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千鶴子の日記  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

プロローグ


 暑い初夏の木曜日だった。土岐は早朝、パソコンでテレビを見ながら、同じ液晶画面でメールをチェックした。おびただしい販促メールに埋もれて、調査依頼と思われるメールがあった。


@土岐明調査事務所御中 はじめまして。調査依頼のご相談です。御社については、ウエッブサイトで見つけました。詳細についてご相談したいのですが、今週末の土日はいかがでしょうか。ご返信をおまちしています。 水原昇@


 土岐はさっそく、返信した。


@Re.水原様 メールありがとうございました。週末の土曜日、午後1時過ぎ、ご自宅に伺います。住所と電話番号をお願いします。 土岐明調査事務所所長 土岐明@


 返信しながら、土岐明調査事務所所長という肩書に面映ゆい思いを感じる。所長とはいっても、所員はいない。たった一人の調査事務所だからだ。

 40インチの液晶テレビを見ながら、ブランチを食べ終えて、再び、メールを整理していると、水原昇から返信があった。


@Re.土岐様 さっそくのご返信ありがとうございました。陋屋ではございますが、今週末の土曜日、午後1時、自宅にてお待ちしております。住所と電話番号は地図と一緒に添付させていただきます。 水原昇@


 添付ファイルを開けると、ネット地図と住所と電話番号が記載されていた。住所は大岡山だ。土岐の自宅兼事務所から近い。時間と交通費が節約できる。

 土岐は依頼があった場合、必ず依頼者の自宅で契約することにしている。依頼者の身辺調査も兼ねている。信頼できる依頼者でければ、調査費用を取りはぐれる可能性がある。資金的な余裕がないので、金銭的な失敗は許されない。


 土曜日の正午、土岐は蒲田の自宅を出た。時間的に大岡山まで、ドアトゥドアで30分程度だ。30分ほど時間が余る。この30分で依頼者の地元調査をする予定だ。

 蒲田駅から東急多摩川線で多摩川行の電車に飛び乗った。六つ目の駅、多摩川まで12分だ。多摩川駅で3番線の東急目黒線西高島平行に乗り換える。三つめの駅が大岡山だ。5分かかった。予定通り、1時まで、あと30分ある。正面口を出ると、駅前広場がある。ロータリーのようなものがあるが、全体の形は直角三角形だ。

 依頼者が添付してきた地図によると、自宅は理工系大学のあるキャンパスの反対側の住宅街だ。正面口から右方向に、左手にバス停をみながら、細い商店街を北上する。そこから徒歩5分ほど、という依頼者の案内があった。2分ほど歩くと、こじゃれた洋菓子店があった。土岐は躊躇なく入店した。

「いらっしゃいませ」

とアラフォーの女店員が愛想笑いで土岐を迎える。土岐はショーウインドウを物色する。ショートケーキやモンブランやエクレアやアップルパイなどの定番商品が並んでいる。手ごろな価格のものを探す。土岐はアップルパイに目をとめた。ショーウインドウには「大」が展示されていたが、値札を見ると、「大・中・小」の3種類がある。大きさが直径で、センチで表示されている。

