第120話「長虫弁天5」
攻め手のなかった長虫弁天こと天ちゃんにだって、無謀を捨てていたわけではない。
考えていたことは無駄でなかったわけでもない。
今までの経験があるのならば、それを活かすのも一つである。
そう決心した天ちゃんは、そのまま木刀を真上にまで向けて、駆け出す。
「上段ね。様子見にしては、落第じゃね」
天ちゃんの駆け出した速度は、そこそこの素早さがあった。それこそ、ちょこまかと走り回る小学生の中でもトップクラスのすばしっこさである。
しかし、それでも数メートルの距離を詰め切るには時間が掛かる。
なにより、相手は余裕綽々の威圧を放っているのだから、対処することは簡単な話だろう。
あえて、天ちゃんの上段からの一撃。上から胴体目掛けて下ろした切っ先。それはすんでのところ――いや、ギリギリな回避に見えて、悠々とした所作で躱された。
「いいか。そういう時は上段じゃなくて、一文字斬りとか、横に斬られ。相手を後ろへ下がらせる一撃で様子を見られ」
下ろした木刀が地面への着地を果たす。
ジーンとした痺れが天ちゃんの腕を抜けて、脳内まで震わせた瞬間。閃いたのだ。
咄嗟的なものだ。だから、できるかどうかの自問自答を繰り返す。
このまま、手を離せばどうなる?
ちょっとだけ、衝撃に任せて浮かび上がる。僅かに上方向へ持ち上げれば、もっと上がる。
相手はどこにいる?
目の前、僅かに右前かな。
駆け出した足に余力はあるか?
ある。なら、できる。
手を離せと囁きに唆され、両手を解放する。そして、天ちゃんは少しでも体勢を安定させるために。勢いを乗せるために、大振りに両腕を開いて、振る。
「……!」
踏み込んだ右足に力を込め、応用させる。
重心の移動が露骨だから、きっとバレているかもしれないが、やってみる価値はある。
左足を浮かせ、不格好かつ体勢を崩しながら、それでも標的である浮かび上がった木刀に目掛ける。
参鬼の表情は豆鉄砲を食らったように面白い顔をしていたが、そんなことよりも肋骨付近の痛みだ。脇腹にかけて、肩甲骨辺りも筋肉の悲鳴が聞こえてくる。
それでも、天ちゃんは木刀の柄へ左足の甲の一撃を加える。
「舐めとったわ!」
大声を出した参鬼は、急加速した木刀を躱すことは不可能であった。
そうであった。
木刀に触れて天ちゃんの勝利だったはず。なのに、参鬼は躱すことなど考えていなかった。
母親が見ても、決定打に違いない。
傍観者の誰もが天ちゃんの勝利を確信したはず。
しかし、木刀が参鬼に触れることはなかった。
「え、ずる!」
体勢の制御ができず、地面に両手をついてしまった天ちゃんが目撃したのは、自分の勝利ではない。
面食らった参鬼が、悔しさを白髪の影からのぞかせる姿じゃない。
彼の作務衣が――両腕のない彼の暖簾が、木刀を絡みとっている。宙ぶらりんとなった木刀は、一切参鬼へ触れることなく、人質となった姿である。
「ズルとはなんじゃ、わっちは作務衣を使っただけに過ぎんぞ」
「だ、だって、そんなの言ってないじゃん!」
「それが童の負けた理由じゃろ。わっちに両腕がないからと甘えた結果じゃろうて」
どうやって木刀を籠絡したのか不明なものの、ポイッと天ちゃんの目の前へ落とす。
からん、と乾いた音は情けなく、申し訳なさそうでもあった。
「ほな、わっちの勝ちじゃな」
「…………っ」
認めたくない天ちゃんは、地面に顔を向ける。
誰にも向けられないから、そこを見るしかないのだ。
しかし、そんな天ちゃんの前に影が落ちる。
「ほんじゃ、初めて負けた感想は?」
「………………くやしい」
「それだけか?」
「…………っ」
ぐるぐると巡るのは、今まで基礎ができていて応用さえできれば無双できた過去。
今回も、それができれば意表をつけて勝てる見込みがあった。
なにせ、手加減されていたのだとすれば、相手の想像を一瞬だけ上回ればいけたはずなのだ。
しかし、それができなかった。
通用しなかった。
それは参鬼の言う通り、甘えた結果なのだ。
今までの自分のツケが回ってきただけだ。
だから、歯を噛み締める。土を噛みたい。鉄臭い香りが、自分の悔しさを尖らせてくる。
「……次は、負けない!」
「よし、ほな教えちゃるか」
心配そうな母親へ向けて、仙人は見えない顔をくるりと回転させる。
決して、表情など読めない。
声でしか判断できない腕のない剣士。
作務衣で飛んできた木刀を絡みとった奇怪な武士。
そんな彼が、笑ったような顔をした。
「お母さん。わっちがこの子を刀道の道へ進めてもいいですか?」
そこから、長虫弁天のやりたいことが本当に見つかったのだ。
母親と話がしたいからではなく。
母親に喜んでもらいたいからだけじゃなく。
自分が勝ちたいから。
負けたくないから。
初めて負けたことを、後悔したくないから。
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