土岐明調査報告書
土岐明調査報告書「千鶴子の日記」3
九月末日
今日、名画座で『異邦人』を鑑賞。
かれは、アルベール・カミュの作品をたくさん読んでいて、映画の終わった後、銀座の喫茶店「マロン」でわたしに、顧客に高い商品を売りつけようとするノルマを達成できない店員のように、カミュについていろいろと説明してくれる。わたしが無知だということをしっているから、多少ハッタリがあるかもしれない。
『裏と表』に描かれているカミュの不幸な生い立ちや貧しい青春時代、レジスタンスでの暗躍、『異邦人』の大成功、不条理を説く『シーシュポスの神話』というエッセイ、『ペスト』に描かれる不条理のヒーロー、『誤解』という不条理劇、『レ・タン・モデルヌ』を舞台にしたジャン・ポール・サルトルとの論争での敗北、戦後史上最年少でのノーベル文学賞受賞(だからサルトルは後年、ノーベル文学賞を辞退した)、そして、突然の不条理な交通事故死、『反抗的人間』に描かれた反抗的な生き方、離婚、などなど。
「死後名声の高まった、ゴッホやゴーギャン、宮沢賢治や石川啄木、挫折の中で人生を終えた芸術家が好きだ」
と彼は言う。
「カミュはノーベル文学賞の受賞でピークを迎えたが、その後、サルトルとの論争に敗れて、孤立していった」
そういう人間が好きだという。
「順風満帆の人生を終えた志賀直哉や武者小路実篤はあまり好きじゃない」と言う。
「生前の三島由紀夫は好きじゃないが、あの割腹自殺で、嫌いでもなくなった」
と訳の分からないことを言う。わたしの気を引こうとしているのか。
彼の低い声、「マロン」の世紀末的な雰囲気、けだるい軽音楽、メンソールのたばこの煙、ほの暗い照明、コーヒーのほろ苦いアロマ、時折、窓外を走る自動車の低周波、・・・そういう雑多なものにわたしは酔った。
わたしは、カミュが恋人で、その恋人の死を彼が語っているのではないかという錯覚をおぼえた。
でも、現実はそうじゃない。あのとき、わたしにとって最も恋人らしかったのは、彼だった。そして、わたしが酔っていたのは、彼にだった。好きでも嫌いでもない彼にわたしは酔っていたのだ。
彼は経済学部の秀才で、様々な才能を持っている好男子、日本を代表する商社への就職が内定している。生涯所得が、わたしがいまエントリーしている企業の倍以上もある。社会人人生の始まりの時点で、所得格差が確定している。
彼はわたしの兄のようで、寛大な好意で、わたしを包んでくれる。彼の行為と寛大さは、小学校の算数のように良く分かる。豆腐やこんにゃくのように、よく噛まなくても飲み込める。彼はわたしを絶対に束縛せず、彼の自由よりも、私の自由の方を尊重してくれる。
「まさに、それが本当の愛、理性的な、知的な、高踏的な愛だ」
と言わんばかりに。
たしかに、あなたの私に対する好意は、あなたにとっては、本当の愛であるのかもしれない。あなたの望むように、私はあなたに全く煩わされることもないし、あなたを重荷と感ずることもない。
私にとってあなたはガラスのないガラス窓のようなもの。あなたは、わたしに、
「君がどうしようと君の自由だ」
と言う。あなたの言葉を借りれば、まるでサルトルが、人生の岐路で迷って相談にやってきた学生に、
「どちらを選ぼうと君の自由だ」
と言い放ったように。自分で決断できない優柔不断な学生が、
「どちらを選ぶかは君の自由だ」
と言われても、悄然とするだけだ。
わたしがあなたの申し出を拒否しようと、約束を破棄しようと、
「それは君の勝手だ」
とのたまう。
「君が自由であることが、僕の願いだ」
ともあなたはおっしゃる。まるで、終わりと始めが繋がっているビデオテープのように、あなたはいつもそう言う。
でも、ごめんなさい。わたしは、少しも自由ではないの。あなたはガラスのないガラス窓になって、
