土岐明調査報告書
土岐明調査報告書「千鶴子の日記」6
十二月
ストーカー規制法がある。「ストーカー行為等の規制等に関する法律」といういかめしい名称だ。その目的は、「ストーカー行為を処罰する等ストーカー行為等について必要な規制を行うとともに、その相手方に対する援助の措置を定めることにより、個人の身体、自由及び名誉に対する危害の発生を防止し、あわせて国民の生活の安全と平穏に資すること」とある。法務省や警察庁の官僚や陣笠代議士や選良の議員たちが知恵を絞った法律だが、肝心なもうひとつの目的が抜けている。
この法律において「つきまとい」とは、特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、特定の者又はその配偶者、同居の親族、その他、社会生活において密接な関係を有する者に対し、次の行為をすることをいう。
一 つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校、その他の場所において見張りをし、又は住居等に押し掛けること。
二 その行動を監視していると思わせるような事を告げること。
三 面会、交際その他の義務のないことを要求すること。
四 著しく粗野又は乱暴な言動をすること。
五 電話をかけて何も告げず、又は拒まれたにもかかわらず、連続して、電話をかけ、ファクシミリ装置を用いて送信し、若しくは電子メールを送信すること。
六 汚物、動物の死体その他の著しく不快又は嫌悪の情を催させるような物を送付すること。
七 その名誉を害する事項を告げること。
八 その性的羞恥心を害する事を告げ、又はその性的羞恥心を害する文書、図画その他の物を送付すること。
この法律において「ストーカー行為」とは、つきまといを反復してすることをいう。
つきまといをして、身体の安全、住居の平穏若しくは名誉が害され、又は行動の自由が著しく害される不安を覚えさせてはならない。
この法律は一貫して、ストーカーのみを規制している。「ストーカー行為」はストーカーだけでは成立しないことを見逃している。この法律だけに限らないが、刑法は一方のみを罰することを規定している。「ストーカー行為」は「付きまとわれる人」がいなければ成立しないのだ。「付きまとわれる人」は誰でもいいわけではない。ストーカーにとってその人でなければならない特定の相手なのだ。この法律は親告罪を規定するものだから、「付きまとわれる人」からの親告がなければ警察は手を出せない。
警視総監若しくは道府県警察本部長又は警察署長は、つきまといをされたとして警告を求める申出を受けた場合、行為をした者に対し、反復して行為をしてはならない警告をすることができる。
だから、「付きまとわれた人」が警察に警告を求めなければ、警察は手を出せない。でも、「付きまとわれた人」はなぜストーカーに付きまとわれるようになったのだろう。「付きまとわれる人」が存在しなければ、ストーカーも存在しないのだ。「付きまとう人間」は、その人に身も心も奪われて、已むに已まれぬ思いから、付きまとうのだ。ストーカー殺人を犯す人は、「付きまとった人」に自分を否定されたから、犯罪を犯すのだ。身も心も捧げているのに、否定されるから、相手を否定するために殺傷に至るのだ。そうしなければ、自分を否定するしかない。そうやって、自分を否定して自殺する人間がなんと多いことか。ストーカー殺人はニュースになるが、相手に否定された結果、付きまとうことを選ばずに、自らの死を選んだ場合は、ほとんどニュースにはならない。自殺も他殺も人間が死ぬことには変わりがない。付きまとうことを選ばなかった人間を死に追いやった人間は罪を問われることはない。思わせぶりで、異性を誘惑し、相手がその気になって付きまとうようになったら、
「ストーカーにつきまとわれている」
と被害者面をする。付きまとわれることを厭うのであれば、なんで色目を使ったのか。
ラクロは『危険な関係』でメルトイユ侯爵夫人という仕掛け人を創造した。彼女は、自分を裏切った愛人が処女セシルと婚約したことが面白くない。そこで、愛人への復讐のために、関係のあったヴァルモン子爵にセシルを誘惑させる。うぶなセシルはヴァルモンの手練手管に屈し、身も心を奪われる。しかし、ヴァルモンにその気は最初からない。遊びなのだ。今も、昔も、誘惑者がその気もなく誘惑し、相手の心を奪っても、罪にはならない。しかし、その結果、事件の起こることは多い。ラクロは刑法の対象とならない誘惑者に結末で罰を与えている。
ストーカー規制法では、誘惑されて、ストーカーになると犯罪だ。誘惑したほうは、罪にはならない。そもそも、誘惑さえしなければ、相手にさえなっていなければ、犯罪は起こらなかったのだ。
ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で、ウェルテルを自殺させている。婚約していたシャルロッテがウェルテルに色目を使わなかったら、ウェルテルもその気にならず、自殺することもなかったはずだ。ウェルテルはストーカーにならずに、自らを否定するほうを選んだのだ。シャルロッテはおとがめなしだ。
伊藤左千夫は『野菊の墓』で、民子を政夫の手紙と写真を抱かせたまま、産褥で死なせている。いい気なもんだ。二歳年上の民子は、政夫への恋心を自覚していた。政夫は能天気だ。民子が死んだと聞かされても平然としている。民子は望まない結婚をして、政夫への思いを胸に抱きながら、悶々として死んでいったのだ。民子はストーカーにならず、身を引き、不幸せな結婚をして、死んでいった。民子がストーカーになったとしたら、まだ学生の政夫は困ったはずだ。でも、困ったとしても、それは政夫がまいた種なのだ。伊藤左千夫は男女関係には鈍だ。『野菊の墓』を絶賛した夏目漱石も女の心がわかっていない。分かろうともしていない。所詮、男にはそれは無理なのかもしれない。有島武郎の『或る女』でも、女は描かれていない。違う性なのだから、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。そこで、歌が生まれる。
ラヴ・ストーカー
改札口で あなたを待つの
こころに ナイフを あつくだきしめて
いつものように あなたをつけて
よふけの 窓辺で 息をひそめながら
あ あなたは run away
いつでも あなたは hide away
あ あなたは heart-killer
私を切り裂いて
殺したいの 好きだから
追いかければ 逃げる
そんな嫌な 私なら
早く首を 絞めて
殺されても 愛してる
死んでからも 追うわ
だから 愛を
夜の新宿 あなたのデート
こころに ジェラシー あつくにえたぎる
けもののように においをおって
お店の 外から 中をのぞきながら
あ あなたは neglector
知らない そぶりで pretender
あ あなたは heart-breaker
私をこなごなに
あなただけを 好きなのは
私のせいじゃない
したいように 好きにして
なのになんで 逃げる
そんな嫌な 私でも
一度ぐらい 抱いて
愛が ほしい
殺したいの 好きだから
追いかければ 逃げる
そんな嫌な 私なら
早く首を 絞めて
殺されても 愛してる
死んでからも 追うわ
だから 愛を