第1話
やってられない……
人混みが流れていく。色とりどりの光で覆われている夜の東京を、俺は歩きながらそう呟いた
右肩にはギターケースを背負って、左手には楽譜やらチューナーやら音楽関係の道具の入った鞄を持っている
どちらも大した重さではない
ギターケースに入っているのは、アコースティックギターだ。俗に言う、アコギだ
エレキギターなどとは違って、中には空洞がある。その空洞がアコギには必要不可欠なのだ
中の空洞が無ければ音は曖昧なものになり、響くことはない
またボディが大きいというのも音を響かせる理由の一つだ
物理的法則から成り立つ音の反響……
高校のとき物理が好きだった俺はこの法則に惹かれた
音が反響することによって、その周波数を大きくする
結果普通の音よりも数倍大きく聞こえることが出来る
このような楽器にも物理学が関わっていることに俺は大いに感動した
が……俺はアコースティックギターに対して惹かれた部分はそう言った学問的なとこではない
音色である
弦の一本一本が奏でる、この音色が好きなのだ
高校に入学したと同時に、初めて親に買って貰った中古ながら三万近くしたアコースティックギター……家の近くの古楽器屋で購入した
昔から音楽が好きだった俺は夢中になった
時間を忘れて、家で、近くの公園で、学校で……俺はアコースティックギターを持ってひたすら弾いていた
コードなんて全く分からなかった。ストロークも最初は上手く行くはずがなかった
そこらへんの知識は、ギター初心者のための本に頼ることにした
ピックの持ち方すら分からず、左手の指で弦を押さえて鳴らしてみても、気持ちのいい音は出ない
左手の指には豆が出来て、激痛を伴った
自分を戒めてるようで嫌気が差したが、それでもギターを弾くのを止めなかった
毎日ギターを弾いている内に、コードも少しずつ覚えていった
G、G7、D、D7、Dm、A、Am、Am7……
初めてのバレーコードはFだった
こいつにはやはり苦労した
人差し指で1フラット全てを押さえるのが難しくって、かなり苦労したことを覚えている
初めて曲を弾けたときは、嬉しかった
興奮して何度も同じ曲ばかり弾いて、そのメロディーに合わせて口ずさんで歌っていた
…………
こうして思い出すと、俺は音楽が本当に好きだったのだ
挫折したときは初心に振り返るといいとは聞くが、感じるのは虚しさだけだった
何が夢だ
何が理想だ
そんなもの、くそくらえだ
心の中でそう呟いてみた
早く家に帰って、やけ酒にありつきたい気分だった。嫌なことなんか全部忘れて、酔っ払って、眠って……
あぁ、もういっそのことそのまま永遠に眠ってしまえばいい
この想いを歌にするなら、何と歌おうかと考えた
メロディーに乗せて歌えるなら、どんな歌になるかと考えた
自分で作った歌を心の中で歌ってみた
自分で作ったものだからか、いい歌に聞こえる
ずっと抱いていた夢があった
長年抱き続けていた夢があった
この国を代表する歌手たちのように
みんなに希望をもたせる素晴らしい歌手になりたい
自分の想いを歌にして
人々に夢を与えるような歌手になりたい
言葉で言うだけなら誰でも出来る
実際に叶えるのが難しい
何度も足を運んだ
名のあるレコード会社に、夢と希望を持ち込んだ
俺の目の前にいる、くそむかつく態度を取っている中年親父
偉そうに椅子に座って、足を組み、俺の歌が乗っている楽譜を殆ど目を通さず一言
本当に一言だけ
「はっきり言ってね……才能ないよ」
「……え?」
そんなこと言われて、俺は戸惑いを隠せなかった。殆ど目を通されずに、そんなことを言われたのだからたまったもんじゃない
「この程度の曲なんかじゃね、流行らないの。正直嘗めすぎだね、うん」
どこがどう悪いのか、どうすれば良くなるのか、それすらも言わずにぶっきらぼうに楽譜を俺に突き返してきた
「冷やかしなら帰ってよ。こっちはそういうのに構ってる暇はないの」
どうせ赤の他人だ。俺の音楽性を理解してもらえるはずがない
しかもこんな中年親父になんかに言われると、募るのは喪失感よりも怒りだ
俺は諦めずに、色々なレコード会社に足を運んだ
ストリートで行き交う人々に向けて歌い続けた
メンバーと曲を何度も書き直したりして、激しく口論をして、行き着いた曲を……誰かに認めてもらいたい
ただ誰かに認めてもらいたい
俺の……俺らの音楽をっ!
当人達が諦めない限り……
俺は一度立ち止まって、胸ポケットに入れていたタバコを取り出した。タバコをくわえて、百円ライターで火をつけてから、煙を吐き出した
胸くそ悪い
一バンドのヴォーカルとして三年頑張ってきた
その結果がこれか
くだらない
所詮俺には音楽の才能も、夢を掴み取るための運もなかったのだ
この今俺が吐き出している煙のように、夢とは儚く消えていくものなのだ
人の夢と書いて、儚いと書くのだから
「なぁ、色々考えたんだけどさ……」
今日、それは突然だった。バンドを組んでいたメンバー、4人でファミリーレストランで夕食を取っているときだ
「俺らさ……解散しね?」
全員が息を呑んだ
いつその話題が出るか、全員が感じ取っていたから
「三年間、必死に頑張ってきたけどさ……もう、終わりにしよう」
俺以外の二人は黙り込んでいた。俺は自分の中で沸々と怒りが込み上げてくるのが分かった
「俺……さ、今更だけど……就活してるんだ」
そいつはそう言って静かに話した
「この間、三流会社だけど面接通った」
そいつは、俺らに黙って金融会社に就職したらしい
「お前らも、今みたいに夢ばっか追いかけて、売れない曲を作って、一生フリーターってわけにもいかないだろ?だから……そろそろ踏ん切りをつけるべきだと思う」
俺は気づけば、そいつを殴り倒そうとしていた
煙草の火を消して、再び歩き出そうとした。と、そのとき鼻の先に冷たい感触を感じた
空を見上げてみれば、冷たい雨が降り出した
街を歩く人々は、濡れないように手持ちの鞄などで頭の上を隠した
俺は小さくため息を吐いた
今日は降水確率は五十パーセントと天気予報では言っていた
とことん、俺はついていないのだ
走って家に向かっていた。すでに髪や服はびしょびしょに濡れている。思ったよりも強い雨で、お気に入りだったカジュアルなシャツはすっかり濡れてしまった
一番心配なのはギターがびしょびしょになることだ
ハードケースに入れてあるから、そこまで心配はいらないかもしれないが、帰ったらすぐにタオルで拭いてやろうか
だが、もうギターなんて使うことなんかないだろう
しかし本当についていない
家の近くにある信号が赤なので、俺は立ち止まって信号が変わるのを待っていた
この信号を渡ればもうすぐ家だ
数分後、信号の色が変わった
再び走り出して、信号を渡ろうとした
そのときだった
妙に耳五月蠅く鳴り響くクラクションの音が、俺の脳髄を貫いた
貫いたのは騒音ではない。激しい衝撃と痛みだった
いつの間にか俺の目の前が、水平に横になっていた
何だかとても冷たくって、眠たかった
激しい痛みを感じながら、俺は静かに目を閉じた
俺は本当にとことんついてないらしい……