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千鶴子の日記  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

土岐明調査報告書「千鶴子の日記」2


 九月十一日


 愛とか恋とかいうものは、それを言葉に置き換えると、恐ろしく空々しい歯の浮くようなものになる。この感覚は日本では20世紀中に失われたものかもしれない。

 たとえば、あるフランス映画で、女主人王の女友達が夏休み明けの大学で、会った途端に、

「いま、私恋をしているの!」

と叫んだ。こんなあけっぴろげな言葉は、すくなくとも、20世紀中に友達から聞いたことはなかった。

 吉田さんみたいに快活で陽気な人でも、彼女が中学生だった時に、恋愛をしていたことは、一言も口に出さなかった。

 また、烈々たる恋愛映画の中で、秀麗なヒロインがよくしなう柳のように抱擁され、接吻されながら、

「愛しているわ」

と言うとき、その言葉は、私の耳には恐ろしく空虚に響く。背骨の痛くなるほど抱擁され、上唇がまくりあがるほどに強く口づけされてるのに、なぜ、

「愛しているわ」

と吐露しなければならないのだろう。

 愛の言葉の横溢している手紙の中に書かれているのならまだわかる。でも、うつつに愛する行為の中にある最中に、その愛する行為の具象性と比較すると、どうしても抽象的でしかない言葉を発することは首肯できない。それは、

「愛し合っている恋人たち」

というのと同じこと。愛し合うという具象的な行為は、恋人たちという言葉の中に包摂されている。恋人たちだから愛し合うのではなくて、愛し合うから恋人たちなのだ。それなのに、わざわざ、愛し合っているという形容詞をつけることは、この上もない蛇足になる。だから、愛する行為をしながら、

「愛している」

といえば、その人の意識が見え透いてくる。抱擁しながら、接吻しながら、男の人が、

「愛している」

といえば、そこに不純な男の心理が介在している証左となる。

 女性の荷物を持ってあげている男の人が、どうして、

「わたしは、あなたの荷物を持って、あなたを助けてあげています」

などというだろうか。

 でも、アイラヴユウやジュテームやイッヒリーベディッヒなら別。この言葉は、米英仏独の恋人たちが、まるで、朝昼晩の挨拶代わりに使うから、言葉というよりは、接吻するときの溜息に近い。紅毛碧眼の恋人たちは、熱い接吻をして息切れ、呼吸を整え、愛撫をしながら、次の接吻に移る間のマを持たせるために、そういう。

 昭和生まれの日本人は、あまり感情を言葉にしないし、しないほうが美徳とする趣を未だに持っている。だから、愛する行為のさなかで、

「愛している」

と言うのは、おかしく聞こえるのだ。あたかも、第一幕の登場人物が語る必然性もないのに自分の身の上を滔々と語るように。

 日本語の「愛」は、ラヴという英語よりも、より観念的な意味を持っている。直江兼続が兜の前立に、「愛」を用いたのがいい例だ。「愛」にはエロス的なものよりも、プラトニックな語感がある。だから、忍ぶことを前提とするプラトニックな「愛」という言葉を人前でみだりに多言すると、その「愛」という言葉がプラトニックな意味合いを失い、発せられた言葉と、日本語として、その言葉が本来持っている言葉との間に、おびただしい乖離が生じ、ひどく滑稽なものになる。

 日本語の「愛」は心の中で発せられる。なぜなら、プラトニックであることは、『狭き門』のジェロームとアリサの関係のように、秘められていることを条件とするから。その限りにおいて、「愛」はその人、個人のものになる。

 愛する女が千人いれば、千通りの「愛」という言葉が生ずる。それぞれの言葉は、それぞれに異なった意味合いを持っている。ある人にとっては、「愛」とは、接吻することであり、またほかの人にとっては、抱擁しあうことであり、閨房をともにすることであるかもしれない。それらの「愛」の言葉の中で、人前に出してもいい「愛」とは、悲しい愛の形だけだ。たとえば、『曽根崎心中』のお初と徳兵衛の心中愛のような。

