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拳闘記

作者: ディー

 ザァアアアアアアアアッ――――


 どしゃ降りの雨が地面を叩く音が鳴る。加えて、今は夕暮れ時で外が薄暗い。そのため、見た者の心を鬱屈とさせるような景色がそこにはあった。

 その中を、傘をささずに男が歩く。成人に満たぬ外見の青年だ。髪から滴る雨水が絶えず顔面を流れ、白シャツや学生ズボン・ズックといった衣類の全てはずぶ濡れとなっている。しかし、耳の上で短く切り揃えられた髪は雨水の重みに負けずに形を保っていた。

 急いでいるのか青年は早足で歩いていたが、とある木造建築の家屋を前にして急に足を止める。木の塀で仕切られた敷地の中には、二階建ての母屋とそこから渡り廊下で通じる稽古場が建っていた。最も、そこが稽古場であると青年が知っていたのは、普段からそこで稽古を彼が行っているからだ。

 表口から敷地内へ青年が足を踏み入れる。そして玄関まで繋がっている石畳の道を通り母屋へと入った。

()ぃ!?」

「真一!?」

 ずぶ濡れの青年を見て裏返った声を上げたのは、彼の弟と母だ。しかしそれに反応を示すことなく、真一と呼ばれた彼は、板張りの大広間を通り、隣の畳部屋へと抜けていった。

 真一が足を踏み入れた畳部屋は十数畳にも及ぶ大空間になっている。寝室としての使用が主であり、天井から垂らされている明かりはついていない。今この部屋を照らすのは、隣接している大広間から届く薄明かりだけだ。

「親父……」

 真一がいる入り口とは対角の空間は、入り口から射し込む光りも殆ど届いていないその空間は、衝立(ついたて)で隠されている。それを見て、自身の父親がそこに眠っているのだということを彼は理解した。

 部屋の明かりをつけ、光を遮る衝立を退ける。そこにいるのは、死装束を纏い布団の上で横になっている死体だ。

 父の死体を前にして、膝を着くように真一は座る。

 そのままぼうっと真一は死体を見続けた。

「兄ぃ。これで体拭いてっ」

 ドタバタと寝室へ入って来た彼の弟がタオルを差し出すが、真一はそれを無視して父親の死装束をはだける。

「兄ぃ⁉」

「これは……」

 頬・脇・腹・腰……身体のあらゆるところに紫色の打撲痕が残っていた。そして特に目を引くのが、胸の辺りに出来た大きな陥没だ。

(なんだこれは。普通に仕合っただけじゃこんなにはならないぞ……)

 胸に残るこの痕が、父の死の直接的な因であることは間違いない。尋常ではない深さの痕から真一は目を離せなかった。

「兄ぃ。笑ってるの……?」

 遠慮気味に、身を少し引きながら弟が言う。

「笑ってる……俺がか?」

 弟に言われて自身の手を口元に当てる。そこで初めて、口端が上に歪んでいることに真一は気付いた。

「そうか……俺は笑っているか……」

 ゆらりと立ち上がると、両手をだらんと下げ、笑ったまま真一は天井を見上げる。

(親父……あんたの仇は取ってやらない。が、あんたを超えたことの証明くらいはしてやるぜ)



―――



 2年後。



「お嬢ちゃん。俺達が荷物持ってあげるからさあ、歩きながら一緒に話しようよぉ」

「いえ。結構です」

 周囲を山に囲まれた田舎町の簡素な道の真ん中で、見下すようにして一人の少女を三人の男が半円状に囲んでいる。男達の顔にはニタついた笑みが浮かぶ一方で、能面のように表情を変えずに少女はただ立っていた。

