第5話
アコースティックギターを持っているその少年を孝介は驚きながら見つめていた
病院内で何故ギターを持っているのか、という疑問もあったけど、何故この子の周りには人が集まっているのだろうかという疑問の方が強かった
彼のベッドの周りにはこの病室内で入院している患者、主に老人だが、それだけではなく恐らく他の病室からの訪問者もいるのだろう。老若男女の患者が十数名辺りが彼のベッドを囲んでいた
中には子どもも含まれていた。病院服ではないと分かれば、おそらく見舞い客に連れ子に違いない
ところでどうしてこのような状況になっているのか、孝介には理解し難い状況だというのははっきり言える
しかしこれから何が起こるのだろうか、というのはなんとなく分かる
少年がギターの弦を弾いた。綺麗な雑のない音色を奏でる
すると少年は途端に続けて弦を弾き始めた。この病室内で、彼が奏でる音が流れ始める
弦を弾きながら、時にはボディを叩き違う音を入れる。テンポを取るように、ボディを叩いて……
ただの弾き語りではなかった
一本一本を丁寧に弾いてみたり、時には弦全体を手のひらで叩いたり、時には弦を全く弾かなかったり……
そして何よりこの音楽には歌がない。少年は歌を歌うことなく、ただひたすら音を奏でている
そして……多分おそらくこの音には決まり事などないのだろう。即ち楽譜というものが存在しないのである
クラシックと呼べばいいのだろうか、しかし使っている楽器はクラシックギターではなく、アコースティックギターである
彼はギターの弦で音楽を奏でているのではない。ギター全体、その楽器全てを使ってこの音楽を作り出している
そして、この引き込まれる空間を作り出しているのだ
孝介ですら、彼が作り出している世界に魅了されていた
彼の音楽は何故か心を湧かせる不思議な感覚にさせる
この音楽は絶望に陥っている者ほど、本質に触れることが出来るのではないのだろうか
孝介がまさにそうだといえた
夢に破れた自分は今絶望に伏しているが、この音楽を聞いていると何故か楽しげな気持ちになれる
そして何故か絶望という念を振り切ることが出来そう、という気持ちになる
それはこの音楽を聞いている全ての人たち、みなそうなのではないだろうか
行く末が見えない者がこの中にいる。いつ死が待ち受けているのか、それも分からず、孝介のそれ以上に絶望に伏せ、恐怖と戦っている者だっているだろう
そんな者がこの音楽を聞いてみたらどう思うだろう
あまりの気持ちに激しい変動に驚き、それと共に感涙の涙を流すだろう
生きる希望を見いだせるだろう
孝介の言うことは大袈裟に捉えるかもしれないが、孝介自身そう感じてしまうのだから仕方がない
凄い……
孝介は聞きながら心の中でそう唱えた
凄い。この音楽は凄い
自分には到底作り出すことの出来ない世界だ。こんなに凄い音楽が、自分にこの先作り出せるとは思えない
それだけに孝介はショックだった。自分はまだまだ未熟だった。愚かな儚い夢を追い続ける無謀人だったのだ
それに気がつかされたとき、孝介の中で吹っ切れるような思いが芽生えた
今ならあのとき自分の音楽を真っ正面を向いて見ようとしなかった、レコード会社のプロデューサーに賛同出来る
自分を客観的に見る、という本当の意味はこういうことを言うのかもしれない
すると孝介は自分の目に流れていた暖かいものに触れた。自然と涙が流れていた
彼の音楽によって自分の愚かさに気づかされた。逆に溜まっていた思いが放出され、心が癒やされているのだ
癒やしの音……とでもつけようか……
「カナデッ!」
その音楽を抑止した声が響いた。孝介はその声ではっと我に返った。病室の入り口から女性の声が響いたのだ
少年はその声に驚き、ギターを弾くのを止めて入り口の方を見た。そして苦汁を舐めるかのような笑みを浮かべる
孝介も入り口に視線を向けると、急に胸が高鳴った
そこにはあの女性の看護士が立っていた。若く、輝かしい美麗を纏っている。長い黒髪がさらに綺麗さを引き立たせている
しかし表情は険しい。どうやら怒りの形相を浮かべているようだ。そしてそれはどうやら少年に向けられているらしい
その女性の看護士はズカズカと足音を立てて、その少年のベッドの隣へ近づいた
「もうっ!病院内でギターを弾いたらダメッて何度言わせれば分かるの?他の患者さんたちに迷惑でしょっ!」
ごもっともな意見であるが、孝介は迷惑というよりもむしろ貢献されていた側だ
恐らくこの病室内にいる人たちも同じ気持ちだろう。彼らの表情を見ていれば分かる
「本当に、あんたったらもうっ!」
「ま、待ってよお姉ちゃん……みんなが僕の音楽を聞きたいって」
「そういう問題じゃないのっ!」
どうやらかなりの逆鱗に触れてしまったようだ。が、孝介が気になっているのはそこではなかった
この二人は……姉弟なのだろうか?