「このアップルパイは切り売りしていないんですか」

と土岐はわざとないものについて聞く。

「申し訳ありません。カット売りをすると、ショートケーキと違って、劣化するので、・・・小でいかがでしょうか」

「そうですか。それじゃ、小をお願いします」

 土岐は最初から小を買う予定だった。

 店員は土岐に背を向けて、小さな白い箱にアップルパイを入れて、包装をしている。土岐は背後から声をかけた。

「この近くに、水原さんというお宅があるらしいんですが、ご存知ですか」

と聞く。依頼者の自宅は添付されていた地図ですでに確認しているので、必要のない質問だった。

「ええ。奥様がよく見えます」

と店員はちらりと土岐を見て答える。

「おいくつぐらいですかね」

「奥様の、お歳ですか?」

「ええ」

と言いながら、店員は包装し終った箱をショーウインドウの上に置く。

「50歳ぐらいだと思うんですが、お若く見えます。専業主婦みたいで、ときどき、テニスのラケットやゴルフクラブをお持ちになって、お歩きになるのを見かけます」

と言うのを聞いて、土岐は生活には困窮していないと判断した。

「旦那さんはみかけませんか」

「一度、ご一緒にご来店いただいたことがあると思うんですが・・・」

「どんな感じの方ですか」

「・・・ちょうど、ほかのお客さんもいて、ちょっと混んでいたもので・・・」

「まあ、男性が奥さんと一緒に洋菓子店にきて、ケーキを物色することもないでしょうね」

「ええ、・・・おひとりで、この店の前をお通りになるのを見かけたことは、ありますけど・・・」

と言いながら、口を濁した。土岐は、水原昇に口に出して言いずらい身体的な特徴があると推理した。たぶん肥満体か、はげということだろうと予想した。

「お宅は、ここから何分ぐらいですか」

「すぐそこです。通りの右側で、クリーム色の、メルヘンチックな木造の家です」

「何か、変わったことはありましたか?」

と言う土岐の質問に店員は眉根を寄せた。しばらく、沈黙があった。

「・・・お嬢さんが、いらっしゃったとおもうんですが、最近全然見かけないんです」

「へーえ、おいくつぐらいのお嬢さんですか」

「最後にご来店いただいたとき、大学の4年生だったんで、いまはたぶん22歳か、23歳だと思うんですが・・・」

 そこで、やっと土岐は財布を取り出した。店員はレジに向かった。

 土岐は領収書をポケットに入れて、店を出た。1分も歩かないうちに、それらしい家が目に留まった。胸の高さに赤茶けた煉瓦塀があり、そのすぐ奥にクリーム色の一見、観光地の喫茶店のような木造の家が見えた。外壁は南京下見張りだ。土岐はレンガ塀に挟まれた鋳物門扉を押し開けて、玄関のブザーを押した。ちょうど1時だった。

 しばらくしてドアが開いた。中年過ぎの小柄な女が土岐を見上げた。

「土岐さんですか」

「そうです」

「どうぞ、お入りください」

 半坪ほどの玄関の上がり框にスリッパが揃えられていた。後ろ向きに玄関の板の間に上がった女がひざまづいた。

「どうぞ、おあがりください」

 土岐は女の頭頂部を見下ろした。細く柔らかそうな頭髪で、白っぽい頭皮が透けて見える。

 土岐はスニーカーのような革靴を脱いで、スリッパの中に足を滑らした。正面が応接間の入口になっていた。女に導かれるまま、土岐は応接間に入った。六畳ほどの広さだ。こげ茶の布地の小ぶりのソファーセットが中央にある。女は土岐を奥の長いソファーを勧める。

「少々お待ちください。いま、お飲み物を・・・」

「どうぞ、おかまいなく」

と土岐が言い終えないうちに女は部屋を出ていった。

 土岐は部屋を見渡す。狭い。スタンドピアノのせいだ。黒い蓋に薄らと埃が覆っているように見える。窓の外は隣家の壁で、日が差し込まない。照明が暗い。外が明るかったせいかもしれない。

 女が紅茶をもって現れた。レモンティーだ。センターテーブルに置かれるティーカップを土岐は不安げな目線で眺めた。

「ミルクティーのほうがよかったでしょうか?」

と女が言う。土岐の顔色で土岐の思いが読み取れるようだ。しかし、事前にミルクティーは用意していない。

「いえ、これで結構です」

と言うが、土岐は手を出さない。

「ご主人の、水原昇さんは?」

「すいません。ちょっと所要がありまして、外出しております」

 土岐は水原昇が肥満体かはげのいずれかと推理した結果を検証したかったが、本題に入ることにした。

「さっそくですが、ご用件は?」

「じつは、この三月に娘が亡くなりまして・・・」

「それは、ご愁傷様です」

「自殺したようなんですが、理由がわからなくて・・・」

と女は目をしばたたかせる。

「あのう、失礼ですが・・・なくなられたお嬢さんのお母様で、水原昇さんの奥さまでいらっしゃいますか」

「あっ、わたくしですか。すいません。自己紹介もしないで・・・わたくし、水原幸子といいます。亡くなった娘は千鶴子といいます」

「それではわたしも自己紹介を・・・」

といいながら土岐は名刺を差し出した。

「このたびは、ご用命をいただきましてありがとうございました。ご用件はお嬢様に関することですか」

「ええ。娘が自殺した理由を少し調べていただけたらと思いまして・・・」

「そうですか。詳しいことをお話しいただけますか」

 幸子は応接間の窓の上のほうに目をやる。やつれた喉がよく見える。

「今年の一月末に卒業論文を書き終えて、単位はすべて春学期に取得していて、秋学期は期末試験がなくて、二月になって卒業式まで、卒業旅行代わりに、山中湖の小さなコテッジを借りて、読書三昧をしたいって出かけたんです、ひとりで。卒業式の前日に帰宅する予定だったんですが、帰らなくって。携帯電話に掛けたんですけど、充電切れでかからなくって。卒業式の日に、コッテジの管理人から連絡があって、亡くなったらしいって」

「コッテジのほうには、どれくらいおられたんですか」

「ひと月半ほどです」

「どういうふうに亡くなられたんですか」

 幸子が土岐の目を見る。土岐の右目を見て、左目を見る。

「管理人が救急に連絡して、救急が来て、一応病院に搬送して、病院で死亡を確認して、そのあと、不審死ということで、検死が行われて・・・」

「それで、死因は?」

「餓死、ということでした」

「ひと月ほどで餓死ということは、水分もとらなかった、ということですね」

 幸子が少し目を見開いて、土岐を見つめる。

「どうしてですか」

「まあ、体質にもよりますが、水分をとっていれば、絶食してもひと月以上は生きられるはずです」

と言いながら、土岐はレモンスライスもグラニュー糖も入れずに紅茶を口に含んだ。ぬるくなっていた。

「ゴールデンウイークの前、四月下旬になってから、コッテジの管理人さんから千鶴子のものかもしれない遺品があったという連絡があって、山中湖まで受け取りに行きました。たぶん、自殺があったということで、貸し出しにご迷惑をかけたと思って、お詫びと連絡のお礼に寸志を持参しました」