「いつでも、出はいりは自由だ」
と言い、わたしがあなたの中にいるときでも、外にいるときでも、あたかもそこに透明なガラスが入っているかのごとくに言葉をもてあそぶ。
だけど、あなたは風が吹いた時や、雨が降った時のことを考えるのを忘れている。そして、あなたは、
「君がガラスをはめ込むことも自由だ」
と言う。だけど、あなたはあなた自身でガラスをはめ込むことはしない。たしかに、わたしが自分でガラスをはめることは、私の自由を行使することかもしれない。でも、私がガラスを入れている間、その時の私はガラスを入れるという行為に束縛される。
つまり、あなたは、
「君が僕を好きになるのも、嫌いになるのも自由だ」
と言う。そして、
「君が、そのどちらでもないようにするのも自由だ」
と言う。
「時々好きになるのも、時々嫌いになるのも自由だ」
と言う。あなたの言葉を借りれば、サルトルとボーボワールの、
「会いたいときに会い、会いたくないときには会わない」
という契約結婚のように。
だからわたしは、わたしがあなたを好きになり、愛する自由を得るためには、私自身で窓枠にガラスを入れ、しかもガラス窓の内側に入らなければならない。あなたを嫌いになる時は、その逆(VICE VERSA)。そうやってあなたはその作業のすべてをわたしにやらせたいのね。あなたの言う自由とはそのこと。
あなたの論法で行けば、あなたがわたしに、
「愛している」
ということは、その言葉で何らかの形で、わたしを束縛することになるから、あなたは決して語らない。要するに、あなたは、自由という大義名分を利用して、わたしにあなたを愛しているか、愛していないかを言わせたいのね。卑怯な人!臆病な人!女々しい人!男らしくない人!
あなたには全く意思がない。デカルトのように、多くの感受性の強い哲学者のように、あなたは傷つくことをこの上もなく畏怖して、この世の中の舞台の上で、役者であるよりは観客でありたいと思うのね。あなたの思い通り、あなたがわたしに対して、一切の意思表示をせず、わたしの演技だけで出来事が進行すれば、あなたは全く傷つくことなく、無垢のまま、昔のあなたに戻ることができる。
あなたがわたしに好意を持っているのは自明のこと。そして、わたしがその好意に応じていることも明瞭なこと。でも、好意と愛とは別。あなたは過去の経験からか、よくそのことをご存じでいらっしゃる。そして、傷つかないためには、どうしたら良いかということもわきまえていらっしゃる。
あなたが求めているのはわたしの愛の告白。あなたが我慢しているのはわたしへの愛の告白。あなたがわたしに愛を告白できないのは、もしわたしがその愛を受け入れなかったらば、自分が痛手を負うから。だからあなたは、確実な保証が得られない限り、心情を吐露することはしないだろう。そして、あなたは、何とかして、わたしにあなたへの好意を披歴させようとする。その小道具として、あなたは自由を用意した。そうやって、あなたは、ガラスのないガラス窓をわたしの方に向けているだけ。
あなたののたまう自由って、なんて高尚なんでしょう。自分では決意せず、女のわたしの決意を待っている。ちょうど、サルトルが、
「祖国を守るために兵士になるべきか、それとも親孝行をするために家にとどまるべきか」
を相談に来たフランスの若い学生に対して、
「君は自由だ、選びたまえ」
といったのと同じように、あなたは、
「君は自由だ、僕を選ぶのも、選ばないのも」
とわたしを諭す。
あなたはわたしが、どちらかを選ぶことを待っている。でも、それをさやかには言わず、自由という言葉でカムフラージュしている。なんと狡猾なのだろう。あなたは、わたしに、
「あなたを愛している」
と言わせるつもりなのね。自分では何もせずに。そして、そういうことを促すように、
