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第117話「長虫弁天2」


 長虫弁天こと天ちゃんの母親は、ボルダリングの選手であった。壁に縛られた課題を達成することや、今までできなかったものができるようになった充実感。なにより、目の前の壁を前にして、思考と筋肉をフルに活かし、一人で立ち向かうことが好きだった。

 誰よりも早く登り、ゴールへ両手を添えた瞬間に、とめどない汗が一気に蒸発する感覚が、なんともいえない感動を巻き起こした。

 そんな母親が。選手が。

 愛する我が子のしたいことを、探すのに惜しむ理由などない。

 ただ、自分自身の夢と。諦めた決意を、子どもへ重ねてはいけないと肝に銘じていた母親は、ボルダリングを勧めることを一番最後に持ってきていた。


「おたくの子どもさんはね。フィギュアやってもいいけどね。どうにも、難しいかもね」


 体験レッスンという形での時間を過ぎ、コーチらしきまだ三十代の男性と向き合って言われたのは、そんな無責任な発言だった。

 理解力を置き去りに、突き放す威圧。

 それらを感じながらも母親は、背中の冷や汗を無視した。


「せ、先生。それはどうして……?」


「簡単ですね。この子はできすぎるね」


「……それはいいことじゃ」


「いいことだけどね。良くないとは言っていないよね」


 哲学的な話だろうか。

 ただ、コーチの眉毛がずっと曲がっていることから、()()()()()()なのは間違いない。


「この子、ね。まだ五歳でしょ」


「は、はい。もう少しで小学校に行きますけど」


「そんな子てね。真面目にするのって珍しいのね。続けることより、興味や好奇心を優先する傾向にあるわけね。それが当たり前だと、僕も思うわけでね。間違っていないのだよね」


 適当に買ってきたブラックコーヒーを飲み干して、とてつもなく苦くて不味そうな顔をする男性コーチ。


「買ったの間違いだったね。カフェオレで良かったね」


「……は、はぁ」


 個性的だ。

 母親が率直に思って、出会いから今までを考えても、なかなか出会えない人物であることに、銘じた肝を冷やす。


「こういう、間違いをね。人は繰り返すわけね。例え、大人だろうが、誰であろうとも。けどね。その子、()()()()()()()()


「……ま、間違えない、とは?」


「そのままの意味ね。例えば、こうやって滑りなさい、と教えたとするね」


 男性コーチはそのままテーブルに指を二本突き立てる。氷上に降り立った白魚は、ゆっくりと足に見立てた指を動かしながら母親の前まで進む。


「この子は、教えたらできちゃうのね。そこに掛かるまでの時間なんか一切関係なく、教えたらできるのね」


 氷上でステップを踏んだ指先が、少し偉そうに反り返る。

 だからだろうか。少しだけ憤りを感じるのは。

 ……それは、誰に対して?

 浮かび上がった疑問に、母親は明確な答えを出せない。


「それってね。この子にとって、良くないこと、だと思うのね。失敗しない、できないことなんかない。挫折も苦難も困難も、苦境でさえも関係なく、順風満帆な歩調で進むのなんて、淡白で味気ないじゃないのね」


 嘆息気味な男性コーチの言葉。

 それは今までにないくらい、贅沢な悩みだっただろう。

 誰もが望んで、それでも手放したものだっただろう。


「だから、この子に教えるのは僕じゃ力不足なのね。失敗しないのが成功だとは言えないし、なにより。

 挑戦者に教える方が燃えるのよね。僕らも、選手も」


 母親は、沈みきった気持ちに納得した。

 自分自身もそうだ。

 選手である以上、ライバルはもちろんいる。

 別に誰かが決めたわけでもないし、誰かの許可がいるわけでもない。自分が決めて、それに立ち向かうためには相当な時間と努力を必要とする。

 それは決して、楽しいものじゃない。

 楽しいばかりのものじゃない。

 だけど、それは失敗の選択肢じゃない。

 人生においての失敗があったとして、努力を積み重ねること――諦めない選択をとったことは、失敗なんかじゃない。例え、それで結果が振るわなかったとしても。

 飲み込んで、胃袋に入れるだけの覚悟が手に入る。

 だったら、天ちゃんはどうだろう。

 失敗しない人生。それも悪くないことに違いない。思った通りに成功して、達成感を得て。最終的に薄味な諦観を設計した時、それは成功と呼べるのだろうか。


 選手は、それだけのために、人生を賭けるのだろうか。


「……っ。先生は、失敗したことはありますか」


「あるね。今もカフェオレを買えば良かったな、て。失敗したなって思ってるね」


「そ、そうじゃなく――」


「後ね。オリンピックで活躍しなければ良かったとは思っているね」


 衝撃が母親の脳内を揺らす。

 なんと言った。


「お、オリンピックで?」


「そうね。何回か出場させてもらって、思ったけどね。僕、挑み続けている方が良かったなて思うのよね。なにせ、上になったところで、次は何を目指せばいいのか分からなくなったのよね」


 連覇。

 連勝。

 目指すものはいくらでもある。

 しかし、男性コーチはそうじゃない。


「今まで出来なかったことを褒めてくれた声は、出来て当然に変わった。オリンピック選手だから。メダリストだから。ていう言葉が余計な顔を出してくるようになってきて、練習がてんで面白くなくなったのよね。そこで気づいたのよね。

 僕、出来なかったことが出来るようになったのを認めて貰いたかったんだ、てね」


 それは子どものようであった。

 テストでいい点を取った時のように。乗れなかった自転車へ乗れるようになった時みたいに。

 彼の原動力は、熱烈な賛辞でもなかった。

 個人として、見られたかっただけなのだ。


「だから、僕はその子へ教えることはしない。本来、コーチというのは、生徒と一蓮托生。お互いの死力を尽くして、成長していく、二人三脚なわけだからね。少しでも、息が合わなければお互いにとって、いい演技もいい関係も構築できないのね。だから、教えられないのよね。僕は、その子に勝ちたいて思っちゃうから。

 コーチとかいう教える立場にありながら、既に負けている状態なわけなのよね。

 それって、良くないからね。

 だから、その子へ教える人がいるのなら、それは圧倒的に長虫弁天を負かせる人じゃないのと難しいのね」


「……」


 心臓を締められた感覚がした。

 母親の冷えきった指先は、擦り合わせても温もらない。

 そこまで、我が子が強いとは、誰が考えただろうか。

 ましてや、母親と話がしたいだけの五歳が、そこまで言わせるだけの才能を有していた、だなんて。

 真っ白になった脳内で、純粋な疑問を口にする。


「……何がいいんでしょうか。この子にとって」


「それは、その子が考えることだと思うけど……そうだね。そういえば、最近、刀道ていうスポーツが人気みたいだし、それもいいんじゃないかね?

 まぁ、比較的新しいスポーツだから、最初にボルダリングとか試してみて、それでも合わなそうだったらやってみる、みたいな気軽な感じでいいと思うけどね」


 刀道。

 母親は、時折流れてくるニュースが記憶の引き出しから飛び出てくるのを眺める。

 そういえば、あった。

 あったけど。また天才だとか、教えられないとかで断られたらどうしよう。

 そんな不安が脳裏をよぎるも、慌てて振り払う。

 天ちゃんがしたいと思っているのなら、それをサポートしてあげないで何が家族だろうか。

 母親は未だプルタブすら起こしていない缶を握り、今後の行く末に祈りを捧げた。

いつも読んでくださりありがとうございます。

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