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第2話


孝介こうすけが次に見たのは、真っ白な天井だった。その光景が見えた瞬時に、激しい痛みが頭の先まで貫いた


体が動かない。手足の指すら動く気がしない。だが、自分の呼吸の音だけはしっかり聞こえる


生きている


孝介は確かにそう思った。ずいぶん長い間、真っ暗だったような気がした。ある意味自分は死んでいたのかもしれない


死んでいたのに、自分はふと生き返ったのだ


この手足の指まで動かないというのは、骨折とかそういうわけではなさそうだった


恐らくまだ硬直が解けていないのだろう


やけに冷静に状況を把握しようとする自分に、孝介は小さくため息をついた


これじゃあ、当分は死を受け入れることはなさそうだ


しかし、ここはどこなのだろうか


そして何故自分はこのような状況になっているのだろうか


それを孝介は分かっていなかった


音無おとなしさん」


優しげな声が聞こえた。孝介はゆっくり声のする方を向いた


白衣を着た若い女性が、孝介の横に立っていた。自分より高い……あぁ、そうか……


孝介はこのとき初めて、ベッドに横たわっているのだと分かった


若い女性……その白衣から分かった。この人はナースなのだ


「目が覚めたんですね?……気分はどうですか?」


俺は酷い頭痛を感じた。身体の痛みはさほど大したことはない。さっきからの激痛はむしろこちらのようだった


「……あぁ……」


俺は唸るように声を発した。頭がぼぅっとして、口を動かすのにも体力を使うようだった


「……頭が痛い……」


俺がそう言うと、ナースの女性はクスッと小さく笑った


「頭痛は恐らく、長時間眠っていたからだと思います。脳には直接的なダメージは見当たらないと、先生は仰ってましたから」


「……そうか…………え?」


孝介はようやく目が覚めたようにそのナースを見た


孝介は起き上がろうとしたが、身体を迸る激痛がそれをさせなかった


「……っつ……」


痛みを感じて、自分の右足に視線を向けた。自分のその右足は包帯が巻かれていた


この硬い感覚は恐らくギブスだろう


右足の膝の関節からしっかり固定されていて、その足は負担をかけぬよう丁寧に処置を施されていた


孝介はそれを動かそうと試みたが、まったく動く気がしなかった。その代わり、激しい痛みが孝介を襲った


――折れている


「あの……」


孝介の様子を見ていたナースが、気遣うように言ってきた


「あまり無理をしないでください。一応、翌週には退院出来ますが、それまで安静にしていてください」


退院……?


孝介はその言葉だけを捉えた。孝介はゆっくりと辺りを見回してみた。自分は大きなベッドの上に、そして右方には液晶のディスプレイと窓、花瓶……花瓶には綺麗な花が飾っていた


左方は仕切りのためのカーテンがあって見えないが……恐らく隣には孝介が乗っているのと同じように、ベッドが連なっているのだろう


ここは病院なのだと孝介は感づいた


自分は病院にいる。どこの病院だ?恐らく自分のアパートからさほど距離はなかろう。アパートの近くにある病院といえば……内科医院と外科医院が二つずつ、産婦人科が一つあったのを孝介は思い出した


「あの……」


「はい?」


孝介はこのとき自分の声が嗄れていることに気づいた


「あの、ここって……」


「あぁ。ここは病院ですよ?一盛病院です」


一盛病院。一盛病院の病室に自分はいる。その中のベッドで自分は眠っていた


いや、眠っていたというよりも気を失っていたのだ


記憶の先がないのは、アパートのすぐ目の前の横断歩道を渡ろうとしてからだ


雨が降ってきたから、急いでアパートに帰ろうとしていて、横断歩道を走って渡ったのだ


その後酷く耳五月蠅いクラッシュ音……そこから記憶がない。あぁ、冷たい感覚があった……


「音無さん」


ナースの人が自分の名前を呼んだ。ナースの人は孝介の顔を覗き込むようにして見ていた


その美しい顔立ちに、孝介は不謹慎ながら胸をときめかせていた


「もしかして、何も覚えてないんですか?」


「え……あ……」


「ちょっと待ってください」


ナースの人は手に持っていた用紙を取り出し、胸ポケットに入れていたボールペンを手に取った


「これからいくつか簡単な質問をしますので、分かる範囲でいいです。もちろん個人情報なので、こちらでしっかり保護するのでそこのところは大丈夫です。では正直に答えてください」