 耳が半分隠れる程度のショートヘアーの少女で夏の白い制服を着ている。

 道の脇を抜けようと動く少女だったが、その先を塞ぐように男の一人が腕を伸ばす。

「おおっと! そんなこと言わずにさあ……ねぇ?」

「そうそう。その制服、西女(ニシジョ)のとこのでしょ」

「俺達、男子校だったからさ、お嬢ちゃん学校のこと知りたいんだよね」

 そう言って、真ん中にいた男が少女の肩へと手を伸ばして——

「そこまでにしといた方がいいな」

 後ろから更に伸ばされた手に肩を掴まれその動きを阻まれた。

 三人の男たちがほぼ同時に振り返る。自分達と変わらぬ背丈の青年がそこには立っていた。

 後ろから割って入って来た男が若く一人であることを認識して三人の男達は安堵する。しかし、青年の方も男達に臆した様子はない。ただ、呆れた表情を浮かべている。

「道の真ん中でこんなことするなよ。通行の邪魔だろ」

「なんだとぅ…」

 舐められている……ということを青年の言動から男達は感じた。一番近くの真ん中の男が青年を下から睨みつけるように顔を近づける。

「おう、今なら見逃してやる。とっとと来た道を戻りな」

「そりゃあこっちのセリフだぜ。困るよ、道の途中で厄介事なんて」

「それじゃあ――――どう困るのか教えてくれよなぁ!」

 真ん中の男が腰だめに引いていた右拳を青年の腹へと突き込む。ドッと、鈍い音が鳴った。

 だが――

「えっ? な……」

 苦痛の声や表情を挙げたのは青年ではない。真ん中の男がズルリと膝から落ち、地面に倒れた。

 真ん中の男が崩れ落ちたことで、残り二人の男の視界に青年の全身が映る。二人の男達に分かったことは、腹にあてがう様な形で、棒立ちに近いまま青年が右拳を出しているということだけだ。

「て……てめぇ!」

 倒れた男の左側にいた男が前へ踏み出し、青年の顔に向かって拳を突き出す。体を少し横に傾けて青年はそれを躱した。

 そこから体を反転させて男の腕を取ると、肩で担ぐように腕の逆関節を極めて青年は男を背負い投げた。

「はがっ!」

 地面に叩きつけられて、肺から息を男は吐き出した。だが背中から落ちた衝撃を気にするよりも、腹の中に右腕を抱えて幼虫のように男は体を丸める。

「大人しく投げられておけばよかったのに、下手に踏ん張るからそうなるんだ」

 投げられた男の右腕は折れていた。

「で、後はお前か」

「えっ……。あ、いえ、すいません……」

「なんだ。根性ないな」

 青年に視線を送られた最後の一人は、顔の横で両手を開いて無抵抗をアピールする。そして、倒れている男たちを置いてその場から立ち去った。


「あの……助けて頂きありがとうございます」

 青年に対して少女が腰から深く頭を下げる。その姿を青年は見つめていた。

「あの……私の顔に何か……?」

 頭を挙げても無言で見続けてくる青年に少女は訪ねる。

「ああ、ごめん。ただ、あの男達に話しかけられている時から全く表情を変えないものだから……。普通、ああいう場面では怖がったり安堵したりするもんだと思うけどな」

「それは……あなたの姿が見えていたので――」

「三人に対して一人だけだったのに?」

「はい。()()()()いました」

 少女の言い回しに青年は違和感を感じた。

(この子、さっきからどうにも普通じゃないな……まあ、俺が考える事でもないか)

 直ぐに思考を切り替え、ここに来た目的について青年は思いを巡らす。

「助けたお礼に……って言っちゃなんだけど、一つ聞いてもいい?」

「はい。私に応えられる範囲でなら」

「じゃあさ、ここの辺りに鹿峰かのみねって姓の家があるはずなんだけど……その場所って分かる?」

「場所なら分かりますが……口で説明しても多分わからないと思うので、私が案内しますよ」

「いいの? 大体の位置を教えてくれれば後は自力で探すけど」

「私も丁度同じ方へ帰る所だったので、大丈夫です」

「そう……ありがとう。助かるよ」



―――



 目的の場所にはおおよそ20分で着いた。


「でけぇな……」

 豪邸と見紛うような和風の木造の屋敷がそこには建っている。

「鹿峰家は武家の家系ですが対外的に道場を開いてはいません。要人警護などを現在は生業にしているそうですが、人には言えない仕事も一昔前まではやっていた……と聞いています」

「そうか……俺の探してる家で多分あってる。案内してくれてありがとう」

「それは良かったです。それじゃあ入りましょうか」

「ああ……えっ? それってどういう――」

 自身の耳を青年が疑っている間にも、屋敷の敷地の中へと少女は入っていく。

 仕方ないので、少女の後を追って青年も一先ず門を通り抜けていった。

 玄関に着いた少女は脇から垂れ下がっている引き紐を引く。それに合わせて、引き戸の奥からチリンチリンと金物のなる音が響いて来る。

 こうして近くで見れば見るほど、この木造の建物が現代から如何に切り離されているのかということが伺い知れる。インターホンが無いのもそうだが、戸の横に掛けてある姓を記入した木札には古めかしい字体が刻まれており、古くなった建造物に対して現代式の改築を行った様子は一切見られなかった。


