土岐明調査報告書
「千鶴子の日記」5
十一月二十六日
物事を認識しようと思う人間にとっては、世俗の人々のすることなすことは、滑稽に映るだろう。物事を認識しようと思うことは、デカルトが、『方法序説』の最後のほうで述べているように、
「世間で演ぜられるどの芝居でも、役者であるよりも見物人であろうと努める」
こと。感受性の異様に強い人や、非常に傷つきやすい感受性を持った人にとって、こういう生き方は、現世の感情生活の鎧となるだろう。だから、ショーペンハウエルは、
「この世界を感情でとらえる者にとっては、この世は悲劇であり理性でとらえる者にとっては、喜劇である」
と高踏的なことを言うのだ。でもそのことは、一般性を持たない。妥当性を持つのは、主格にショーペンハウエル自身を置いたときのみだから。つまり、彼自身がこの世界を感情でとらえれば、彼が醜男であるがゆえに、この世は悲劇なのであり、彼自身がこの世界を理性でとらえれば、彼が秀才であるがゆえに、この世は喜劇なのである。
彼が秀才であるということは、ほかの人は鈍才であることの裏返しであり、したがって、この世は鈍才の演ずる劇になる。鈍才の演ずる劇とは、喜劇のこと。彼に従えば、恋愛とは、自然の狡猾な詐欺。男と女にとって、最大の幸福は恋愛状態にあることであるが、それは必然的に愛の結晶として子供を誕生させる。そして、自然の意思は、種族保存である。だから、恋愛とは、自然がその意思を実現するために人間の男と女に与えた狡猾な詐欺ということになる。陰で糸を引いているのはDNAだ。
ある男とある女はいずれ寿命がつきて朽ち果てるが、愛の結晶は次の命を誕生させる。それが、延々と繰り返される。男と女は浮世の幸不幸に翻弄されるが、DNAは陰でほくそ笑んでいる。連綿として生き続けるのはDNAだけだ。
DNAには善も悪もすべてが包摂されている。悪人を死刑に処して、血筋を断つことはできない。なぜなら、善人のDNAの中に、悪人のDNAが潜んでいるからだ。親が善人でも、子は悪人になる可能性がある。DNAはパンドラの箱だ。人類が存続する限り、悪人は絶えることがない。善人は単に、DNAに秘められた悪人の二重螺旋が顕在化しないだけのことだ。悪人も単に、DNAに刻まれ、畳み込まれた善人の二重螺旋が顕在化しないだけのことだ。
どの民族にも悪人はいる。なぜなら、最初の人類イヴのDNAの中に善人と悪人の遺伝子が組み込まれていたからだ。神はそのように人間を創造したのだ。
今日も、DNAに突き動かされていることを認識していない人々がうごめいている。だから、そこに歌が生まれる。
ザ・エンカ
一 男の業 女の性
だから 色恋地獄
愛憎 曼陀羅
惚れて 極楽
腫れて 往生
艶歌が 生まれる
二 日向の華 日陰の蝶
だから 嫉妬の業火
怨恨 阿修羅場
呪い 護摩壇
怨み 骨髄
怨歌が 始まる
三 勝ち戦も 負け戦も
命 傷つき般若
笑って 絶望
救い 一抹
望み 一縷を
援歌に 求める
四 その場限り 逃れる嘘
だから 素人芝居
見抜かれ 見抜いて
やつれ あやつり
舞えば 舞台に
演歌が 流れる