第3話
孝介は目の前の少年を見つめていた。正確に言えば、孝介の座るベッドの本当にすぐ横にいる少年を見た
その少年は何やらB4の紙を数枚手に持ち、捲り捲りでそれを眺めていた
それは孝介がたった今探していた楽譜だということに気がついたのは、その少年がその紙を眺めながらふと口ずさんで歌ったからだった
「この想いを歌にするなら、何て歌おうかと考えた。メロディーに乗せて歌えるのなら、どんな歌になるかと考えた……」
孝介はそれを聞いて、あまりの驚きに胸が詰まるような思いをした。今この少年が口ずさんで歌った歌は、紛れもなく孝介自身が作った歌だったのだ
この少年が自分の歌を知っているはずがない。なのにどうしてその歌を歌えるのか……間違いないのは、その少年が手に持っているそれは孝介の楽譜だということだった
「……どうして……その歌を知ってるんだ?」
孝介が切羽詰まった顔でそう尋ねると、その少年は逆に不思議そうな顔を浮かべた。「逆にどうして知らないの?」とでも言いたげな顔だった
「これに書いてあるじゃん」
「……どんな曲かが分かるのか?見ただけで?」
その少年はもう一度不思議そうな顔を浮かべた。本当に不思議な物をみているかのような反応だった
「お兄ちゃんは分からないの?ミュージシャン目指してるのに?」
孝介はそう言われて怯んでしまった。そりゃ、孝介だってもう音楽の道に入って七年は経つ。もちろんそれは、孝介が本格的に音楽活動を始める以前のことも数えるとだ
だから楽譜を見て、その曲が実際にどんな曲なのか試しながら弾いて、その曲がどんな曲なのか分かる
そこの過程がないと、楽譜を見ただけじゃ何も分かりはしない
自分が劣っているのだろうか……それとも……
孝介は小さくため息をついた
「ミュージシャンはもう目指してないよ」
「ふぅ〜ん……じゃあ目指してはいたんだ」
「……君には関係ないことだ。悪いがそれを返してくれ」
孝介はげんなりした顔で手を差し出す。この手に楽譜を渡してくれればそれでいい
しかし少年はすぐには渡さなかった。まるで孝介の言葉を無視するかのように、そしてその楽譜に取り込まれるかのように、じっと楽譜を見つめては小さく笑った
「いい詩を書いてるのに。メロディーが良くないんだよなァ、これ」
「おい……」
「ほら、ここの“君に送るよ”の部分なんかもさ、もう半音高くして――」
「返してくれっ!」
孝介はその少年のベッドまで身を乗り出すと、少年が持っていた楽譜を乱暴に取り上げた
小学生くらいの子に対しては随分大人気ない行動だと自分でも分かっていたのだが、この少年の言うことに多少の憤りを感じたことは言うまでもない
自分が数年追いかけてきた夢を馬鹿にされてるようだ。例え子供だろうが、親だろうが、見知らぬ人だろうが、高ぶる感情を抑えるつもりはなかった
ましてやこんな目の前の“ガキンチョ”は何だ
いきなり出てきたかと言えば、人の歌を知ってるかと思えばいきなり指摘をくらわすなんて……
こういうのは……そうだ。親の教育がなってないのだ
孝介は楽譜を奪い取ってから、目の前の“ガキンチョ”を鼻であしらうと、すぐにしきりのカーテンをしめた。少年はきょとんとしたおもむきでいたが、しきりのカーテンを閉めてからはもう見えない
孝介は小さくため息をついた。そして自分の楽譜を目にやる
先ほど指摘されたことに相当の屈辱を感じた。しかしあくまでも子供の言うことなのだから、そこまで相手にすることはない
ただ、たかがそこらの子どもが知った口を聞いただけだ。しかしそれを自分の曲まで干渉されてしまうと、やはり不愉快ではあった
孝介は急に睡魔に襲われた。先ほどまで気を失って、もう随分長い間眠っていたはずなのに……何故だか酷く疲れていた。気を失ってるときは酷く体が疲れてしまうものなのだろうか
孝介は考えるのも嫌になり、楽譜を無造作に棚の上に捨てるように置くと、まるで何かに誘われるかのように眠りについた
その間に孝介は夢を見た。夢を見たと言うのは自分でも、これは夢なんだと気づいていたから
その夢では孝介は一人で見慣れたキャンパスの中で佇んでいた。大学だ………孝介が一年前まで通っていた都内ではそこそこのレベルの大学。そこの音楽科の教室。孝介は目の前の誰かを見ていた
一人、椅子に座って机に向かい何やら紙らしきものに文字を書いているようだ。そいつは孝介と同じように鉛筆を使っている。孝介は最近では珍しく、シャープペンシルよりも鉛筆を好む。孝介の予想が正しければ、おそらくHBの長さはちょうど手のひらを開いた手首から中指までの距離くらいの長さであろう
何故わかるのかと言えば、目の前にいるのは紛れもなく自分だったからだ
自分は佇んでいる、と先ほど言ったが……これは佇んでいるというよりも、存在自体がないのに近くで第三者の目として見ているのだ
例えば映画やテレビを見ているような、その中には自分はいないが、確かに映画やテレビの世界を見つめている
そしてこの夢の中では、そんな世界に入り込んでいるようだ
ただし存在自体はない
そんな自分は今自分を見ている。過去の自分と今の自分、対比してみると……やはりあの頃の自分は活気に満ち溢れていた
ただ純粋に音楽で好きで、自分で曲を作ってはそれをギターで弾いて歌った