 トッ、トッ、トッ――


 屋敷中から足音が聞こえてくる。早足だが、必要以上に振動を床に伝えない落ち着いた足取りだ。

 ガラリと扉が開かれる。中から現れたのは、暗い藍色で上下が染められた武者袴の青年だ。茶色がかった髪が日の光を反射する事で、朱に染まっているようにも見える短髪が目を引く。

「兄さん。ただいま」

「ん、成見(なるみ)か。後ろの奴は友達か」

 青年の目が真一を捉える。一方で、親しく会話を交わす二人を前に真一は何も言えないでいた。

「紹介しますね。私の兄の鹿峰和国(わこく)です」



―――



「——妹が世話になったな」

「いや……大したことは」

 通された応接間で、和国と真一の二人は机を挟んで向かい合っていた。和国が胡坐をかいているのに対し、真一は正座している。

「別に畏まらなくもいい。楽に座って欲しい」

「……それじゃあ、遠慮なく」

 足を崩して真一も胡坐をかく。


 応接間の扉が丁度開き、お茶を乗せた盆を手にした成見が部屋へ入って来た。二つの茶碗を二人の前にコトリと置くと、和国と真一から見た机の側面にそのまま正座する。

 成見の表情を真一は窺ってみるが、僅かに顔を俯かせて机の中心を見つめているだけで何を考えているのか分からなかった。

 その間にも和国は片手で陶器を持ち、ずいっと茶を喉に押し込む。おおよそ五秒ほどで中身を飲み干したのか、口から椀を離す。

「うん。美味い」

 そう言って和国は茶碗を机の上に戻した。そんな和国の動作を真一は見つめ続けている。

「そう気を飛ばしてくるな。まずはお茶でも飲んだらどうだ。成見の入れた茶は美味いぞ」

 和国の勧めに応じて目の前の茶碗を真一も手に取った。ほのかに湯気が立っているのを見て、啜るようにして中身を飲み込む。

 お茶は熱すぎず(ぬる)すぎずの丁度良い湯加減で、猫舌の真一でも気にせず飲むことが出来た。

「………本当に美味いな。それに巧い」

「ありがとうございます」

 成見が軽く頭を下げた。


 一分ほど時間をかけて真一は茶を飲み切る。そこでタイミングを見計らったように和国が口を開く。

「さて……程よく雰囲気が落ち着いた所で用件でも聞くとしようか」

「なら話は早いな。俺は今日、親父――紀藤佐助を殺した者と仕合うためにここまで来た」

 ギュッと右手を握り上げながら真一は立ち上がる。

 紀藤という名に和国が頭を傾け考え込む。

「きとう……紀藤……2年程前にうちの親父と仕合った柔術家のことか」

「ああ、時期としても合っているはずだ。仕合って……そして死んだ」

「なるほどな……あの時の闘いはよく覚えているよ。なんせ、親父の腕一本を持っていった相手だったからな」

 過去の記憶を思い返しているのか、瞼を半分ほど閉じて和国は顔を俯ける。

「……しかし悪いけどな、親父と仕合うことは出来ないぜ。親父は死んだ。昨年たちの悪い病が流行ってな。それであっけないものだったよ」

「なっ……」

 それは驚きか、それとも失望だったのか。予想外の事態に真一の声が漏れる。鹿峰の家を探し出すのに2年……それでは遅かったというのか。


「だが……」と和国が立ち上がった。そして、鋭い眼光を真一へと返す。

「俺なら相手をしてやれるぞ。幸いにも、親父が死ぬ前に流派の継承は済んだしな。今は俺が鹿峰の当主だ」

 その言葉に……真一は笑った。



―――



 外へ出た和国と真一は、屋敷の裏に広がる山の中へと入った。和国は袴のままで、真一は道着に着替えている。

 人の足によって踏み固められた道を二人は進む。

「うちには稽古場がなくてな。修業はいつも山の中だ」

 真一の先を歩く和国がそう説明する。山といってもさほど大きいものではない。五分ほど歩いたところで二人は頂上に着いた。


「さて、ここらでいいか……」