 なぜなら、悲しい愛は、誰しもが好ましい感情を抱くものだから。ある人は、自分の愛の幸福と比較して、優越感を抱くかもしれないし、別の人は同情を抱くかもしれない。週刊誌に取りざたされる芸能人の恋愛は、悲しくないがゆえに、愛を持たない人に羨望を、愛されない人に嫉妬をもたらす。そして、有閑なる人々は、その雑誌を暇つぶしのすべにしている。

 最も悲しい愛とは、嫉妬とか、裏切りとか、姦通とかではなく、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』、『ギリシャ神話』のティスベとピュラモス、『クレーブの奥方』のヌムール公とクレーブ夫人などの間に見いだされる禁忌を伴った愛のこと。そういう愛は、口に出しても決して滑稽ではない。ちょうど、苦学生が苦学している話を口にするようなとき、同情はしても決して軽蔑や冷笑の対象とはならない。

 今日も、自然のわなにかかり、そのわなにかかったことに気づかない有象無象の恋人たちは、楽しげに安っぽい「愛」を語らう。恋人のいない若い男女は、セックスシンボルの仕掛け人のトラップに引っかかり、切ない片思いの疑似恋愛を求めてCDをせっせと買い求める。アイドルとそのファンたちは、大人たちの金儲けの道具にされていることに気付かない。こうした構図に嫌悪を覚える高尚派は、自分たちの関係に悲劇性を見出そうとする。オーダーメイドは個性を喪失させる。三島由紀夫が自分の人生をそうしたように、自分たちの恋愛を別誂えにするためには、想像を絶する悲劇が必要になる。ところが、この何事にも恵まれた平成の世には、悲劇はどこを掘り起こしても見つからない。そもそも不況なのに不況であることに気づかないことが悲劇なのだ。

 大震災のように、偶然の悲劇は、たまたまあるかもしれないが、求めて得られる悲劇はない。戦争もないし、横暴な官憲もいないし、自由な恋愛を禁忌とする風潮もない。

 ああ、これほどの悲劇があろうか。悲劇のないという悲劇ほど、残酷なものはない。塩の辛味がなければ、砂糖の甘味もなくなる。醜がなければ美もない。谷がなければ山もない。死がなければ生もない。悲劇がなければ、恋愛の歓喜の絶頂もないのだ。

 真性の愛欲というものは、肉体だけでは満たされない。いくら満腹になったとしても、味が粗悪では満足感は薄らぐ。常に空腹でないと、あまりおいしさも感じられないもの。それと同じように、熾烈な愛欲は、精神の燃焼を必須とする。同じ愛撫でも、一週間ぶりの愛撫と、連日の愛撫とでは、異なるし、ましてや好きな人の愛撫と好きでもない人の愛撫とでは歴然と異なる。このメンタルな焔があって、初めて女の唇はぬれる。

 でも、この平成の世には、熾烈な恋愛の木の養分となる滋養の禁忌がない。禁忌には確かに恋愛をゆがめる作用もある。昭和初期の、ただ陰湿なだけの恋愛がそうだ。でも、そもそも、恋愛とは人生の一つのゆがみだ。ゆがみがなくなると、男と女は、中年過ぎの夫婦のように、夜半の褥のなかで、単なる性欲の電極となるのみ。そこで、歌が生まれる。


 愛はいずこへ


 煙草は 体に 毒だから

   吸い過ぎないでと 吸いさしを

    いつも 消した あなたが

  煙を 体に 巻き 付けて

   一人にしてよと 吸いさしを

    窓の 外へ 投げ 捨てる


   たった 二年の   別れだったのに

    それは あまりにも 長すぎたのか

     Wohin die Liebe

     Wohin die Liebe

     愛は 愛は あの愛はいずこへ


 昼には 体に 一杯の

   滴に 潮の香 漂わせ

    眩しかった あなたは

  星の夜 瞳を 潤ませて

   星座の一つに なりたいと

空を 仰ぎ 涙した


   あの日 あの時 二人の回りで

   この世の 全てが 煌めいていた

    Wohin die Liebe

    Wohin die Liebe

   愛は 愛は あの愛はいずこへ

 

   Wohin die Liebe

    Wohin die Liebe

   愛は 愛は あの愛はいずこへ


    Wohin die Liebe

   ああ あの愛はいずこへ

    Wohin die Liebe

   ああ あの愛はいずこへ

    Wohin die Liebe

   ああ あの愛はいずこへ


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