あの頃はまだ、ただの自己満足にしか過ぎなかった。自分だけの曲を作り、誰もいない場所で、自分に向けて歌を歌った
その方が良かった……
いつからだろう……自己満足では足らなくなり、いつの日か夢を追いかけることになったのは……
目に光が差し込む。現実に引き戻されたのは、その刺激のためだった
孝介はぐっと力を込めてから、薄々目を開く。光が目に染みて、すぐに開けることが出来なかった
しかし音はちゃんと聞き取ることができる
「音無さん、朝ですよ。起きてくださーい」
女性の声がした。孝介の瞳の焦点があってきたところで、ようやく周りの状況を把握することが出来た
そうだ。自分は今一盛病院で入院をしていたのだ
いつの間にか深く眠り込み、朝を迎えてしまったらしい
そうか……病院では決まった時間にナースがわざわざ起こしに来てくれるのか……
入院とは楽なものだったりする
だが孝介にはあまり変わりない。孝介のように几帳面で毎日同じ生活リズムを取っているのであれば、誰が起こしに来ようが来まいが、決まった時間――即ち八時前には目が覚める
だが孝介はそんな自負を見事に打ち砕いてしまう。棚の上に置かれた電波時計を見てみれば、既に9時を回っていた
「調子はどうですか?」
起こしに来てくれたナースは中年の少し小太りだった。化粧が濃く、お世辞にも美人とは呼べない
「あぁ……わざわざすみません。調子は良いみたいです」
孝介は笑顔を見せてそう答えた。実際、よく寝たというのも踏まえて、体が何となく軽い気がした
「そうですか。それは良かったですね?一応熱を計りますので、この体温計を脇の下に入れてください」
「あ、はい」
中年ナースから家庭でもよく見られる市販の体温計を受け取り、それを脇で挟んだ
孝介は決して女にがっつくようなタイプではない。むしろその逆で、女がほっておいても寄ってくるくらいだ
日本人離れした堀りが深く整った顔。髪質は難毛。髪型は今時風で、襟足が多少肩に掛かるくらいの長さ。色は茶色のメッシュを入れている
髪色は大学になってから染めた。髪だって今より短かった。それでも整った顔つきが人気を呼び、高校の頃からクラスの女からは人気があった
交際の経験は数え切れない。そして色々な女とも寝た。そちらの方も経験豊富である
そんな孝介は女に対して要望などしない。なのにこのとき、この中年ナースを見て孝介は少し残念に思った
昨日の看護婦……どうしたんだろう
どうせなら彼女に起こしてもらいたかった
そんな気持ちが起こる。自分らしくない……あの看護婦に特別な思いを寄せているわけではないのに
しかし美人だった……若く、それは美しく華やかな女性だった。魅力を感じた……
と言っても彼女と会話を交わしたのも昨日が始めてだし、それもそこまで話し込んだわけではないから……あちらの方は孝介のことなんかまったく気にも留めてないだろう
体温計のアラームが鳴って、孝介は即座に脇に挟んだ体温計を取り出した。孝介は数字も見ずに、すぐに中年ナースにそれを手渡した
中年ナースはそれを受け取ると、そこに書かれた数字を凝視する
「……36.5度……平熱ね」
そう言って彼女は用紙に何かを書き足した。恐らくその用紙は患者の健康状態を記したものなのだ
「朝ご飯はどうですか?食べれますか?」
「えぇ。そういえば昨日から食事を取ってないから……少しお腹が空きました」
実際その通りであった。孝介は昨日……いや一昨日の夜に事故にあい、昨日の夕方頃に目を覚まし、そしてまた今朝目を覚ました
食事を一昨日の夜、ファミレスでハンバーグステーキを食べた以来である
だから結構お腹が空いている
「分かりました。すぐに持ってきますね?何かあったら、そこのナースコールで呼んでください。すぐに他の看護婦が駆けつけますから」
彼女はそれだけ言うと、失礼しますと言ってから病室を後にした
孝介は小さくため息をついて、ベッドに寄りかかる。そこで電波時計の下にメモらしき紙を見つけた
紙を取ってみると、母からだった
孝介へ
よく眠っているようなので、母さんは帰ります。あなたの部屋、掃除しておくわね。それとあまりウロウロせず、安静にしとけば手術をして、二週間かそこらで退院出来るそうです。またお見舞いにきます
母より
孝介は手紙を読み終わると、再びため息を吐いて手紙を棚の中にしまった
やはり手術はするらしい。恐らく今、右足は複雑骨折をしていて、それを矯正するために骨にボトルを入れて固定する手術をするのだろう
二週間かそこらで退院出来るというのは、恐らく数日間検査を受けた後、手術をして、もう半分はリハビリなどをして退院という予定でいるはずだ
しかし……まさか一盛病院で入院するとは……この東京都江戸川区に在る一盛病院は、主に介護福祉を重点視した病院のため、やはりこの病室内でも老人が多い
とびきり孝介だけが若く、少し浮いている気がした
そんなときに孝介はふと一度昨日目を覚まして、そのときに奇妙な少年と会話をしたことを思い出した
孝介はチラリと隣のベッドを見てみる。しかしベッドには誰もいなかった。いや、誰かしらが使っている形跡はあるが、今そこにはいない
確かにそのベッドには奇妙で生意気な“ガキンチョ”が一人……
恐らくトイレか何かに行っているのだろう
帰ってきてからまた色々と話しかけられるのも面倒なので、孝介は仕切りのカーテンを閉めた