深い森の中で開けた草地の中央で和国は足を止める。相当に踏み慣らされている場所で、丈の低い草本しか生えていない。動きにくさといったものは感じられなかった。

「言っておくが、引き返すならここが最後だ。覚悟はいいんだな?」

 振り返って和国がそう言う。覚悟という言葉が命の取り合いを意味している事を真一は正しく把握していた。

「それだけか?」

 しかし、大した事でないと真一は軽く流す。その様子に、和国は口元に手を当てて笑う。

「くくっ……やはり本物だな。成見の見立ては正しかったわけか」

 そう言って和国が構える。胸の辺りで両の拳を構え、右足を一歩引いた姿勢だ。それに合わせて真一も半身に構えを取る。ただし、和国とは違い拳は握らない。


 2・3メートル離れた距離から鋭い視線を互いにぶつけ合う。

 だが、膠着状態に陥る前に和国が前へと出た。


 真一との距離を詰めながら顔に向けて左拳を打ち出す。首を傾けて躱しながら、外から巻き込むようにその左腕を真一は右腕で取りに行く。和国の左腕を捕らえて脇固めに移行しようと前に出るがそれよりも早く和国が腕を引き抜いた。

 腹部にも真一は拳を突き上げていたが右の掌で止められる。続けて真一は金的を狙い右脚で蹴り上げた。しかしこれも、斜め後ろへと躱される。

(はや)い……全ていなしやがった)

 予想以上の動きを和国が見せたことに真一は驚嘆した。同時に、相手として不足なしと闘志が湧き上がって来る。

「いやいや、やる」

 他方で距離を取った和国は、笑みを浮かべながら言う。

「ではこちらから……行くかっ!」

「っ⁉」

 一瞬で懐に潜り込みその腹へ和国が左拳を突き込む。腹の中に籠る鈍い音が鳴り数センチほど真一の膝が落ちた。その隙を逃さずに真一に密着し腰投げで倒す。

 投げた後も掴んでいた道着を離さず、真一の上体を若干起こしたままにした状態でその後頭部へと和国は蹴りを入れる。

「がっ……」

 和国に向き直るように体を反転させるが、向き直った直後に今度は顔面へと打撃を受ける。骨がぶつかり合う硬い音と共に、仰け反るように頭が撥ねた。距離を空けるために真一は後ろへ跳ぶ。だが、真一の道着を引っ張りその場に留める。そして道着の袖を掴んでいる、自由に腕が動かない側の横腹へと和国は蹴りを入れる。

「かっ……」

 真一の肺から息が漏れる。掴みを振りほどいた真一はようやく距離を取った。

「どうした。その程度じゃあるまい」

 追撃することなく、両手を前にして和国は構え直す。

 対して真一は、前傾姿勢でぶらりと両腕を垂れ下げている。

「ああ……どうやら寝ぼけていたらしいな」

 目元から垂れる血を真一は親指で拭う。

 直ぐに真一は前へと突っ込んだ。和国の全身を間合いに入れた後、左拳のボディブローを突き上げるように放つ。和国はそれを右手で逸らしながら距離を詰め、投げを打つべく腰を入れる。だが、それに合わせて真一も体をずらす。

(投げを躱したか……ん?)

 そのまま側面へと移動した真一は和国の腹へと膝を打ち出した。しかし和国は右手でそれを抑える。

 和国は後ろへ跳び下がった。しかし真一はそれに追随し、左ストレートを顔へと打つ。和国は横へと移動するが、躱した先で右フックが飛んでくる。和国はこれを左腕でガードした。

「ふぅううっ————」

 呼気と共に拳を押し込み、相手の体を真一が崩す。直ぐに和国と組むと、腰払いでその体を倒した。

(打撃で崩してからの投げ……巧い)

 背中から和国が落ちる……が、そのまま後方へ一回転して再び起きる。

 立ち上がった時には、組もうと左手を伸ばす真一の姿が既にあった。その手を(はた)き落とすが、右拳のボディブローが和国に迫る。

「がふっ……!」

 和国の腹に拳が押し込まれ、その身体がガクンと落ちる。和国から見て右側へと回ると、重心が前に寄った相手の体を後押しする形で脇固めを真一は行う。そして地面に伏せる形で和国が倒れる。

