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千鶴子の日記  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

土岐明調査報告書「千鶴子の日記」7



十二月十二日


 今日、彼と銀座の画廊に行って、彼の友達の個展を見た。銀座はあまり好きなところではない。わたしは、無秩序で殷賑で、はかなくて、単純で、ぶしつけなイルミナシオンが嫌いだ。濃い化粧の女、幻惑させるような雰囲気、薄っぺらな表層的なインテリアが嫌いだ。

 でも、裏通りはそれほど嫌いでもない。貧乏画家が、美術大学の学生が、映画俳優や有名人の似顔絵を並べて売っているような角を這入れば、銀座の街の持つきらびやかなとげとげしさや鼻先が凍り付いているようなよそよそしさから解放される。

 彼が不意にわたしの赤いオーバーの二の腕を引いて、私の足を止めた。彼が私の体に触れることはめったにない。だから私は一瞬ぞっとした。彼は、私のその様子を察知してか、笑って私のおぞましそうな様子から受けた心の波紋をごまかそうとしていた。彼は、ふいに足を止めたペイブメントから、洋装本のショーウンドーの中にある大きな鏡をのぞき込んでいた。私の顔を彼の顔が、その鏡の中で出会うと、彼はわけもなく笑った。彼の笑顔には、少しあどけなさが残っている。それは、少年よりも子供を感じさせた。彼の表情、それは、何か妙なものを漂わせていた。私は彼の横顔を一瞬盗み見た。そのとき、笑っていたはずの彼の顔は、ミケランジェロのモーゼのように険しくなっていた。もう一度ショーウンドーの奥の楕円形の鏡に目を移すと、やはり彼は笑っていた。再び、彼の横顔を盗み伺おうとして、視線だけ、それと気取られないように彼のほうにむけたら、今度は彼の挑むような瞳に衝突した。

「なぜ、上目使いに人の顔を盗み見ようとしたのだ」

と彼の眼は言いたげだった。私は、

「年端のいかないこともを相手にしたくない」

という風に、微笑んで視線を逸らした。なんて気まずい視線のやり取りなのだろう。ほかの恋人たちのように、私たちは他愛もないことを語り、愚にもつかないことで笑いあい、互いに舌の先でなめあうような視線のやり取りはできないのだろうか。それが不可能なのは、彼が背伸びをしているから。彼は、そうやって、上から見下ろすような具合に私に対して余裕を持ちたいのだ。でも、無理。やっぱり、あなたは私と同じ二十歳そこそこの学生にすぎないのよ。

 彼は、いつものように手すらつなごうとしなかった。街角を幾度も折れ曲がりながら、そのたびに、まっすぐ行こうとする私の肩と、曲がろうとする彼の腕がぶつかった。ぶつからない時、彼は、小さな声で、

「こっちだよ」

とささやく。わたしは、それに笑って応える。

 画廊はスキヤ通りの半ポンドバターを立てたような細長い小さなビルの二階にあった。そのビルは四階建てで、恐ろしく古色蒼然としていた。塗装のところどころがはがれ落ちた風情は、戦災を免れた建物のような印象を与えた。そのビルの壁に沿って、非常階段のような鉄の赤茶けた螺旋形の階段があった。とても狭くて、上から人が下りてきたら往生しそうな感じだった。一階は、ひなびた旧弊な時計店で窓ガラス越しに店内が俯瞰できた。

 二階まで上ると、人のまばらな画廊が窓外から見えた。室の内部は皓皓としていたけれど、それとは裏腹に何か押しのけきれないうっとうしいアトモスフェアーが充満していた。あれはきっとべニアの壁とコンクリートの床のせいに違いない。粗末な額縁にくらっぽい絵が、窮屈そうにはめ込んであった。私は、ざらざらした吐き気を覚えた。そこに行く前に、彼と一緒にスイスで食べたカニグラタンのせいかもしれない。私は、

「彼と私の結末はいったいどうなるのだろうか」

と考えながら、まったくわけのわからない油絵を熱心そうに見ているふりをしていた。彼は、

「この画家はフランスのアヴァンギャルドの流れをくんでいるらしい」

などとつぶやいていたが、本当にわかっていたのだろうか。

「絵画は美の形式だ。そうとらえないと印象派もキュビズムもシュールレアリスムも理解できない」

ともいう。歩きながら、

「ぼくは、絵画を見るとき光の方向をさがす」

などと、わかったような、わからないようなこともいう。

 私は、絵を見ているような恰好をして、ときどき窓ガラス越しに、下の通りの自動車や人の流れに目を落としていた。下の通りには街路灯もなく、店舗から漏れる照明が寒そうな黄色く薄暗い影を伸ばしていた。

 彼は、その間、アルチュール・ランボーのような髪型をした友達と何かを語りあっていた。彼は、明らかに私を意識して話していた。彼は自意識のみからなる肉塊だ。脳髄だけで生きる未来人のような、自意識の化け物だ。

 彼は、私の行く手で立ち止まり、一枚の肖像画を注視していた。私が、その絵をのぞこうとすると、彼は、少し横にのけ反って、

「ねえ、これどう思う?何か必死になって訴えようとするものがあるんじゃない?」

と声をかけてきた。私はわざとけだるそうに、

「わからないわ」

と返答した。その返答が最も無難なものだった。それ以外のことを彼に言っても無駄。彼は、私に質問をする前に、周到に回答を用意しているのだから。それに、彼は、自分で回答を用意していないような質問は、そもそもしない。