「もし、僕が本気で『僕は君を愛している』と言ってしまったら、それは、その言葉によって君の自由を何らかの形で束縛することになるだろう。君が本当に僕に愛されることの方が自由であると思うのなら、僕は君を愛そう。君が僕に愛されないことによって魂の不自由を感じるのなら、僕は君を愛そう。すべてが君の自由だ。でも、今の僕には、それを知る何の手立てもない。だから、ぼくは、どちらを選ぶこともできない」
とわたしにほのめかす。
でも、残念ね。あなたがいくら秀才ぶりを発揮して、石橋をハンマーで叩いて渡り、自分は絶対に傷つくまいとしていても、わたしは絶対に、自分の方から、
「あなたを愛しています」
なんて言わないから。
わたしは、ジェイン・エアのように愛するよりは、愛されたい女なの。わたしが告白しないことで、あなたは宙ぶらりんの状態に苦しむかもしれない。でも、それはしかたのないこと。一対一で選ぶのは男の方なのだから。『かぐや姫』のように言い寄る男が複数いても、選ぶのはかぐや姫でなくて、男の方なのだから。
さあ、ピエトロ・ジェルミの『刑事』のなかのクラウディア・カルディナーレのように、
「あなたを死ぬほど愛している」
とおっしゃい。そう言えば、わたしもそれを拒絶するか、受け入れるかを答えてあげるから。ただ、あなたは怖くて言えないのね。私にすげなく拒まれることが。
そうやってピサの斜塔のように、直立もせず、倒れもせず、中途半端な傾いた状態にしておいて、わたしに好きか、嫌いか言わせたいのね。さも紳士であり、人生を達観したかのような君子面をして。
本当のことを言うと、わたしはあなたを愛してはいない。あなたとわたしとの間に、どうして愛なんかが生まれよう。あなたの望むように、わたしがそう言わないのは、言いたくないからではなくて、言えないから。
あなたがわたしに、男らしく胸襟を開いて、それから改めてわたしに尋ねない限り、わたしは一言も口には出さない。そして、わたしが退屈している時だけ、あなたと付き合ってあげる。
だけど、あなたは、とても自分の腹蔵を開くようなことはするまい。だから、あなたは、永久にわたしの本心を知ることが出来ないのよ。永久にとは言わないまでも、わたしが本当に愛する人を見つけだすまでは。
要するにあなたは、暇を持て余した少女が手にする文学書のように、わたしにとって単なる消閑の具にすぎないのよ。あなたは、自分では、オフィリアを死に追いつめるハムレットのように、利口なつもりかもしれないけれど、わたしがあなたを本当は少しも愛していず、消閑のなぐさみものとしか思っていないことを見抜けない分だけ、わたしよりもおバカさんなのよ。そして、キルケゴールの、
『あれか、これか』
のように、わたしに、
「僕を好きか、嫌いか」
を問うことの出来ないチキンなのよ。
わたしは異邦人なのだろうか。それとも、ボヘミアンなのだろうか。
ボヘミアン
さようならが 私の挨拶 人の絆が 苦しくて
今日も気ままに 旅をする
なんの当てあるわけじゃない
プラットフォームに ひとり佇み やがてやってくる
夜行列車に かきたてられる ロンリネス
ああ 我ひとり 我ひとり
生まれつきの ボヘミアン 生まれつきの ボヘミアン
また逢おうが 私の挨拶 夢と希望が 切なくて
今日も線路で 星を見る
涙をくれる人もない
夢のポケットに 孤独詰め込み 片道切符を
枕にはさみ 掻き毟られる ノスタルジー
ああ 我ひとり 我ひとり
夢は孤独 ボヘミアン 夢は孤独 ボヘミアン
それじゃまたが 私の挨拶 愛の出逢いに 臆病で
今日も涙で 顔洗う
どうせ天涯孤独の身
今来た峠を 引き返そうと
異国の空に 朽ち果てようと
それが私の ハッピネス
ああ 我ひとり 我ひとり
愛は別れ ボヘミアン 愛は別れ ボヘミアン