 脇固めはまだ完全には()められていない……ので和国は、自らの身体を自由な左腕で押し上げる。

「マジかよっ⁉」

 縦になるよう浮き上がっていく身体、それを抑えていた真一は思わず叫ぶ。

 これ以上脇固めを続けても意味がないと真一は技を外そうとするが、その前に右腕が掴まれそこから背負い投げられる。だが、完全に組んでの投げではなかったため空中で体を捻り、和国と向かい合うようにして着地する。

「……」

「……」

 袖と襟を掴んで互いに組み合う。数秒間の睨み合いが続いた。

 先に仕掛けたのは真一だ。和国の足元を崩すべく左のローを外側から膝下へと撃ち込む。しかし和国は動じない。逆に、軸足一本の状態となった真一を崩す為に前へ迫る。だが密着される前に真一が足を戻す。そこから相撲の様な密着状態での組み合いに移行する。

 両腕を帯に回して組み合った状態から二人は動かない。しかし、互いの筋肉がうねりを上げて一時的な均衡を作り上げているというのがその内約である。自分から下手に均衡を崩せばそれが隙だ。だから、相手を力で押し込むことを最善としつつ、二人は慎重に次の手を探る。

「ぐっ!」

 徐々に真一が後ろへ押されていく。力比べでは和国に勝てないと真一は悟ると、一度深く潜り、反り投げを打った。和国が首元から地面へと落ちる。そのまま仰向けに倒れた体に真一は馬乗りになった。

「取ったぞっ」

「はっ! どうだか」

 笑うその顔に真一は拳を落とす。だが、和国は首を傾けて躱した。躱した先にまた拳を叩きつける。しかし和国の手によって逸らされる。そこから何度か和国へ拳を振り落としたが、その全てが躱すか逸らされていく。

(化物め……だが——)

 今度は逆に和国が拳を突き上げる。しかし、真一は頭を上げて、腕の間合いの外へと逃げる。

(——俺が上にいる優位に変わりはない)

 突き出された和国の腕を取り、アームロックを極めながら相手の喉元を腕で潰す。

「このまま終われ……っ」

 和国の喉に当てがった腕に体重をかけていく。でも、和国は笑みを浮かべたままである。自分に覆いかぶさるようにしている真一の腹に和国は片手を添えた。

「はぁっ!」

 そして一瞬の呼気と共に、腰を跳ね上げながら後ろへと真一を押し飛ばす。

 真一は空中で体を捻って、背中から落ちる前に上手く着地する。しかし、仰向け状態から和国も起き上がっており、ほとんど同時に二人は向かい合う事になった。

「腕に体重をかけ過ぎたな」

 表面上は平静を装う和国であったが、内心では真一の戦闘能力に対して驚いていた。

(こいつ……最初よりも戦い方が巧みになってきている。いや、巧くなっているというか……これは慣れか? まるで、初めての経験を前にして要領を掴んでいくような……そんな感じだ)


 和国は左拳を胴体へ打ち出した。真一はそれを腕でガードしながら自らも拳を繰り出す。和国は首と胴を傾け避けながらまた拳を撃つ。インファイトでの打撃戦に二人は興じた。避ける事はあまりなく、受けては撃つの繰り返しだ。肉と骨が、骨と骨がぶつかり合う音が何度も響く。


 その最中で、自身が生まれ変わったかのような気分を真一は感じていた。

(ああ……どうやら本当に俺は眠っていたらしい。これが本気で戦うという感触か)

 父が死んで以来、ほとんどの鍛錬を真一は一人でこなして来ている。他人と仕合う機会は全くなかった。だからこうして肉体を交錯させ業を競いあうという興奮が、真一本人ですら自覚していなかった力を引き出してた。


「ふぅっ……!」

 繰り出された右拳を、ガードせずに真一は受けた。腹に突き込まれた腕を両手で掴んで捕らえる。そして和国の頭に向けて右脚の蹴りを繰り出した。

 腕を掴んで動きを制限してからの蹴撃……打撃を自ら喰らってまで放ったそれは、しかし屈んで躱されてしまう。だが、真一にとってそれは布石に過ぎなかった。

(っ⁉ 掴まれた腕が動かない……)