「不満とか、何かを語り掛けたいとかいうことはわかるだろ?だけど、あんまり感情に走りすぎて画面がおぼれかけているよ。きたないしさ。それに筆の使い方と油の使いたかを知らないな。このタッチなんか、いかにも絵具で描きましたってな調子だろ。それから、ほら、この部分なんか遠くじゃよくわからないけれど。色が完全に死んじゃっているだろう?」

 彼は、腕を組みながら、一人前の美術評論家のように、その絵を審美した。目玉のやたらにぎょろぎょろした、憔悴しきった骸骨のようなわけのわからない肖像画のどこがいいのだろう。

「そういえば、そうね」

と私はためしに相槌をうってあげた。

「このごつごつした肩のところなんか、色が不自然で、あっていない感じね」

というと、彼は黙ってうなずいていた。それから、友達に、

「じゃあな」

とあいさつすると、階段を下りて行った。私の心は、ずっとうつろだった。生きているのでもなければ、死んでいるのでもない。ただ、存在しているだけだった。その証拠に階段を昇降した記憶はあっても、あのへんな肖像画を除いては、ほかにどんな絵が飾られてあったのか、てんで記憶していない。

 スキヤ通りには、幾組かの女と男が寄り添って歩いていた。いずれのカップルも、この世には自分たち二人しかいないような顔をしてどこへ行くともなしに、二人だけの世界を享楽している。でも、かれらのすることは、みんな同じだ。十人十色ではなく、十人一色だ。暗い所で抱擁しあい、ペッティングにふけり、やがてセックスに移行する。それがどれもこれも、揃いも揃って同じなのだ。あのカップルも、このカップルも、みんな同じことをする。

 恋!私は恋を軽蔑する。恋は、当事者にとっては、非常に大切なものであるかもしれない。いや、かれらは、そう妄信するのだ。でもほかの人々にとっては、犬や猫のじゃれあいと少しも変わらないように見える。

 どこにでもある恋、あの道端にも、この街角にも。どこにでもあるということは、あってもなくても大差ないということ。海岸の砂粒など、どこにどの砂粒があっても大勢に変化はない。その中の一粒がなくなろうと、またもう一粒増えようと、そんなことはどうでもいいのだ。本人にとって重要であろうとも、外側から見ればどこにでもあるものなのだ。この感情と認識にギャップが大であればあるほど、私には滑稽に思えてならない。大いなる田舎芝居の舞台・・・それが恋の街角だ。

 私と彼は、泰明小学校のわきを通り、晴海通りに出た。それから銀座四丁目に向かってそぞろ歩き、四丁目の交差点を渡って、松坂屋のほうに向かい、松坂屋の角を左折して、スエヒロの先の通りを右折して、マロンに行った。彼が行く喫茶店は、いつもマロン。きっと、その喫茶店しか知らないのに違いない。でもこの店は好き。二人かけられる白いテーブルが中央に三つ。それぞれのボックスの境に狭隘なホンコンフラワーの花壇がある。四人着ける白いテーブルが、朽ち葉色の壁の周縁に三つ。窓際にも一つ。形はどれも矩形。大きな窓は通りに面していて、一枚板のガラスがはめ込まれている。その内側に白いレースのカーテン。花模様が波形に歪んでいて、いい感じ。入口の右側に濃紺の鉢に植えられた低木植物がある。あの植物は、なんというのだろうか。猩々緋の唇形の花が頂に一つ咲いていた。そして、入口の左側にレジ。かたわらに山吹色のワンピースを着た女の人が立っていた。

「どう?おもしろかった?」

と腰を曲げながら彼が聞いてきた。私は答えずに、

「ん・・・」

と言ったきりだった。

 ああ、あなた、久忠君。もう、だめね、二人の仲は。

 あなた流にいうならば、二人の関わり合いは、必然性を完全に喪ったのよ。最後に、あなたにこの歌を贈る。


  トランプゲーム


  哀れな 哀れな 哀れなジャック

  クラブの クラブの クラブのジャック

  君は彼女に火をつけられて めらめらめらと燃え尽きて逝く

   別れるときの僕の切り札 別れるときに僕が贈れば

   彼女はなんにも できなかったのに

  哀れな 哀れな 哀れなジャック

  一人で恋するクラブのジャック

  君は彼女に弄ばれて 身も心もボロボロになる


  哀れな 哀れな 哀れなクウィン

  ハートの ハートの ハートのクウィン

  君は彼女に閉じこめられて 段々年をとって逝くだけ

   愛するときの僕の切り札 愛するときに僕が貰えば

   彼女はすべて 僕のなすまま

  哀れな 哀れな 哀れなクウィン

  彼女に囚われ出られぬクウィン

  君は彼女の嫉妬を受けて 今では赤い服もしわしわ


  哀れな 哀れな 哀れな僕ら

  半端な 半端な 半端な僕ら

  腕組むことも抱き合うことも なんにもせずにゲームするだけ

   愛することも別れることも どちらもせずに付かず離れず

   僕らはいつも ただの友達

  哀れな 哀れな 哀れな僕ら

  愛する振りだけしている僕ら

  手を取ることも触れ合うことも 何にもせずにゲームするだけ


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