しおってから、油断しすぎじゃろて」
「……ちなみに、何歳なんですか?」
「言わん」
聞かなければ良かった。そう言いたげな、呆れた目を相変わらずの下駄が鳴るような音を口から出しながら笑う参鬼。
「まぁ、他人のお子様を預かるわけじゃから。ちゃんとせにゃ、顔向けできんからの」
「顔は見えませんけど」
「わっちは見えとるからいいんじゃ」
押し問答というより、暖簾に腕押しだろうか。ああ言えばこう言うの実例が見えたからこそ、母親は刀道の名家といえど、癖が強いのはどんな時だろうと変わらないのだと、一人納得する。
そんなこんなをしていると、着替えやら詰め込んだキャリーケースを、参鬼宅に運び終えた天ちゃんが玄関からやってくる。
「母さん運んだよ」
「ありがとう。じゃあ、参鬼さん、よろしくお願いしますね」
「任せてくださいな」
母親は成長していく我が子の姿を少しでも見たい気持ちにケジメをつけ、白色のワンボックスカーに乗り込む。
中はエンジンをつけたままにしていたお陰か、涼しい。
そして、寂しい。
「あ、水分をちゃんと取りなさいね」
「分かってるよ」
「好き嫌いしないのよ」
「多分しないよ」
「ちゃんと参鬼さんを頼りなさいね」
「うん」
後ろ髪を存分に引かれ、それでも子どもの歩みを引き止めてはいけないと決心して、母親は来た道を帰っていった。
うだるような暑さ。照りつける陽射しは、この世の全てを憎んでいるかのようでもあった。
その中でも、流れ落ちる汗を下品ながらも服の腹部分で拭い、見送る天ちゃん。
少しは寂しがっているのだろう。
瞳は、予想していたけど想像以上だった悲しさを宿していた。
「ほんじゃ、朝早くて疲れたろ。少し休むか?」
「ううん。何かできることない?」
「できること、ね。いいんか?」
質問に質問で返す参鬼。しかし、その声は悪戯っぽくもあり、恐ろしさもあった。
どちらにも聞こえるし、どちらかにも聞こえる。
無論、天ちゃんには恐ろしさが増して耳に届いてきた。
「負けたままは嫌だから」
「ほっほ、偉いの。ほんじゃ、動きやすい服に着替えてこい」
それまでの家族と一時的に離れたことを思いやっていた気配はどこへやら。
ふんわりとした声音は、ピシッと張り詰めたものへと変貌した。
言われた通り、ダッシュで天ちゃんは参鬼家の置いておけと言われた場所へ向かう。真っ白なキャリーケースは子どもが引き摺るには大きく、重いものだったろう。
横向きに休んでいたその箱のチャックを開け、中から体操服を取り出す。
すぐに取れたのがそれだった。
他に入っているのはパジャマと今まで使ってきたユニフォーム達だけ。
それ以外は必要ないと、天ちゃんは置いてきたのだ。
「遊びに来たんじゃないから」
改めて宣言することで、自分の抱いていた恐怖を追い出す。弱った心を叩き直す。
初めて負けたスポーツ。それが刀道で、今後負けたくないからと修行に来た。
そんな天ちゃんは素早く着替え、外で薪を割っていただろう参鬼の元へと戻る。
「着替えてきたよ」
「おう、ほんじゃこの裏手の山が見えるか」
指差す――ことなど、参鬼にはできないので、顎で示したのは先程天ちゃんが出てきた家の裏。そこから数メートル足らずで斜面が続き、大きな山を作っている。
山脈ほどではないにしても、山登りするのならそこそこキツイだろう存在だ。
それを上から下までを眺めて、天ちゃんは少し嫌な予感がしてきた。流れる汗にヒヤリとしたものが混じる。
「もしかして……」
「察しがいいかの? あの山のてっぺんまで登って、ここまで戻ってこい」
さも当たり前のように言い切った参鬼は、中断していた薪に手を出す――作務衣の袖を伸ばす。
「それだけ?」
「今はそれだけじゃな。まずは、どのくらい体力があるのか。持久力やらを見にゃいかん」
「見にゃ、て。見にこないのに?」
「童が登って降りてくるまでが、重要なだけじゃ」
それ以上言うつもりはないのだろう。袖に掴んだ薪へ、これまた器用に――不思議にも絡めとった土と泥汚れを纏わせた手斧を振り下ろす。
一発で。それもカコンと気持ちのいい音を響かせて、真っ二つにした。
その光景に、天ちゃんは少しばかりの不機嫌を頬へ詰め込み、言われた通りの裏山へと目を向ける。
小学二年生には、とてつもない大きさだ。
緑の輝く木々は涼しげなように見えるが、これからどんどん気温は上がっていく。例え、木陰になっていても心地よいものじゃないはずだ。
それに、山の中を走るなんてやったことがない。
ウォーキングだろうと、ランニングだろうと、斜面と凸凹の獣道を進むのは結構な消耗を強いられる。
(ぱっぱと行って、帰ってこよう)
そう判断できるほど、小学二年生にしては思考力の高い天ちゃんだった。
しかし、踏み出して数分。いざ、登り始めて数分で、軽薄な啖呵を切ったことへの後悔でいっぱいになった。
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