そしてこの少年の名前は……
その看護士は周りの皆に丁寧に頭を下げて謝っている。少年はふてくされるようにそっぽを向いていた
丁寧に謝っているが、もちろん周りの皆は怒ってなんかいない。むしろ嬉しそうだった
笑顔だ
皆、心の底からの笑顔を見せている。孝介はその光景にも魅了された
自分もこんなアーティストになりたかった。自分の音楽を歌を曲を聞いてくれている人たちに、希望を持たせるような、笑顔に変えるようなそんなミュージシャンに……
だから、また凄いと感じた。目の前でふてくされているこの少年が……凄い、と。
「音無さん」
孝介はふと、その看護士に話しかけられた。再び胸が高鳴ったのを感じた。看護士は申し訳なさそうに丁寧にお辞儀をした
「本当にごめんなさい。音無さんにも迷惑をかけてしまって……」
「あ、いえ……そんなこと……」
「あ、お兄ちゃんっ!起きたんだね」
少年は孝介に向けて子供らしい笑顔を見せてきた。孝介はその少年を見つめて、小さく頷いた
「良かった。僕、昨日いけないことしたかなって思ってたんだ。お兄ちゃん怒らせちゃった。まだ怒ってる?」
「え、いや……」
「本当に?良かったっ!」
何だ……孝介はそう呟いた
やっぱり、普通の子供じゃないか。それも昨日のことに対してしっかり罪悪感を感じる、可愛いとこのある子供じゃないか……
こんな子供が……
すると少年の後に続いて、看護士が愛想笑いを浮かべてきた
「奏が昨日、音無さんに失礼なことを言ったそうで……すみませんでした」
「……カナデ?」
孝介がそう聞き返すと、少年が元気よく反応を見せた
「うんっ!僕っ。僕が奏っ!高野奏だよっ!」
この少年の名前、高野奏……不思議な音楽を見せる少年か……
「お兄ちゃんは?」
「え?」
「名前だよ」
「あ……音無だ。音無孝介」
「音無……孝介……」
奏は孝介の名前を繰り返して呟くと、可笑しそうに吹き出した
「ミュージシャン目指してたくせに、音無って。縁起良くないね」
「……余計なお世話だ」
低い声で奏を睨みつける
やっぱり……糞生意気な“ガキンチョ”である
「こらっ!奏っ!失礼でしょ。ど、どうもすみません」
看護士がまた慌てて謝ってくる。孝介はその際に、白衣につけられたネームプレートを見た
長谷……
名字が違う?
姉弟ではないのか?
