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千鶴子の日記  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

土岐明調査報告書「千鶴子の日記」8


十二月十二日


 またしてもわたしは、ずるずるべったりで、彼とレンブラントとオランダ絵画巨匠展を見に行った。どんな絵があったか、ほとんど覚えていない。そして、あなたが、どんなことを話したのかも。

 もう、あなたの機知に富んだ会話は、わたしを興奮させない。かつては、あなたのラ・ロシュフーコの『箴言』や芥川龍之介の『侏儒の言葉』を思わせるような警句が異様に新鮮に感じられ、それだけでうっとりとしたこともあった。

 喫茶店の片隅で、唯物史観とは、史的唯物論とは、マルクス主義とは、近代経済学とは何かを語るあなたの声に酔うこともあった。半年前のあなたを、わたしはひょっとしたら愛していたのかもしれない。

 あなたの家に電話をして、あなたのお母様に取り次いでもらえなかったとき、わたしは真剣ではないが、一瞬、自殺しようかとも思ったほど。

 あなたからの電話だと母が私に告げるとき、わたしの胸は無性にときめいたものだった。でも、いまはもうだめ。あなたは、女というものをあまりにも知らなさすぎる。

 ガール・・・それは、新鮮なぱさぱさしたレタスのような味。よく笑うけれども、泣き虫で恥じらいもなくよくしゃべるんだけど、男の人の前では意識の塊。前髪の形、洋装の映え、肌のつや、・・・そんなことばかり気にしている。たとえば目の開き具合は、どのくらいが一番かわいらしく見えるのか、前髪をどの程度、額にたらしたら、愛らしく映るのか、顔の角度はどの方向がもっとも整っているように見えるのか、そして、唇の結び加減は、どのくらいが愛くるしく映るのか・・・限りがない。男の人の前に出たとき、ふと、うつむいて赤くなることもあるけれど、これも計算のうち。普段は、あけっぴろげにしているけれど、いざとなるとつつしみ深くなっちゃう。手を握られることを、さも恐れているかのように装うのも、ひと苦労。ダンスの時いかにも仕方がないといった風に何げなく手と手を重ねているけれど、映画館の暗闇で気持ちを込めて熱く握られると、声も立てずに処女を奪われるかのような大げさな驚き具合をみせる。これも演技の一つ。でも心は、まるで目隠しをしたギリシャ神話の女神テミスやローマ神話の女神ユスティティアが掲げている天秤の針のように敏感。相手の表情のちょっとした動き、言葉の抑揚、手の動作・・・そんなことにも地震計の針のように心を動かす。相手が何も企んではいないと察知すると、ちょっと落胆して、心のつぼみをさっと開いてあげる。相手がちゃんとした恋人にしようとすると、うれしいけれど急いで固く観音開きの扉に鍵をかけたがる。そう、ちょうど春の野で、

「夏になるまで咲いていたい!それまで摘まないで!」

と哀願する花に似て、もう少し自分の美しさを、多くの男の人の持っている湖水の鏡に、ナルシスのように映していたいと、周囲の人々にさわやかさを振りまきたいと、そして、一人でも多くの男の人に慕われたいと、そうやって、

「でも、でも、でも」

と繰り言をいう。頬にキスされても、あまりうれしくない。だって、頬は、あまり感じないから。いたいけなガールという花は、夏になるまでミツバチのように、自分の花園に迷い込んだ男の人の中から、見目麗しい王子様を探そうとする。だから時々、宝塚にあこがれて、男の子に身をやつすことに度外れた興奮を覚える。そして、どういうわけか、男装の麗人になって、美しい女性に抱かれたり、かわいらしい女の子を抱きしめたいと思うこともある。だけどそれは、とっても純でかわいらしい男の子。やがて、ガールは、強くたくましい王子様に激しく愛されたいと願うようになる。そして、次第にガールではなくなる。