なるほど……記憶障害があるかどうかを確かめようとしているのだ


たがあいにく、記憶が失っているのはあくまで横断歩道のところから先のことだ


彼女も仕事柄、そういうことをしなくてはならないのだろう


仕方ないが、付き合ってやるか


「それでは始めます。御自分の名前と年齢は分かりますか?」


音無孝介おとなしこうすけ、二十三歳」


ナースの人は用紙に書き綴っていった


「生年月日とお住まいの住所は分かりますか?あ、住所は都区だけでいいです」


「一九八七年六月十日……住所はえっと……東京都江戸川区」


「江戸川区……江戸川区の郵便番号の最初の三桁は分かりますか?」


「132……133……134。俺のとこは132ですけど」


「結構です」



ナースの人はまた用紙に何かを書き綴った


それにしても、郵便番号なんか聞いて一体どうなるのだろうか


確かに常識だろうが、それは記憶というよりも知識に類する


――まぁ、元々知識自体も記憶の一部なのであるから、あまり深言いはよそう


「……お仕事は何をなさっていますか?」


俺はそれを聞かれて、口を噤んだ。仕事……か……


それを聞いた瞬間、記憶が蘇ってきた。あぁ、確か気を失う前……あいつが言ってたな……


夢ばっか追いかけて、一生就職しないわけにもいかない。分かってるよ……分かってる……




「音無さん?」


孝介はナースに声をかけられて、ふと我に返った


「あぁ……一応フリーターです。以前は……」


孝介は小さくため息を吐いた


「音楽活動を……してました」









それからナースに幾つか質問をされると、ナースは納得したように頷くと用紙をしまった


「……記憶障害は恐らく出てないみたいです。事故の直前からその後のことを……」


「事故……?」


孝介はナースの言うことを遮るようにして呟いた


ナースは孝介を見て、小さく頷いた


「あ、はい。音無さんは昨日アパート宅の前で……」


ナースがそう言いかけたとき、大きな足音が近づいてきたことに気がついた。すると仕切りが捲れて、外から顔を覗かせてきたのは……孝介もよく知っている母の顔だった


「母さんっ!」


「あらっ……目、覚めたのね」


孝介は驚きを素直に表していた。孝介の実家は山梨県の甲府市だった


甲府にいるはずの母が、東京にいるなんて思いもしなかった








「はねられたのよ、あんた」


母からその事実を孝介は静かに聞いていた。薄々気がついていたが、母の口から聞くと生々しいものだった


自分はあそこで事故に遭ったのか……


「余所見運転ですって。物騒よね……運転するときはちゃんと前を見て運転するのが義務なのに」


その義務とやらを守れない人がいるから、このような事件が起きるのだ


「……で、その人は?」


「知らないわよ。あたしだって、真っ直ぐ病院に来たんですもの。でも多分、今も署で色々事情聴取されてるんじゃないかしら」


普通の軽自動車だったから良かったものの、トラックなどの重量車だったら、恐らく今の自分はここにいなかっただろう


そう思うと、孝介は軽く身震いした


死亡事故ではないし、骨折とは言え被害者は軽傷で済んだのだ


懲役までとは行かないだろうが……罰金から書類送検ですむだろう


こちらが賠償金を請求するのも無駄な話だ。裁判なんて起こせるほどの大きな事故ではないし、よくても入院費を払ってもらえる程度だろう


もっとも孝介自身、そこまで怒りを覚えているというわけではなかった


ただ運が悪かっただけだと考えていた


「今度ちゃんと謝罪しにくるって」


「その人、もしかして会社員?」


「そうらしいけど……何で?」


「いや……だとしたら、これから先大変になるんだろうな。会社とかクビにならなければいいけど……」


孝介がそう言うと、母さんは呆れるようにため息をついた


「呆れた……あんた死んでたかもしれないのに……呑気なもんやね」


「そう?」


「あたしはあんたが事故に遭って意識不明だって聞いて、本当に心臓が止まるとこだったわ」


生きた心地がしなかったわ、と母さんはげんなりと言った


孝介は大袈裟に事を言う母さんを可笑しく思って小さく笑った


「ありがとう」


「……そうそう。あんたの荷物、ほらー……何か色々入ってる鞄は棚の上よ」