「でもさ、名前って肝心だよね。ほら、姓名判断とかもそうじゃん?あと改名したりして運気を上げたりとかする人だっているし。名前って肝心だよ。うん」
「奏っ!いい加減にしなさいっ!」
長谷という看護士が顔を紅潮させたとき、入り口の方から孝介を今朝起こしてくれた女性の看護士が入ってきた
「長谷さん」
「あ、はい」
「201号室の谷川さん、検査の時間よ?」
「あっ!す、すみません……すぐ行きますっ!」
長谷がそう言ってから、再び奏を見て厳かな表情で言った
「いい?今度病室内のみなさんに迷惑かけたら……もうギター取り上げだからねっ!」
「……はァい……」
「私は行くけど、大人しくしてなさいよ?この間買ったゲームしていいから。分かった?」
「分かった。それよりお姉ちゃん。早く谷川さんのとこ行ってあげなよ」
長谷は呆れるようなため息を吐くと、孝介に視線を向けて笑顔を浮かべた。そして深々とお辞儀をしてきた。孝介も慌ててお辞儀を仕返すと、長谷は急ぎ足で病室内を出て行った
長谷が出て行った後、奏はうんざりしたように大きくため息を吐いた
「ふゥッ……疲れた。まったく、大袈裟なんだよなァ。お姉ちゃんは」
奏はそう言って、孝介を見た
「うるさいでしょ?お姉ちゃん。いつもああなんだ。僕の音楽が嫌いなのかな?」
「……そういうわけじゃないと思うが……彼女の仕事上、君の行為を無視出来ないだろ」
「ふゥ〜ん……大人って大変だねー。いいじゃない。みんな僕の音楽を聞きたがってるんだもん」
「病院内でギターを弾くという行為は非常識なことだ。無理もない」
奏は首を傾げた。何故非常識なことなのかを理解出来ないらしい
「……それより……誰に習ったんだ?」
「何が?」
「ギターだよ。さっきのを見てる限り、凄腕だ。君ぐらいの年であんなに弾けるやつ、めったにいない」
「そう?」
奏はそのことも理解出来ないらしい。不思議そうな表情を浮かべてから、笑顔で言った
「誰からも習ってないよ?自己流さ」
「自己流?すごいな君は」
「そんなに大したことじゃないよ。お兄ちゃんだって弾けるでしょ?ギターくらい」
「……少なくとも君くらいの年では弾くことはなかった」
孝介が感銘を受けながら、ため息をついた。そんな孝介を見ながら、奏はふーんっと呟いた
「……さっきの曲は……」
奏がそう呟いてから、孝介に笑いかけた
「さっきの曲は、今僕がアレンジして作ったんだ。みんなが元気になれますようにって祈りながらね」
「……弾きながら作り上げていったということか?あれを?」
「そうだよ。気持ちだけを込めてね。どうだった?」
孝介はあまりの驚きに声が出せずにいた。あの曲に感じた自由さ、そのところだったのだ
奏は孝介の反応を見て、天井を仰いだ
「僕はね、聞こえるんだ」
奏はそう言うと、さらに続けて言った
「僕の周りを囲んでいる全ての音が。僕には鮮明に聞き取ることが出来る」
意味が分からなかった。全ての音とは……一体どういうことだろうか……
「例えば空気の流れる音、風の音が僕には綺麗なメロディーに聞こえる。走っている車のエンジン音が、僕には激しいメロディーに聞こえる。人の話し声が、僕にはマラカスのようなリズムに聞こえる……」
そう言うと、奏は目を閉じた。そして、何をするのかと思えば、途端に布団を叩いた
布団を叩いたときに奏でた、パンッと乾いた音。そして、さらに手すりの金属部分を叩けば、高い金属音を奏でる
奏はそれらを急に叩いては奏で始めた。ただ叩いているのではない……その音が、組み合わさって一つの曲になっているのが分かる
孝介はその曲を聞いてさらに感銘を受けることになった
「こんな風にね」
奏は得意気な表情を浮かべて孝介に言った
孝介は声を出せず、ただ奏を見つめていた
凄い……何なのだ。こいつは……どうしてそんなことが出来る?
「君は……天才だな。まさに、神童だ」
神童……
孝介はその言葉が浮かんだ。稀にいる、絶対音感を持った天才が……
音の神童がまさに奏なのではないか?
あの有名なモーツァルトも、絶対音感が備わった神童だと言われていた
奏はまさにそうなのだ
「……僕が神童?それは違うよ」
「いや、君は神童だ。自分の凄さが分からないのか?」
「違う」
奏はそう言い張った
「僕は神童じゃない。天才でも何でもない……僕は……僕はただ、音が好きなだけさ」
奏は孝介を見て、笑顔でそう言い張るのだ