 和国の頭上を通り抜けた右脚が戻り、和国の首へと引っ掛けられる。残った左足も地面から離すと、和国の肩から腕にかけて絡みつくように、体全体で組み付く。

 腕を捕らえられた状態から更に屈んで重心が下がっていたため、右腕を前に出したままうつ伏せに和国は倒れてしまう。

「これは……裏十字の変化形か」

「組み技や投げ技自体に独創性はあまりないがな……紀藤の業の本質は、打撃による崩しから技へと入る流れ――その引き出しの多さだ」

「なるほど。それがお前の本気か……」

 小さく息を吐いて和国は笑った。

「右腕は死に体……普通なら、ここで終わるんだろうな。だが、俺は馬鹿なんでな……この程度じゃ止まらない」

 そう言って和国は右腕に力を入れた始める。

「ハァァァァ———」

「おい……腕が折れるぞっ!」

 真一の警告にも構わない。

「———ォォォォオオッ!」

 和国の呼気が咆哮へと変わった瞬間、組み付かれていた右腕が、楔を失ったかのように急に跳ね上がった。そのまま体を反転させて、組み付いた真一ごと右腕を地面に叩きつける。

「ごはっ!」

 あまりに動きに緩急が付きすぎていたため、加えて力ずくで技を返されることを想定していなかったために、全くと言っていいほど真一は反応できなかった。気付けば、跳び上がった和国の膝が自身の頭に目掛けて落ちてくるのが見える。

 地面を転がり膝落としを真一は避けた。そのまま立ち上がるが、和国の拳が腹へと突き刺さる。

(こいつ、さっきより……)

 速さと力が共に段違いに上がっている。さっきは耐えれた筈のボディアッパーも、体を硬直させて自由を奪う。地面に膝が落ちるよりも先に、真一は背負い投げられた。しかし地面に叩きつけるのではなく、空中へ投げ出すように途中で手を離す。

(っ⁉ いや、今のうちに……)

 不可解さを感じながらも、真一は空中で態勢を直そうとする。……だがそんな真一が目にしたのは、蹴りを入れるべく体を反転させている和国の背中であった。

(投げてから後ろ回し蹴りっ⁉ (はや)す——)

 思考を最後まで終える前に、和国の裏足が胸へと突き刺さった。蹴りで吹っ飛んだ真一は頭から落ちようとしている。

(まさか、これほどなんてな……結局俺は——)

 ゴッと地面に頭を打ち付ける音を最後に真一は意識を失った。



―――



「はぁ、はぁ……ぐっ!」

 気絶した真一を前にして、それを下した和国は右腕を抑えてその場に膝を着く。極められている状態で強引に動かしたため、その右腕は肩から外れてぶらりと垂れている。また、先程見せた迅さのように限界に近い動きをしたために、体全体の筋組織が切れて強烈な痛みを引き起こしている。

 右の肩を左手で掴み嵌め直し、和国は立ち上がった。

「……まさか、ここまで追い詰められるとはな」

 倒れている真一へと視線をやる。命がけの戦いというものをこれまで何度も経験してきたが、これほどの手傷を負わされたのは、父を相手にしたとき以来だった。しかも、相手にとっては初めての戦いであったというのに、だ。

(死なせるには惜しいよな……)

 最後の蹴りを真一の胸に入れた時、幾らか骨を折ったような感触があった。命に関わるほどの怪我とも思えないが、決して軽傷ではない。放っておいたら多分……いや、身動きが取れないので確実に死ぬだろう。