 幸子の話がゆるやかになる。土岐はせかせるように言う。

「で、遺品というのは何だったんですか」

「連休中の貸し出しに備えて、徹底的にコッテジを清掃していたら、備え付けの机の引き出しの奥から三冊の日記帳が見つかったんです。自由日記という市販されているハードカバーの書籍みたいな日記帳で・・・」

「コッテジの管理人がお嬢さんのものかもしれない、と言ったということは、記名がなかったということですね」

「それもあるんですが、管理人さんが、文字を読めなかったんです」

「暗号か、何かで書かれていたんですか」

「いえ、これをご覧ください」

と幸子は立ち上がり、スタンドピアノの上に手を伸ばす。黄土色の三冊の函をセンターテーブルの上に置いた。その中の一冊を土岐に手渡す。土岐はA5判サイズの函の中から薄茶色の書籍のような日記帳を取り出した。クロス装丁の上質の本に見える。中扉に、


『自由日記』


とあり、その裏には万年暦の表がある。明治、大正、昭和、平成のすべての年月日と曜日わかるようになっている。その次から縦20字、横10行の原稿用紙が印刷されている。上欄に3センチほどの空欄があり、その上に日付を書き込む空欄がある。

 原稿用紙のマス目に書き込まれていたのは、あざなえる蔦のような草書体だった。なんとか読めそうな文字もあったが、大半は判読不明だった。土岐はため息をついた。

「お嬢さんは古典文学でも専攻していたんですか」

「ええ。文学部で中世の日本文学を専攻していました。それで、娘のものに間違いない、ということで引き取ってきました」

「なるほど、達筆かどうか、判断できるだけの知識はありませんが、模様としてみても、きれいですね」

「わたくしも、主人も、草書の素養がないので、何が書かれているのか、よくわからなくて・・・」

「わたしも同様です」

「そこに、娘が自殺した理由が書かれているような気がして・・・」

「草書の読めるようなどなたかに解読してもらったんですか」

「いえ、娘のプライバシーですから、草書の解説書を買ってきて、解読しました」

「じゃあ、内容は大体お分かりで・・・」

「ええ、書かれていることは大体わかったんですが、内容がよく理解できないんです」

「・・・と、言いますと・・・」

「書かれている内容と現実が一致していないようなんです」

「というと、空想ということです」

「空想でもないんです。実際の場所とか、実際にあった事件とか、そういうことも書かれているんです」

「それで、解読された内容についてのメモのようなものはあるんですか」

「わたくしが清書したものがあります」

と言って、幸子は再び立ち上がり、スタンドピアノの上から大学ノートを土岐の目の前に置いた。表に、


『千鶴子の日記』


となめらかな女文字で書かれている。最初のページを見ると、


『あたかも大学のキャンパスは、・・・』


という文章が書かれている。日付はない。土岐はパラパラと大学ノートをめくりながら言う。

「草書体で書かれたということは、盗み読まれるような形で、かりに読まれたとしても、わからないように、・・・知られたくなっかということなんでしょうか」

「わかりません」

「絶対に見られたくないものであれば、自殺を考える前に焼却したでしょうね。しかし、遺書のようなものであれば、すぐ見つかるような場所に置いとくはずですよね」

「餓死が死因だとすると、覚悟の上だと思うんです」

「そうでしょうねえ。投身とか薬物とか縊死とか、すぐ亡くなるような形であれば、衝動的に、とも考えられますが、餓死となると、死に至るまで一か月以上かかるわけですから、よほど強い意志があったということですね」

と感慨深げに土岐は言う。言ってから、言い方のまずさに気付いた。土岐は幸子の顔を窺う。気分を害している様子はなかった。

「それで、いかがでしょうか。調査していただけるでしょうか」

「とりあえず、この日記をお預かりしてもよろしいでしょうか。検討させていただいて、後日、見積もりをメールで送りますので、ご主人と一緒にご覧ください。その見積りでよろしければ、調査にとりかかります」

「で、今日の御礼は・・・」

「調査に着手するということであれば、請求させていただきます。そうでなければ、結構です」

と締めくくってさめた紅茶を飲みほした。

「来週中には、見積もりのメールをご主人のアドレスに送信しますので、ご主人にお伝えください。今日のところは、この日記帳を預からせていただきますが、なにか気づいたことがありましたら、その名刺の番号にお電話いただくか、メールをいただければ幸いです」


 帰宅してから、土岐は幸子が清書したという、


『千鶴子の日記』


を読み始めた。


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