孝介は棚の上を見た。確かに棚の上には自分の鞄があった。楽譜やチューナーが入っていたのを思い出した


「けど……あんたの持ってたギターはダメね。衝撃でケースごとバッキバキ。壊れてたわ」


「……あ……そう……」


不思議とそんなにショックではなかった。むしろ何も感じなかった


今壊れてしまったギターは孝介のアパートに置いてるらしい


「それよりもあんた……」


母さんは怪訝そうな顔を浮かべた


「まだミュージシャン目指してるわけ?」


孝介は答えなかった。母は小さくため息を吐いてから続けた


「あんた、いい加減そんなこと辞めて、早く就職しなきゃ。最近就職しにくい世の中になってるっていうのに……」


「……分かってるよ」

孝介は素っ気なくそういうと、プイッと顔を背けた


解散を決することになった、原因を言ってきたメンバーの一人を思い出した。そいつの言葉と今の母の言葉が重なった


そうなると無性に腹が立って、孝介は何となくやり切れない思いになった


すると不意に母が立った


「ちょっとあたしは先生と話してくるわ。目が覚めれば、来週には退院出来るって言ってたけどねぇ」


「あ……そう……」

母さんはブツブツ何かを言いながら、孝介の前から立ち去った。一人残された孝介は、なんとなく物寂しい気がした


三年間の努力がついに報われなかったことに、悲しみを覚えた。これは悔しさにも似ていた


この気持ちを分かってくれる人はもういない


これから自分はどうすればいいのだろうか……先の未来に不安を覚えていた


こんなことになるなら……最初から普通の人生を歩んでいれば良かった


俺はなんて愚かなのだろうか



こんな自分を戒める日々はいつまで続くのだろう



孝介は不意に棚の上に置かれた自分の鞄を見た。この中には自分の努力の末、たどり着いた結果がある


……振り返って見るくらい……いいよな


孝介は自分の鞄を取って、鞄の中身を確認した


チューナーを取り出して、電源を入れてみたが……壊れているみたいで、電源がつく様子はなかった


液晶も割れていた……そうとう衝撃が強かったみたいだ


それで足一本で済んだのだ


ある意味ラッキーだったのかもしれない


孝介は音叉おんさやピックケースなど、全てを取り出した


が、一番肝心なものが無くなっていることに気がついた


楽譜がない


今まで三年間、メンバーと練って練ってたどり着いた俺の歌がない


孝介は鞄を閉じてから小さくため息をついた


事故に遭った際、どこかに落としてしまったのだろうか……


無くなっているから、どうしたことだというわけではないが……今まで三年間頑張ってきた結晶が、不慮な事故のせいで無くなってしまったことには、なんとなく物寂しかった



「面白いね」



孝介の耳に確かに入ってきた、その声。自分に向けられたものではないと思い気にはしなかった


だが……


「面白い曲だね、これ。お兄ちゃんの気持ちがよく伝わってくるよ」


その言葉に孝介は反応した。面白い曲……?お兄ちゃんの気持ちが伝わってる?


孝介はその声の出どころを探した。もちろんすぐに分かった


孝介はベッドの上で足を引きずって、仕切りのためのカーテンを開けた


開けてから横を見ると……そこには一人の男の子が孝介と同じようにベッドに座っていた


手には孝介の楽譜があった


小学生くらいの男の子が孝介の楽譜を持って、幼い顔立ちの中にある悪戯気な笑顔で笑っていた


その男の子は楽譜から孝介へと視線を向けた


「これ作るのに結構時間かかったでしょ?」


間違いなく、その少年は初めから孝介に話しかけていたのだ


「でも残念だね。見たところ、詩はいいけど曲調が駄目だ。テンポのアレンジも足りないし……ほら、ここがこういう詩ならスローテンポにしてみたらいいのに。あとどうせだったら、ここ。ここのメロディーはもっとクールにしてみたら?」


言葉を並べて、孝介の曲を指摘してきたこの少年に、孝介は驚きで呆然としていたせいで、何も言い返せなかった




この出逢いを始めとして……この突如現れた少年と、途方に暮れていた男の夢を追いかける物語が始まるのだった




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