 和国は真一を背中に抱えると、ゆっくりとしかし堅実な足取りで山を下りていった。



―――



 目が覚めた時、畳の部屋に敷かれた布団の中で真一は横になっていた。

「起きましたか」

 声を受けて天井から視線を横に移すと、布団の横では成見が正座してこちらを見つめてる。

「えっと、君は……」

「真一さん。どこまで覚えておられますか?」

「あ~、えーっと………あ、そうか。俺は……仕合をして――」

 和国と戦いをしたことは分かるのだがその結末がよく思い出せない。代わりに成見が続きを話し始める。

「はい。そして、あなたは兄に……鹿峰和国に負けました」

「……そうか。まあ、そうだよな。でなきゃこんなところで寝ちゃいない、か」

 独り言のように真一はそう呟いた。そして上半身を起こそうと力を入れるが、布団から肩も離れない内に激痛で体を戻してしまう。

「……っ!」

「まだ動かない方がいいですっ。医者にも見てもらいましたが、胸骨に罅が入っているそうです。あと、肋骨も何本か」

「どうりで呼吸がきついわけ……か。はぁ……痛いのに気づいちまった」

 真一が顔を顰める。

「鎮静剤をもらっていますがどうしますか」

「いや、大丈夫。気合で何とかなる……多分」

 そう言って真一は視線を天井に戻し、目を瞑った。

「俺にずっと付いてるのもつまらないだろう。一人で安静にしてるから、成見さんは自由にしてていいよ……」

 それから、しばらく間静寂が続いた。部屋を出ていくどころか、成見が立ち上がる音すら真一には聞こえなかった。


「あの……一つお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 唐突に成見が静寂を破る。

 痛みで喋るのが億劫だった真一はこくりと頷いた。

 それを見た成見はすぅっと息を吸うと、しゃんとした雰囲気に切り替える。

「――何故、貴方達は戦うのですか? 何故、鍛えるのですか?

 生きる以上、人は成長するものです。しかし、それにも限度はある。己の業を練り上げることに対する貴方達の執着ははっきり言って異常です。貴方も……それに兄も、それほど傷ついてまでどうして戦うのですか」

 成見はきっと、こちらの顔をじっと見つめている……そう容易に想像できるほどに、彼女の声は真剣だった。

「……まあ馬鹿なんだろ、男はさ」

 対して真一は、重さを感じさせない様子で言う。

「……どういう意味ですか?」

「う~ん、なんて言えばいいのかな……あー、そうだなぁ……強いて言うなら、夢想家ってところかなぁ」

「夢想家……」

「普通に考えて無理って思うようなことを成し遂げようとする……向こう見ずな奴ってことだな。ほら、テレビのヒーローだかなんだかに憧れてそいつの真似とか男って一度はするだろ? 大抵の奴は、中学・高校に上がるにつれてそういうのは鳴りを潜めていくもんだけどさ……俺はもっと馬鹿だからな、自分が夢想した存在になることをいい歳して諦めていないんだよ」

 真一の口元にふっと笑みが浮かぶ。

「それだけで……そんなことで、命をもかけられるのですか、貴方達は」

 真一に対する質問というよりは、信じられないという気持ちが自然に吐露された……そんな感じの言葉だった。

「だから馬鹿なんだろ。多分、お前の兄貴も同じだぜ」


「……なんたって、笑ってやがったからな」と、苦笑いしながら真一は付け加えた。

 その様子を見ていた成見はくすりと笑った。

「どうした? そんな顔をして」

「いえ……自分が馬鹿だなんだという話を誇らしそうにあなたが話すものですからなんだかおかしくなっちゃって……」

 ひとしきり上品に笑った後、成見が立ち上がる音が真一の耳に入った。

「納得は出来ませんが、一先ずはそういうことにしておきます。それじゃあ私は夕餉の支度に戻ります……ので、兄が起きたら台所に来るよう伝えておいて下さい」

「兄?」

 真一が聞き返す前に、障子の扉が閉まる音が鳴った。真一は目を開き首を横へ傾ける。そこには、自分と同じく仰向けになって寝ている和国がいた。


「お前……起きてるだろ」

 真一が突っ込みを入れるとパチリと和国が目を開く。

「なんだ、気づいていたのか」

「寝息が不自然なんだよ」

 真一は再び視線を天井へと戻した。

「手前ぇ……見てたぞ。最後、おれの胸に蹴りを入れながら笑ってやがったな……」

「それは気付かなんだな……おおよそ、久しぶりの全力に沸き立ったんだろうさ」

 おどけた様子で和国は応えるが、真一としても本気で恨み節を言った訳ではない。ただ、会話の起点が欲しかっただけだ。


「それで、気分はどうだ?」と和国が訪ねてくる。

「……さあな。考える事が多すぎて、どう思えばいいのか分からねえよ。負けたことを悔しがればいいのか、それとも戦いの余韻に浸ればいいのか……まあ、体の調子は絶不調だが。ここから起き上がることすら出来ん」