 レディ、それは、とろけるような柔らかな蜜の味。お風呂で自分の体を洗う時でも、『長恨歌』の楊貴妃のようにうっとりするようななめらかな凝脂の塊。本当はとてつもないおしゃべりのくせに、好きな男の人の前ではすまし顔で、今まで笑っていたかと思うと急に大声で泣き出す。そう、自分で自分がよくわからない。二人で街を歩いているとき、ふと強く抱きしめられたいと思う。離れているときは、不意に会いたくなり、無性に声が聴きたくなる。

 彼が言っていたけれど、女の人の心理はほろ酔い気分だって。そう、そういえないこともない。たとえば、甘美な音楽、とろけるような甘い調べ、男の人のソフトな低い声、紅茶にたらしたブランデーのほろ苦さ、ソファーの柔らかなクッション、まろやかな照明、髪をもてあそぶ手の愛撫、・・・そんな他愛のないものに、自分で自分がどうにもならないほどに酔ってしまうことがある。日頃は、とっても慎み深いんだけど、いざとなったら命を懸けて(もちろん、表面だけだけど)、

「すてないで!」

とわざとらしく出ない涙を絞り出そうとする。『放浪記』の林芙美子のように泣きたいときに思いっきり泣けたらどんなに幸せだろう。本能的に、男の人が女の涙に弱いということを知っている。だから、男の人を困らせようと思うと、ひとりでに涙が眼にあふれてくる。ダンスの時は、不満げに、レイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』のドルジェル伯爵夫人のように、手を取られても知らん顔をしているけれど、音楽会の帰り道、東京文化会館の奥の葉陰で好きな人に手を握られると、一瞬、手を引き込めようとするけれど、本当は放してもらいたくない。ちょうど、ヌムール公を遠ざけようとするが、いざ遠ざかってしまうと失意の涙にくれるクレーブの奥方のように、女の心は裏腹。男の人の心理は丸見え。

 相手がなにも企んでいないと気落ちしたり、安堵したりする。そして、自分に魅力がないのかしらと首をかしげて鏡に見入る。相手が、強引に恋人にしようとすると、瞳をつぶって心を開く。そう、ちょうど、夏の野で、

「秋になるまで咲いていよう。秋になったら実を結ぼう」

とする花に似て、

「今こそ自分の美しさを、相手の瞳に映そう」

と、周囲の人々に媚を振りまきたいたいと、そうやって、徐々に人生を充実させる。頬にキスされると、

「唇にも」

と、ひそかに祈る。そして、秋になる前に王様を探し出そうとする。だから時々妃を装う。でもやがて、それは王様のものになる。そして、望むと望まざるとにかかわらず、実を結び、種を宿し、しだいにレディでなくなる。そこで、歌が生まれる。


  パヴロフの恋人


 「みなさん。イワン・ペトロヴィッチ・パヴロフをご存知ですか

  そうです。条件反射でノーベル賞を貰った人です。

  僕はかつて彼の恋人に 恋をしたことがあったのです。

  彼女は僕に十分気があると思っていたのですが」


  君は まだまだ 青い トマトの 味さ

  見ただけで 唾を 飲み込みそう

  僕の 目の前で 顔が 赧く ならないかい

  髪の形 洋服の色 肌の艶

  君は そんな事 ばかり 気にしてる

    僕の ためなら 嬉しいけれど

     でも 君は パヴロフの 恋人

   僕の ためだと 思いたいけど でも 君は パヴロフの恋人

  君は よく笑う けれど 泣き虫 なのさ

  見ただけで 抱いて あげたくなる

  僕の 目の前で 胸が 熱く ならないかい

  首をかしげ 前髪に触れ 頬に笑み

  君は そんな仕草 ばかり 気にしてる 

    僕の ためなら 嬉しいけれど

     でも 君は パヴロフの 恋人

   僕の ためだと 思いたいけど でも 君は パヴロフの恋人

    子犬 みたいに 可愛いけれど

     でも 君は パヴロフの 恋人

   僕の ためだと 思わせぶりな そう 君は パヴロフの恋人


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