「そりゃあな。俺の本気の蹴りを喰らって生きていることを誇れ」

「偉そうにするな。お前も結局布団の中じゃねえか」

 一つの部屋で男二人が横並びになって寝ている……その事実に和国はフッと笑う。

「なんだ。気が合うじゃないか」

「お前みたいな奴は友達として願い下げだよ」

 憎まれ口を叩きながらもその声色は明るい。

「で、そろそろ下に言った方がいいんじゃないか」

「成見の事か? 体中痛くて動けないから無理だ」

 先ほどみたいに茶化す様子はなく、至極真面目に和国は応える。


「動けない、のか……やっぱり最後のあの動きか。あれはなんだ?」

 裏十字を力技で外して蹴りを入れてきたときの動きは異常だった。人の域を超えていたと言ってもいい。

「別に特別な技じゃない……というか、技ですらない。ただ限界近くまで力を引き出しただけだ」

「そんなことが……できるのか」

「さっきも言ったが特別なことじゃない……というより、意図的にやれるものではない。お前が俺を追い詰めたからこそ……負けたくないと俺に思わしめたからこそあれほど動けた」

「……なるほどな。そりゃあ、体も動かなくなるか」

 一旦、ここで会話が途切れる。その間、自己の回復に努めるように男たちは無言無動を貫いた。

 次に口を開いたのは5分後くらいだろうか。真一からの提起であった。

「そういえば……俺は」

「俺はお前を麓まで運んだだけだ。後は全部成見がやってくれた」

「そうか……それは、借りが出来ちまったようだな」

「ぶちのめしたのもオレだけどな」

「それはそれ、これはこれだ。……とにかく、この借りはいずれ返すことにする」 


「そうか……」と言うと和国は暫く考え込み……再び口を開く。

「借りを返すというのなら、再びここに来い……そして俺と戦え」

「……いいのか。次は俺が勝つぞ」

 真一が冗談を言っている訳ではない。敗北と先の会話を受けて、今後どう鍛えていくべきかということに真一は既に思考を巡らせていた。

 そんな真一の様子にははっと和国が笑う。

「それだからいいんだよ……こんな時代じゃ武技なんて役に立つものじゃない。鹿峰に対する依頼だってほとんどなくなっている。本気で俺とやり合ってくれる……やり合える人間は貴重だ。

 だから、俺に勝てるという確信が持てるほどになったら……かならず来い」

 目を開くと和国は、真一の方へと左の拳を掲げていた。

「……分かった。約束しよう」

 そう言って、和国の左拳へと自身の右拳を真一は打ち合わせた。


 ここで結んだ縁が、今後真一を波乱の人生へと巻き込んでいくことになるのだが……この時の真一はまだそれを知る由にはなかった。



―――



 一週間後、真一は鹿峰邸の玄関前で荷物を持って佇んでいた。

「それじゃあ俺はこれで……。成見さん、お世話になりました」

 怪我が完治したとは言えないが、激しい動きをしない分には問題ない。胴体部分の骨が折れていたことを考えれば驚異の回復力である。

「おれには一言もないのかよ」

「世話になった9割は成見さんに、だ」

 そう言って真一は、鹿峰家での日々を思い出す。

「しかし……色々と借りを作ってしまったな」

 基本的な看病以外にも、食事・風呂など色々と世話を焼かれてしまった。和国と戦うくらいでは返しきれないほどの恩だ。

「次来る時には連絡を入れるから、欲しいものがあったら遠慮なく言ってくれ」

 そう言って、ズボンのポケットから携帯を真一は引張り出す。その中には成見の連絡先が入っている。


「……そして和国」

「なんだ」

「次に戦う時まで……俺とお前は会う事はないだろう」

 その言葉を皮切りに自身の心情を真一は吐露し始める。

「強くなることが……過去の自分を超えていく事が俺にとっての一番だった」

「ああ」

「それは今でも変わらない。だが……それが全てではないみたいだ」

 和国の瞳を真一は、真っ直ぐに見据える。

「己を練り上げるのならば、己一人がいればいい……そう思っていた。世界は俺一人で完結しているはずだった。だが、お前に負けて俺は嫉妬している。いや、恨んでいるといってもいいのかもしれない。自分より強い奴がいるという事実を認めたくない……そんな思いが俺の中にある」

「……」

「だから、俺はお前に勝たなければならない」

 言葉足らずで一方的なその告白に、和国はただ笑みを返した。

「分かった。次に会う時会う場所——そこが戦場だ」

「ああ」

 和国と成見に背を向けて真一は足を踏み出した。


 そうして、和国と真一は別々の道を歩み始める——互いの道が再び交わるその日まで。

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